いっそ火花と散れたなら





 慚箱国獄の夏。朝の稽古を終えた漆羽が自室に戻ろうとふらふら歩いていると、とある一室の襖が中途半端に開いていた。ふと中を覗くと、女が浴衣を出してまじまじと眺めている姿があった。あまりにも真剣な顔つきをしているので何かあったのかと気にかかり、声をかける。はっとして振り返った女は漆羽の顔を見ると、ふわりと柔らかい笑みを浮かべた。それから碧色の浴衣に視線を戻し、困ったように眉を下げ苦笑いをした。

「祭りでもあるのか?」
「かき氷のお手伝いを頼まれたから、虫干しするんです」

 聞けば、この夏最後の祭りの手伝いをするという。そういえば、他の面々もそんな話をしていた気がする。伏見なんかは張り切ってたすき紐を引っ張り出していたが、その夜は夜営当番だと他のメンツに止められていたことを思い出し、漆羽はわずかに口元を緩めた。己の身もそうだが、守護者たちもまた慚箱に囚われているようなものだ。そんな彼らが少しの楽しみでも持つことができ、安堵したからだった。

「ふーん。夏祭りか。楽しそうだな」

 反対に女は、外の様子にあまり詳しくない漆羽に祭りの話をしてしまい、己の無神経さに気づいて眉を曇らせた。途端に手元の浴衣がくすんで見える。遊びに行くのではなく務めとしてのことではあるが、不用意に滲ませた祭りの情景に、自分でも浅はかだったと気付く。それをわかっていながら口にした言葉は、まるで無責任に願望を押しつけてしまったようで、舌の根を噛むような思いがした。

「漆羽さん……。私、お勤めとして行くんですよ」
「ずっとかき氷作ってるわけじゃないんだろ?」
「花火が上がる時間は暇だから、少し見て回っていいって聞いてますけど……」
「そりゃ良いな! 何時からだ?」

 茶化すような声色とニヤリと含みのある笑みを浮かべた男へ釘を刺すべく、女は視線を浴衣から漆羽へと移した。視線の先の男は咎めるような目線に気づいていない素振りをしながらも、ちらりと窺う様子もみせる。普段は無気力に過ごしているよう見えるくせに、本当は機微に聡いから誤魔化しがきかない。

「……漆羽さんは温泉から見てくださいね? 露天風呂から見えるんじゃないかって、伏見さんが言ってましたよ」
「そうか。楽しみにしてるよ」

 女は再び浴衣を見た。母から譲り受けた形見のそれ。流行りの色でもなければ浴衣で縁日なんて歳でもなく、もう二度と着ることはないと思っていた。改めて目にすると、漆羽の瞳と似た緑碧玉色が美しく、愛おしい気持ちがこみ上げる。それと同時に、捨てたはずの感情がざわついて苦しく思う。慚箱守護の任を命ぜられたときから、すべてと決別したはずではなかったか。
 浴衣をそっと撫でると、箪笥の中で少し湿気ているようだった。まるで己の現状だと、女は漆羽が去った部屋で一人自嘲した。

 しかし、いつまでも沈んでいるわけにはいかない。外に出てみると先週数日間降り続いた雨が嘘のように、ここ三日ほどはカラリと晴れて過ごしやすかった。気温は高いが日本の夏にしては湿気が少なく、洗濯を干すには最適な陽気だ。浴衣の風通しにもよいだろうと、室内に戻って衣紋掛けに袖を通す。広げてから改めて眺める。力強く深い緑色に、やはり彼を重ねてしまった愚かな自分の思考が憎い。

***

 夏もそろそろ終わりとはいえ、昼間の熱が冷めやらぬまま夏祭りが始まった。花火の打ち上げにはまだ時間があるけれど、浴衣姿の見物客で通りは賑々しい。かき氷屋台はというと、作っても作っても列は途絶えず、大盛況のてんてこ舞いだ。わざわざ遠方の氷屋から取り寄せただけあって、毎年この屋台のかき氷はきめ細やかで口当たりが良いと評判らしい。手拭いで汗をふきふき、カップに氷をかいていく。イチゴやみぞれ、練乳にあずき。次々に舞い込む注文をこなしながら、女は伏見からたすき紐を借りておいて本当に良かったと思った。

