望むと望まざるとにかかわらず、時は遅れることなく律儀に毎秒進み、その日は訪れる。いつもと同じ、決まった時間。毎週、あの女の家に行っていた。先週、もう来るなと言われて泣かれ、あれから何の連絡もなく今日を迎えた。性懲りもなく今週もまた、女の家の前に立っている。今日は何も持っていない。ただ、会いに来た。これで帰れと言われたら、今日で本当に最後だと心に決めて。
二人の間には確かに普通の男女の友情を超越した絆とでもいうモノが、あるにはある。けれどそれを明確にせずダラダラ年月だけを積み重ねてしまったからこそ、今回のようになってしまったのだと柴は思う。原因は自分にもあるし、少なからず相手にもある。何度もあった話す機会を有耶無耶にしてきたのは、柴だけではない。彼女が自分の身体のことで引け目を感じているのはわかっていたけれど、そんなことは柴にとってさして問題では無かった。一点の曇りもなく、エゴの塊であることは承知の上で言う。生きてそこにいてくれればそれでいい。手持ちの武器は何もなく、本当に今日は身一つでしかない。取り繕うもの全てを剥がれた、生身の柴登吾を彼女は受け入れてくれるだろうか。
しかしまあ決意はしたものの、正直、柴は自分でもびっくりするくらい尻込みしていた。かれこれ三十分は玄関前でうろついていて、そろそろ近隣住民に通報されるかもしれない。今度こそ本当に意を決したぞ、と柴は大きく息を吸って、吐いた。チェーンがかかっていたら、大人しく帰ろう。合鍵を鍵穴に差し込んで、ゆっくりと回す。カチリと音がして、鍵が開く。既に家人には、来訪者が誰だかわかっているだろう。頼む開いてくれと願いながら、ドアノブを回す。静かに引くと、つかえることなくドアが開いた。中から女の家の匂いがふわりと漂い、それだけで心臓が騒ぎ出す。柴の動きを伺うつもりなのか、家の中は物音ひとつせず静まり返ってる。音はしないのに、この先に女が居るとわかる、明らかな気配がそこにあった。
何事も無かったかのように振る舞い、できる限りいつも通りでいく。柴は自分に言い聞かせ、扉を大きく開けた。今だけは外の世界と中の世界が繋がっている。閉じたら二人きりになるから、もう後戻りはできない。
「邪魔するでー」
「邪魔するんやったら帰って」
声に若干抑揚が無いことが気になりつつも、お決まりの台詞が返ってきたことに、ほっと胸を撫でおろす。帰ってと言われてはいるが、これは一部の地域では定番の挨拶である。本心で帰れと言っているわけでは無いので、上がって良しの反応だと判断できる。それに、チェーンもされていない。ますます鼓動を早める胸を押えながら、バタンとわざとらしく大きな音を立てて扉を閉める。途端に外の世界とは隔絶されて、しんと静まり返った二人きりの空間に緊張感が増し、息を呑む。
うす暗い玄関で靴を揃え、ビーズカーテンのほうを見やる。ここからでは女の姿が見えず、居間の方へと行くしかない。いつもなら消えている電気が煌々と点いているのが気になるが、先へと進めばわかるだろう。ひたひたと物の怪のように足音を殺して、奥へ行く。これからの二人を変えるべく会いたいと思って来たのに、こんなに気が重いなんてことがあるだろうか。ここまできて会いたくない変わりたくないとさえ考えてしまうほど、かつてないくらいに怯えていた。何度も頭の中で繰り返した予行演習を再生しながら、ついにビーズカーテンをくぐる。妙に明るい照明が眩しく、女の表情が見えない。それも当然だ。女は玄関側へ背を向け、せっせと化粧をしていたのだから。いつものだらしないパジャマ姿でもなく、初めて見る華やかな服を着ている。耳元には清楚なイヤリングが付けられていて、柴の方へと顔を向けたらきらきらと輝き、揺らいだ。
「珍しいやん化粧なんかして」
「今日合コン行くねん」
