あとのまつり

第1話

 柴と女が出会ったのは、いつだっただろう。戦争よりも、ずっと前。まだ学生の頃だった。家がわりと近かったから、登下校で一緒になることが多かった。だから、他の生徒より話す機会があったし、その分お互いのことは他の友人たちよりも知っていた。女が意外と朝に弱いだとか、自転車を買い替えたとか、両親の職業や、兄妹の数。それから昨日の夕飯のこと、テストの点数。好きな人の話もしたし、別れ話の相談に乗ったことさえある。友人の一人で、特別によく会う。わざわざ約束して出かけることは無いけれど、休日に出かけるときでさえ道で出くわす。そこに他の友人より優位性を感じていたことは認める。けれど当時、確然たる恋愛感情は無かったように思う。この関係に周りは、なんだかんだと言って名前をつけたがっていたようだ。当の本人たちは、どうでもいいと思っていたけれど、噂になっていることはなんとなく知っていた。

 そんな青春時代、同じ刻を過ごした日々が、今となっては眩しく思う。大人になって戦争が起きて、何もかもが変わってしまった。戦争が無ければ、結婚していたかもしれない。そう思わないこともないが、それ以上考えると後悔ばかりになってしまうから、柴はいつも、この先の妄想は止めにしている。

「来たで~」
「もう。今日はいいって言ったやん。柴、ヒマなん? 無職? ちゃんと税金納めぇや」

 いつもと同じ、決まった時間。柴が玄関の鍵を開け、奥の部屋に向かって挨拶をする。返事の内容とは裏腹に、声は弾んで嬉しそうに聞こえた。待っていてくれたのか、そう思えてしまうほど、地声よりいくらか高く、一音がはっきりしていた。壁に向かって放たれた声が部屋や廊下で跳ねて、これは機嫌が良いに違いない。そう思った柴は、バレないように口元を綻ばせた。実家にあるような古めかしいビーズカーテンをくぐると、女が身体を起こそうとベッドでもがいているところだった。

「えー。ひどいわぁ。そんなん言うんやったら、コレはもう、いらんってことやな」
「あーッ、それ! ナントカの百貨店限定のチョコレートのヤツやん! いる! いります!」

 柴によって高らかに掲げられた紙袋を見上げ、女は動きやすい方の手を伸ばした。柴の長身の、更に上。全然届くわけなどないというのに、女は膝を立てて踏ん張りながら上半身を起こし、更に手を伸ばそうと躍起になっている。女がぐねぐねと蠢く姿を見て柴は、なんだか自分がひどく意地悪な奴に思えてしまった。もちろん、そんな意図はない。けれど事実として彼女の身体は自由にならず、そこを結果的にからかいの対象にしてしまったことを恥じ、紙袋を下ろした。

「でもなあ。今日はいいって言われたし、もう帰ろかなァ。寒空の野外に開店二時間前から整理券並んで、や~っと買えたけど、これは六平にあげるわ。男二人で限定チョコ貪り食うわ、残念やけど」
「ごめんって! 冗談やん。来てくれてありがとう、登吾くん。嬉しいでーす。いっつも、ありがとうネッ」

 女は棒読みの感謝を述べたあと、柴の手からサッとチョコレート入りの紙袋を奪い取り、さっそく中身を取り出して眺めている。箱を出しただけで甘い匂いが漂う。凝った造りの大仰な紙箱の中身は、六個入りのボンボンショコラだ。有名なショコラトリーのショコラティエがオーガニックでフェアトレードなのだという、一粒何百円もするチョコレート。意味は全くわからないが、先週そんな話を聞かされたから余程美味しいに違いないと思い、こうして苦労して買ってきたというわけだ。女は箱の中身を眺めながら、うっとりしている。結局、先ほどの柴の所業については何とも思っていないように見えた。

 寝転がりながらひとしきりチョコレートを眺めたあと、女が言う。

「悪いけど、起こしてくれへん。寒いからかな。足が、攣って、痛いねん」
「しゃあないな。どうせリハビリ、サボってんねやろ。先生にもっとビシバシやってくれ言うとくわ」
「サボってへんし。今日最低気温マイナス三℃やからやし。暖房のタイマーすんの忘れてたからやし」

 普段は不自由な身体ながらも自分でなんとか起きているというのに、女は柴がくるといつもこうだった。しゃあないなあ。そう思いながら女の表情を見ると、申し訳なさそうに眉を下げて、情けなく愛想笑いをしていた。そんな顔、しなくていい。いつだって手伝うし、どこにでも飛んでいく。さも助けられて当然みたいに、偉そうにしていて欲しいのに、女は柴の手を借りるとき、いつもヘラヘラしたり、苦笑いしたりする。それに対して何かうまいこと言って気持ちを軽くしてやりたいと思いながら、何も言えずに今日まで来ている。ベッドにごろんと仰向けになった女を見下ろし、柴は胸の奥を摑まれたみたいな痛みに耐えていた。こうなったのは誰のせいでもないと、いつも女は言う。いっそ誰かのせいにして恨み言でも言って、めちゃくちゃに暴れたほうがすっきりするのではないだろうかとさえ思うほど、一切弱音を吐かず、ひとりで暮らしている。

