真っ白い壁。喉が痛い。あれ。私、いつから寝てたんだろう。
あ。人がいる。誰ですか。身体が痛い。起こしてください――。
「おはようございます。痛みは無いですか」
ド阿呆。無いわけないやろ! どこがって、全身。一番痛いのは喉。なんかえげつない棒みたいなの、突っ込まれてるんやって。それから、背中。腰。脚。多分、ここは病院やな――。そこまで思考が追い付いたとき、私は倒れてしまったんだとわかった。ってことは、どうにかこうにか、生きてるらしい。戦場に残っている仲間はどうなったのだろう。
意識が戻っては薄らぎ、誰かの声が聞こえたと思ったらまた聞こえなくなる。そんなことを何度か繰り返していた。ある時、喉に突っ込まれていた管がずるずると抜かれたら、これまでの世界が一変した。この世に産み落とされた赤ん坊が初めての呼吸をするときみたいに、拙い方法でしか息ができないけれど、あのとき私は生き返ったんだと思った。
***
来なくていいのに毎日面会に来る柴が、今日も来た。もちろん、来なくていいというのは建前で、来てくれるとめちゃくちゃ嬉しい。なんせ病院はやることが無くて暇すぎる。毎日三食昼寝付き。そりゃあまあ、合間のリハビリや回診なんかもあるけれど、基本的には自室でぼーっとテレビを眺めるくらいしかやることがない。二日前に退院した若者から譲り受けた小説も三周した。このフロアに患者用の図書室があると聞くが、この身体はまだ自由にならないから、そこまで一人で行けやしない。
「調子はどうや」
「全身が痛いし全然動かれへん。もう人生終わりや」
「昨日は地獄から舞い戻った死神や言うて、悪い顔で笑っとったやん」
「だってこっちの足がほんまに動けへんねんもん!」
どこでどうなったか記憶は曖昧だ。吹っ飛ばされた先にあったゴツゴツの岩にぶつかり、打ち所が悪かったのか半身の動きがすこぶる悪い。幸い脳に著しいダメージは無いと聞くが、抹消の神経損傷が激しく、医者曰く職場復帰は難しいという。上半身よりも下半身の踏ん張りが全然利かないから、一人で立つことさえままならない。
こうやって、人と話していると気が紛れる。柴でも毎日来てくれてありがたい。仕事どうしてんのか知らんけど、まそこはコイツなら、うまいことやっているんだろうと思う。
「そのうち動くようなるから安心しぃ」
「医者でもないのになんで柴にそんなことわかるん」
「俺くらいになったらな、なんでもわかんの」
人様の部屋ですっかりくつろぐ柴を横目に、盛大に溜息を吐く。よくもまあ、無責任に安心しろだなんて言えるなと思う。適当に励ましておいたら良いとでも考えているのだろう。柴は夜の病院の孤独を知らない。長い長い夜がくると、途端に不安に襲われる。忙しそうな看護師を呼び止める申し訳なさも、夜の病棟に響く誰かの泣き声も知らないから、そんな呑気なことが言えるんだ。
「柴もう帰れば」
「今来たとこやのに⁉」
「ナースコール取って」
「なんか用事あるんやったら俺が手伝おか」
ボタンに手を伸ばす私を制して得意げに胸を張り、なんでも言えという柴を睨みつけ、ナースコールを握りしめた。動かしやすいほうの手でさえ、なんとかボタンを押す程度の力しかない。日常のすべてが変わってしまったけれど、頭の中だけは以前のままで、なんでもできるみたいに感じてしまう。心と身体のちぐはぐさが不気味で恐ろしい。いつかこの身体に慣れるのだろうか。それとも、前の私に戻れるのだろうか。変わらない柴と、変わってしまった私。こんなになっても彼への気持ちがまだあって、己の未練がましさに吐き気を催す。
「……トイレ。まだ一人で行ったらあかんって言われてるから」
「よっしゃ。車椅子取ってきたるわ」
「なにがよっしゃ、や。ズボン下ろしてもらわなアカンからアンタの手伝いはいらん」
「目瞑ってやるから大丈夫や」
「柴でも一応男やし、一緒にトイレ入りたないねんけど」
「俺でも一応て、なんやねん! 俺かて立派な男の子や」