ハァ⁉ と絶叫したくなる気持ちをなんとか堪え、柴はなんでもなさそうな顔をして、居間の椅子に座った。衝撃的な発言に内心慌てまくっているが、あからさまに驚くのも失礼だし、行くなと束縛する権利もない。合コンでもお見合いパーティでも、自由にどこへなりと行けばいい。けれど、言いたい。なんでやねん、と。
「そんなとこわざわざ行かんでも、男前がここにおるやん」
「ざんねーん。柴登吾さんだけはお断りしてまーす」
「柴登吾さんのええトコ、そのイチからヒャクまで、懇切丁寧に説明せなアカンみたいやね」
再び三面鏡とにらめっこを始める女の後頭部に向かって軽口を叩くと、ハハハと乾いた笑い声が聞こえてきた。一応相手をしてくれていることに、ほっと胸を撫でおろす。拒絶されている訳では無い。それだけは救いだった。
鏡越しに見える女の真剣な眼差しは、どこに向けられているのだろう。目を細めて鏡に近づいたと思えば、片方だけ目を瞑った。幸い利き手はよく動くため、スラスラと瞼の縁に線を引く様を柴は、頬杖を付いてぼんやりと眺めいた。パチリと目を閉じては開いて、化粧の具合を確認する。反対側も同じようにしたあと、上手くいったのか満足げに何度も瞬きをして、鏡に向かってにっこりと微笑む。頬に薄紅色の粉をはたくと、ぽっと色付く。まるで魔法だ。華やかに彩られていく女の顔が、知らない人みたいに見える。
女の背後に向かって視線を投げ続ける柴は、これ以上何を言えばいいのかと考えあぐねていた。本当のところ、もっと落ち込んでどんよりしていると思っていたのだ。お前には俺しかおらんやろ感を出すつもりは無いが、そのような考えが無かったというと嘘になる。確かに週に一度、女の家を訪ねる数時間以外は何も知らない。広げられた化粧道具を見る限り、今日みたいに化粧をして、どこかに出かけることもあったのだろう。なんだか柴がいなくても十分、生きていけそうに見える。彼女の言う通り一人で立てるし、なんでもできるに違いない。
女が唐突にポツリと漏らす。
「もう来んでいいって言うたのに」
「ここ座ってるだけやから、大目に見て。一言も喋らんと静かにしとくし」
いつもより華やかな目元が、力なく垂れて悲しそうに濡れていた。どんな表情も美しく、感情の発露さえも愛おしい。来てほしくないと本当に思っていたとしたら、さっさと出かけていればよかったのではないか。あの日みたいに内鍵を掛けていたら、諦めるつもりだった。それに、先日のように帰れとは言わない。歓迎されているというわけではなさそうだが、心底嫌がられてもいないこの状況を都合よく考えてしまう。
動きにくい半身をかばいながら、女が立つ。傍から見ていると危なっかしいが、当の本人は慣れているようで、よろめきながら台所へと向かう。この家に訪ねる者がないとき、一人で全部しなくてはならない。食べて、出して、眠って、繋ぐ。生きることは、生活すること。確かに女の言う通り、誰かの手を借りることなんて、ほとんど無いのだろう。そういう意味では、柴が来る意味も必要も無かった。
貰い物だという古い水屋箪笥から湯呑を二脚出し、急須に茶葉を二杯分入れる。台所で都合よく沸いていた湯を注ぎ、しばらく待つ。熱い茶が淹れられた揃いの湯呑の一つが、柴の前へと置かれた。
「一杯百億万円」
「そんな大金無いから、身体で払わせてもらうわ」
「ふぅん。何してくれんの?」
不敵に笑う女と、法外な値段の緑茶。ここにいることは許されている。今日だけじゃなく、これから先も、一緒にいることを許して欲しい。
「何でもするよ。ほんまに、何でもする」
「アホちゃう。じゃあ、死ねって言うたら死ぬん?」
「死んだら何もできんやろ。俺の渡せる、全部あげる」