 いよいよ打ち上げ花火が始まると、客足は一気に途絶えてみんな空を眺めていた。ひゅるひゅると流れるような音に続き、威勢のいい破裂音のあと、大空に大輪が咲く。次々起こる感嘆のため息に一目見てみたくなり、たすき紐を解いた女が屋台の脇から顔をのぞかせた。丁度間の悪いことに、一人の男性客の背に視界が遮られ、更に一歩前へ出る。すると、男がくるりと振り返った。見慣れない柄の胸元から、女が視線を上へと移す。

 するとそこにいたのは、飄々と手をあげ、「よぉ」と挨拶をする、漆羽洋児だった。

「あれ!? なんでここに……⁉」
「たまにはいいだろ」

 見れば浴衣を着ているし、帯には刀ではなく扇子まで差して祭りを全力で楽しむつもりらしい。こんなことをして、もし悪漢に見つかりでもしたら――。妖刀契約者という重みを理解していないわけではないのに、たまにこういった無茶をする。今ごろ慚箱は大慌てだろう。女は慌てて駆け寄り、漆羽を制した。

「駄目ですよ! うるはさ――」
「名前で呼べばバレないんじゃないか?」

 言いかけたところで漆羽の大きな手が女の口を塞ぎ、もごもご口ごもることしかできない。確かにこんな人混みで軽率だったとはいえ、力づくで止めるなんて乱暴だ。それに、名前で呼ぶことなど、できっこないとわかっているくせに意地が悪い。

「そういう問題じゃ――」
「こっちだ」

 女が青ざめながら止めようと躍起になっているのに、漆羽は人混みとは逆方向を指差し歩き出した。ずんずん進んでいくので、全く追いつけない。人波に飲まれて見失ってはならないと、女が足早に追いかける。

「あっ、ちょッ……! 浴衣だから、走れないんですっ」
「ほら、手ェ貸せ」
「えっ……、手っ⁉ どこ行くんですか!?」

 見かねた漆羽が女の手を取る。白くて小さな手がすっぽりとおさまった。困惑した口ぶりの割にはしっかりと握り返してくる。突然のことに驚きつつも、言われるがまま付いてくるから、可愛らしいやら面白いやら。漆羽はつい声に出して笑ってしまった。
 危ないだの戻ろうだの言う女を引っ張りながら、「夏の最後の花火くらい、見たいと思って何が悪い」と漆羽が言う。確かに何も悪くはないし、楽しみの一つや二つ持ってもいい。珍しく何を言っても聞く耳持たず突っ走る背中を見つめながら、女は戸惑っていた。慚箱守護者として主を止めなくてはという義務感と、二人で花火を見てみたいという邪な想いがない交ぜになり、諦めの気持ちさえ湧いてくる始末だ。

***

 息を切らせて上った階段の先。ひと気のない神社の境内で、二人は顔を見合わせた。眉尻を下げて何か言いたげにしている女の口を塞いでしまおうかと過ったところで、漆羽は手を離した。

「ここなら誰も来ないだろ」
「それは、そうかもですけど……。もしも、漆羽さんに何かあったら――」
「しーっ。もうそろそろだ」

 さきほどまで盛大に上がっていたはずの花火はいっとき途絶え、そろそろ終盤らしい。通りの喧騒は少し遠く、奥の竹藪からは虫の音が聞こえてくる。木々の間を抜けてきた涼やかな風が頬を撫て、すうっと汗が引いていく。

「見えるか?」
「うーん、よく見えない……」

 笛のような音が一斉に聞こえたけれど、目の前にはやけにたくましく茂った葉ばかりだ。屈んでみたり背伸びしてみたりするが、花火の残光がほんの一瞬、隙間から零れるだけだった。