「いやもう看護師さん呼ぶし」
「ちょ、待て! 詰所誰もおらんしみんなめっちゃバタバタしてたから、車椅子乗るとこまでいっとこ」
「はよして漏れる」
押し問答の末、結局柴に押し切られてしまった。確かに、忙しそうにしているスタッフをボタン一つで呼びつけるなんて気が引ける。そんな言い訳をしながら、不自由な身体に動けと命じたのに、どうも反応は鈍い。布団から出たら、このみすぼらしい自分の四肢が白日の下にさらされてしまう。怖い。お願い見ないでと願うのに、目の前の男は私から視線を逸らさない。変な柄の半袖シャツから覗く腕は戦時中より逞しく鍛え上げられていて、衰えた己の肉体との対比に目眩を覚える。私は柴の、庇護対象になってしまったんだ。
ベッドに手をついて、少しずつ身体を起こしていく。半身が鉛のように重く、鈍い。不安そうに見つめる柴の視線には気づかないふりをする。情けなくて涙が零れそうな顔を見られてはいけない。
「一応、座るのはなんとかイケるねんけどなぁ。靴が一人で履かれへんのよ」
「貸してみ」
「いきなり動かさんといてな。足攣って痛い」
やっとの思いでベッドから足をおろす。真っ白なつま先を見てどんよりと暗い気持ちになる。靴下を履くことさえままらず、冷えて仕方がないけれど言い出せなかった。靴下を履かせて欲しいとお願いするのも申し訳ないし、こんなことさえできない自分も悲しいからだ。まるで自分じゃないみたいな身体をなんとかかんとか操ろうとしても、震えるばかりで力が入らない。脂肪も筋肉も落ちてやせ細った太ももや、ごっそり削げたノーブラの胸元を見ないで欲しい。
ペラペラのレンタル病衣から出る筋だらけの足に柴がそっと触れる。彼の体温がそのままうつり、温かくて泣きそうだ。入院生活で人に触られられるのには慣れたと思っていたけれど、特別な人の温度はどうも違う。触れる指先は誰よりも優しく、手のひらの温もりから無限の慈しみを感じてしまう。ろくに動けないくせに、なんとも厄介な身体である。
「……冷たい足や」
「こんなんでも、生かしてもらった身体やから」
「悪い」
ぽつりと漏らした柴の一言が胸を抉る。望んでこんな身体になったわけじゃないと叫びそうになったけれど、それを彼に言っても仕方がないとわかっている。誰かに当たり散らしたい気持ちをなんとか胸の内にしまい込み、諦めの言葉を吐く。誰のせいでもない。そういう流れの中に自分がたまたま居合わせて、すべきことをした。外見は結果としてはこうなったけれど、中身はまだ私のままだから安心してくれていい。いつまでも叶わぬ恋に身をやつしている阿呆な女だ。最近では、想うだけは勝手でしょ、と開き直ってさえいる。
目を伏せて苦しそうに漏らす柴の肩を小突いてみる。ばつが悪そうに顔をあげて、口をへの字にしてしょぼくれていた。いつものわざとらしさが微塵も感じられず、逆にこちらが申し訳なく思えてくる。
「なんにも悪ないわ! 謝るなボケ。別にしょげてへん」
「来たときヘコんどったやろが」
「たまには優しくしてもらおうと思っただけや」
「いっつも優しいで、俺は」
「もういいから。はよして漏れる」
まだ我慢せえと言いながら爆速で車椅子を押す柴に「アホか危ない!」と文句を言っていると、この病棟で一番怖いお局ナースがやってきた。途端にピタリと止まった柴の危険察知能力に感銘を受ける。さすが、あの戦争で生き残っただけはある。
結局、お局から師長に告げ口され、大目玉を喰らった。こうやって二人並んで怒られていると、また昔みたいに戻れるんじゃないかと思ってしまう。隣の男はわざとらしく「すみませんでしたァ!」と言いながら、美しい直角で頭を下げている。私も彼に倣って、曲がり切らない腰を曲げて謝罪のポーズをとってみる。ちらりと横目で柴を見ると、謝りながらも口元がニヤけていて、いつまで経っても変わらない彼の無茶苦茶ぶりに呆れ、釣られて笑ってしまった。