 女の肩甲骨と腸骨の少し上あたりに腕を差し込み、身体を密着させる。女の顔がすぐそばにあり、首筋からふわりと桃みたいな甘い香りが舞う。寝起きでぼさぼさしている髪からは、蜂蜜に似た匂いがする。寒がりのくせにペラペラに薄いパジャマの下には下着をつけておらず、布一枚隔てた向こうには女の肌が存在している。昔は触れることなんてできなかったのに、今はこうして簡単に触れられる。接したところからぽちゃぽちゃした女の肉を感じ、無意識のうちに身体が強張ってくる。しっかり抱えてやらないと、落として怪我でもしたら大変だ。ベッドに片足をかけて体幹を更にくっつけると、たいして大きくも無い女の胸が触れ、その柔らかさに、頭がどうにかなりそうだ。鼓動が早くなっていくのがわかる。情欲の制御ができない。こんなつもりで抱いているわけでは無いのに、自分の中にある邪な想いがいつも余計な感情をもたらし、混乱させてくる。

「起こすで。しっかり掴まっといてや」
「うん。いいよ」

 せえの、と大袈裟な掛け声とともに、柴が女の身体を抱えてベッドに座らせた。勢いだけで起こすと「乱暴や」と文句を言われるから、習った通りに足からゆっくりと降ろしてやる。数年前より、軽くなった気がする。戦場で倒れていた女の身体を抱きかかえたときから比べると、本当に小さくなってしまっている。ふう、とわざとらしく溜息を吐いて、一仕事終えた感を出す。だってこれは、君に触れるための口実ではないのだから。

「ありがとう。いつも、ごめんなあ」
「……急にしおらしく謝って、気色悪っ」
「チョコレートのためや」
「あっそ。コーヒー淹れるから台所借りるで」

 柴の背中に向かってイテテテ、と聞こえてくるが、いつも女自身が自分でなんとかしているから、任せておく。勝手知ったる他人の家。広くはないけれど、ひとりで暮らすには十分な家で、女は毎日どのように生活しているのだろう。

 まったくこの身体は何をするにも時間がかかると、うんざりした気持ちになる。シュンとうな垂れながら、女は攣っているほうの足の爪先を一生懸命引っ張った。少しずつ、突っ張った筋肉がほぐれていくのがわかる。寒いとよくこむら返りを起こす。寝ているときの姿勢もよくないらしい。

 柴が慣れた様子で戸棚から豆を取りだし、ミルで挽く様子を女はじっと眺めていた。若いころから知っている背中だが、大人になってからのほうがたくさん見ている。昔は横に並んで歩いたから、横顔を見ることが多かった。今はこうやって、背を向けられることが多い。いらないというのに溜まった洗い物をしたり、「練習や」とか言いながら料理をしたりする柴には、いつも背を向けられている。女が適当な理由をつけて動けないと嘘を吐いてベッドから起こしてもらうときと、コーヒーを飲むときだけ、向かい合ってくれる。どういう気持ちで家に来ているのか女は知っていたし、柴も女が気付いていることなんてわかっているはずだ。でもきっとその感情は、昔みたいに純粋な恋慕だけではないということは、お互い認めなくてはならない。長く生きていると、色々なしがらみが増えていく。捨てたくても捨てきれないお荷物に、自分はなりたくない。互いにそう思っているのだから、二人の気持ちがひとつになることはないのだろう。

 女一人のとき、コーヒーは飲まない。カフェインのせいで何度もトイレに行くのが煩わしいからだ。柴が来るから、とずっと用意してきた豆も、今日でもう無くなってしまう。いつも丁寧な接客をしてくれる近所の自家焙煎店のマスターには、既に挨拶を済ませてある。大きなマグカップ二つに、なみなみ注がれた液体とも今日でお別れだ。寂しくないわけなんてない。本当は未練たっぷりで、離れたくないと思っている。けれど、このままずっと彼の人生を自分に拘束するわけにはいかないと、ようやく決意できたのだから仕方がない。

 小さいテーブルに向かい合ってコーヒーを飲み、チョコレートを食べる。上品な甘さと、深入り豆の苦みがよく合っている。いつもと同じく、昔の思い出話をする。今の生活で楽しい話題なんてそうそう無いから、昔話ばかりになってしまう。それでも柴と過ごす時間は楽しくて、嬉しいから、ずっと断ち切れずにずるずる続けてしまい、女は申し訳なくて仕方がなかった。