自由にならない身体でも、大抵のことはできるだろう。一人でなんでもできてしまう女の支えになりたいだなんて、身勝手な我が儘でしかない。望まれてもいないのに押しかけて、好き勝手に世話を焼き、息苦しい思いをさせていたことを悔いている。ただ会いたい、声を聴きたい、顔が見たい。素直に告げられないまま年だけを重ね、妙な距離感の慣れ合いで傷つけ続けた。結局、彼女のままならなさに漬け込んだ自分のせいで、こうなってしまったとわかっている。本当は、彼女が柴のよりどころになっていた。かつてと姿かたちは変わったとしても、戦争で失った何かを埋めてくれる、かけがえのない大切なひと。
女は、湯呑から立ち昇る湯気の向こうにいる男をじっと見つめていた。身軽になって欲しくて別れを告げたのに、わざわざ重荷を背負いに戻ってくるなんて信じられないと思う。けれど、柴はこういう奴だとわかっていた。試すようなことをした自分の浅ましさを今になって恥じるが、もう事を起こしてしまったので後戻りはできない。動きにくいほうの手で湯呑を持ち上げてみる。うまく力が入らず、手元が震えてしまう。何もかもうまくいかない人生だと、女は思った。最近は、楽しかった昔のことばかりを思い出している。柴とまだ対等だった頃。駆け引きや口実なんてなく、ただ会って、話して、次の日の朝も顔を合わせる。それが当たり前だった、幸せなあの頃。
「……なんでこんな身体になったんやろ。あの時死んだらよかったのに」
「俺が死なせたくなかったから、命だけは助けてくれって医者に頼んだ。だから全部、俺のせい。君は何にも、悪くないよ」
女の目からぽろぽろと涙が零れ堕ちた。食卓にぽたりぽたりと音を立てて次々流れる涙を拭うことなく、ぼろぼろと泣いている。柴が席を立ち、女の隣に跪く。冷えた白い手をとり、包んでやる。本当は抱きしめたいが、長年染み付いた距離感をそう簡単に覆せなかった。ベッドから抱えて起こすという口実があればあんなにくっつくことができるのに、ただ触れたいだけでは、このていたらくだ。手の中で少しずつ温もりを取り戻す女の肌を感じながら、この歪な関係が可笑しくて仕方なく、笑ってしまいそうになる。いい歳をした大人二人が、見え透いた情愛から必死で目を逸らし続け、立ち往生している。
しばらくすると女の涙が引っ込んで、大きな溜息を吐いた。それからふふっと息を漏らして笑い、顔を上げた。せっかくの化粧はすっかり崩れ、目は真っ赤に充血している。この様子ではもう、合コンどころではない。ひどい顔をしていると女は慌てたが、そんなことはどうでもいいと柴が言って、女の手のひらに唇を寄せた。やわらかで穏やかな口付けだった。
「柴は優しすぎる」
「下心だらけの優しさや」
そう言うと女の手首に唇を当て、目を閉じて熱い吐息を漏らす。
二人して押さえてきた蓋が呆気なく開く。もう取り繕う必要はない。
***
翌週。いつもと同じ、決まった時間。約束しているわけではない。習慣になっているから、そうしている。柴が扉を開けると、玄関のすぐ向こうには、珍しく女がにこにこして立っていた。まだまだ寒いと言うのに妙に軽装だ。柴が訝し気に女を見ていると、唐突に動きにくい方の足を軸にして、くるりと回って見せた。
「急にめっちゃ動くやん!」
驚いた柴が大きな声を出すと、近所迷惑だと言って家に引き込まれた。そのまま手を取り、軽やかな足取りで引っ張っていく。なんでも、先週柴が帰ってから妙に身体が軽くなったのだという。うまく扱えなくなっていた玄力も元通り。医者に診てもらったところ、傷ついていた神経が長い年月を経て再生したのではないかと言われらしい。また、精神的なものも影響しているのではないかとも言われ、それに関しても心当たりがあった。
今までは途切れ途切れになる信号をなんとか拾ってぎこちなく動くだけだった半身が、自分の思い通りに動く久しぶりの感覚を女は楽しんでいた。これからは柴の隣に並び、歩幅を合わせられる。
「じゃあもう、遠慮はいらんってことやな」
「お手柔らかにね」
触れることにもう、理由はいらない。今までのぶんを取り返すべく、二人は長いこと抱き合った。