「もっとこっちに来いって」
「わ、わッ! も、やめてくださいよぉ……」

 強引な手つきで漆羽に肩を抱き寄せられ、二人の距離が零になった。呼吸さえ混じりそうなほど近づいて、触れ合っている部分の温度が急上昇していくのがわかり、恥ずかしさで顔を覆ってしまいたくなる。離れなければいけないとわかっているが、そうすると花火は見えないから――。見えない光ほど欲しくなるのは、きっと、どうしようもない人の性。
 木の葉の隙間から、光の筋が昇ってゆく。

「うわぁ……! 綺麗。すごい、ほんとに……!」
「こんなにたくさん上がるとは」

 漆羽が女に見えるか尋ねると、瞳を輝かせて何度も頷いた。いつもより近い距離で見る女の顔。瞬き一つだけでなく、仕草のすべてが胸に染みて、可愛いだなんて一言では足りなかった。晴れた夜空に大きな花火が満開となり、辺りを照らす。綺麗に咲いても、すぐにきらきらとした火の粉と共に消えてゆく。次々に打ちあがる菊や柳が、女の頬を美しく染める。

「私いま、感動してますっ……!」
「そりゃあ、抜け出してきた甲斐があった」
「あっ、そうだった。もう、漆羽さん! 私が怒られるんですから――」
「お小言はあと。もうそろそろだ」

 煌めく光に見とれる横顔ばかりを見つめながら、漆羽はもう隠すことなく表情を緩めた。女の視線の先を見る。夏の締めくくりともいえる、見事なスターマインが空一面に咲き誇っていた。

「きれい……。空に花が咲いてるみたい……」
「……今、クサい台詞言いそうになった」

 場の雰囲気に流されて、告げてしまってもいいかとさえ思った。寸でのところでとどまり、口を突いて出たのは気持ちを誤魔化す、情けなくて格好悪い言葉だった。漆羽は喉の奥で笑いを零す。かすかに口角をゆがめる表情を見て、女は漆羽から離れて、けらけらと笑った。

「アハハ!『君の方が綺麗だよ』って? 漆羽さんってロマンチストなんですね」
「笑うなよ……。浪漫を追い求めるのが男の性分だ」
「またそんなこと言って。並の女じゃ流されちゃいますよ。私でよかったですね」
「さすが慚箱守護者ともなると、手強いな……」

 最後の火花が散り、遠くから拍手と歓声が聞こえてきた。途端に辺りは真っ暗で、あんなに良く見えた女の表情が、神社の薄明りだけではもう、はっきりしなかった。それでも彼女を見つめる視線だけは、何一つ変わらない。先ほどまで確かにあった互いの体温はもう無いのに、頭の先から爪の先まで、熱が出たみたいに熱かった。漆羽がぽつり「暑いな」と漏らすと、女は顔を背けて「確かに」とだけ言った。彼女も同じように、真っ赤になっているに違いない。
 夜気にはまだ火薬の匂いが漂い、祭の余韻を感じさせる。夜空の彩はなくなったが、夏の夜はまだ続く。人の流れと共に、通りの活気も戻るだろう。

「花火が終わったから、みんな夜店に向かうかも。早く戻りましょう」

 思い出したように女は言うと、踵を返して通りのほうを指差した。

「こうなったら、漆羽さんもかき氷手伝ってくださいね」
「これだけ暑いと、よく売れるだろうな」

 今度は女が漆羽の手を取り先導した。危ないと言っても聞かず、女は慣れない下駄のせいか草むらで滑って転んでしまった。だから言ったのに、という口実のもと、女を胸元へと抱き寄せる。すぐに離れてしまったが、確かな感触だけは残っていた。
 ふと香った甘い匂いは、氷蜜のせいだと言う。いつぞや渡した練香水とよく似た香りの蜜があるものだと漆羽が言うと、女はプンとそっぽを向いて、それっきり何も話さなくなってしまった。
 夏の終わりに花火が見たかった。
 誰でも無い。あなたと、二人で。
 通りに出ると大勢の人で賑わっていた。こんなに混雑していては、もうしばらく手を繋いでいたほうがいいだろう。