「柴、もう来んでいいよ」

 玄関で靴を履く柴の背中に向かって、女が言う。寂しそうな震える声だから、振り向かなくてもどんな顔をしているかわかった。

「何言うてんねん。俺が来んってことは、オヤツ抜きってことやぞ」
「いや、ほんまに。来週からリハビリ増やして、ヘルパーさん来てもらうことにしてん。今は、色んなサービスあるしな。軍人恩給で悠々自適の生活やで、羨ましいやろ。だからもう、柴は来んでいいよ」

 ヘラヘラしながら言う女の顔には、血の気が無い。青白い唇を震えさせながら、心にもない言葉を紡いでいるなんてことは、誰が見たってわかる。なぜこんな馬鹿げたことを言いだしたんだと一瞬憤った柴だが、自分が女と同じ立場なら、きっと同じようなことを言っている気がすると思って、何も言えなくなった。十数年若ければ、感情のままに怒り、抱きしめて、愛の告白でもしただろう。今でもそうすれば、女は考え直してくれるだろうか。しかし、すぐそれができないのだから、歳を取ったな、と呆れるほかない。なんとか波風立てずに、このまま繋ぎ止めていたいという打算が働いてしまう。

「でも、一人で――」
「もう来んといて! 迷惑や!」

 柴の言葉を遮り、女が叫ぶ。空気は流れを止めて、今にも泣きだしそうな女をけしかけるみたいにヒヤリと冷えた。

「……俺が来たいから来てるだけやってんけど。長居はせんし、来週からはオヤツの配達屋だけやるし、それやったら迷惑ちゃうやろ」
「何のために? 私はもう、アンタなんかに会いたくない。頼んだ覚えもない。腐れ縁で今まで優しくしてくれてアリガト」
「そうか。悪かったな。そんな怒らんでもええやん」

 なんとかなだめようと、柴が手を伸ばす。女が手を振り払う。パシンと乾いた音が鳴って、二人の手がぶつかる。触れたところがジンジンと痺れ、熱く、痛い。

「も、来やん、といて……!」

 最後に触れた場所を覚えておこうと、女は薄っすらと赤くなったそこを、抱きかかえるように胸元で撫でた。

 なんとか平常心を保とうと己に言い聞かせ、柴は手を引っ込め、腕組みをした。女の冷えた手の温度が忘れられない。その手を温めてやることはもうできないかもしれないと、じわじわと湧いてくる諦めの気持ちを隠しつつ、努めて穏やかな声を出した。

「ちょっと、落ち着き。こけたら怪我するやろ」
「……大丈夫。ほんまは、一人で、起きれるから」

 女は壁にもたれてずるずると崩れ落ちた。そこからはもう、座ったまま何も言わなくなり、柴が何を言っても首を横に振るだけだった。一人にするしかない。頭を冷やしたら、落ち着くに違いない。こういうときヒトは、自分にとって都合のいいように考えがちだ。多分、大丈夫。きっと、元通り。

 結局、柴は「また」の約束をせず、女の家を出た。最低気温マイナス三℃だと聞いたが、外はみぞれがチラついていて風もすこぶる強く、体感温度はマイナス三十℃だ。寒いな、と思って空を見上げていたら、背中側の扉の向こうからガタゴト聞こえてきて、鍵が内側から閉められたあと、ガチャリと大きな音を立ててドアチェーンまでかけられた。合鍵を持っているから、いつだって入れると高を括っていたが、こうも明確な拒絶を示されて、次はどんな顔をして訪ねればよいのだろう。もういっそ、会わないほうがお互いのためかもしれないとまで考えたところで、この場に留まっていることさえ悪いような気がして、女の家から立ち去った。

 柴の足音が遠ざかっていくのがわかったら、女はぼろぼろと涙をこぼして泣いた。ひとしきり泣いたあと、結局これは自分のための涙だとわかり、途端に自己嫌悪に陥って、涙は枯れてしまった。

 いつも女は、腐れ縁と言った。柴は一回も、腐れ縁だなんて思ったことはなかった。もう来るなと言われても行き来続ける自信はあるが、今日みたいに泣かれるのは、一番堪える。無視されても、嫌われても、ただ会いたい。これが理由では、訪ねてはいけないのだろうか。それを言ったら女は、どんな顔をするのだろうか。

 大人になったほうが、何もかもうまくいかない。昔思い描いていた未来とは違い過ぎる現実を受け止めきれないまま、どっちつかずの関係を続けようとしていた罰が当たったのだろう。助けるとか、手伝うとか、そんな理由付けなんて無しにして、何も持たず、ただ会うだけでいいのだが。

 こんこんと降り始めた雪が、そこらに薄っすら積もり始めた。この雪が解けたころに会いに行くべきか、今から戻って愛してると言うべきか。動けないままの柴に落ちてくる雪は、強風に煽られすぐに飛んで行ってしまう。身を切るような寒さがさらに、人肌の温もりを思い出させる。

 君がいない人生は、こんなにも淋しい。