いっそ二人で逃げようか





 漆羽は夢を見ていた。とても淫らな夢だった。まるで形が無くなったみたいにどろどろに溶けて心地いいかと思えば、身体の芯から痺れる性感が突き抜けて気が遠のきそうになる。ここ国獄で寝食を共にするあの女が漆羽に跨って跳ね、快感を貪る様をぼんやりと眺めながら、その細い腕を引き抱き寄せてみる。確かに感じる体温から人肌がここにあると思ったのに、手を取った瞬間、女は煙のように消えてしまった。
 ――クソッ。あんなこと、望んでないのに……!

 火照る肉体の昂りだけが取り残され、虚しい気持ちと共に目を覚ます。雪見障子から差し込む朝陽がはだけた寝間着の胸元を照らし、ほの温さを感じていたらしい。自覚しないよう気を付ければつけるほど、あの女を目で追っていた。言葉を交わすたび膨れ上がる感情を咎めて欲しいと願っても、誰も何も言ってくれない。ふさわしくない感情が芽吹き、ついには夢想するまでに成ってしまった。あの日から自分でも呆れるくらい無気力になっている、薄暗い心を照らす、温かな光。漆羽は女への慕情をどうしても捨てきれず、持て余していた。

 ある日の朝。なかなか起きてこない漆羽を心配した女が部屋を訪ねた。襖越しに声をかけたら許可があり、中に入ると敷きっぱなしの布団にだらしなく寝そべる漆羽の姿があった。いつも元気いっぱいということはないが、自分の身の回りはきれいに整えている人だったのにどうもおかしいと、女は漆羽の元へ駆け寄り体調を気遣う言葉をかける。すると唐突に女の腕が掴まれ、姿勢を崩して倒れ込みそうになった。なんとか振りほどいて体勢を整えていると、ぼんやりした表情の漆羽の腕が空を切る。まるで誰かを求めているみたいに手を伸ばしたけれど、誰にも届くことなく虚しく垂れた。女が何度か漆羽を呼ぶと、徐々に彼の瞳が色づいてくる。二人の目が合うと漆羽はみるみるうちに青ざめて、あられもない胸元を隠しながら、布団から這い出て遠ざかっていく。

「漆羽さん……? 大丈夫ですか?」
「なッ!? ……なんでもないッ。大丈夫だ!」
「……熱でもあるんじゃないですか」

 なんだかぼんやりしていますよ、と言いながら女が四つ這いで漆羽を追うと、ずるずると後退して障子にぶつかった。先ほどは真っ青だった顔色は生気を取り戻し、今度は反対に真っ赤になってしまっている。先ほどから様子がおかしい漆羽の側へ寄り、額に手を当ててみたけれど、女の手のひらとさほど変わらない温度だった。一体全体どうしたのだろうと漆羽の様子を伺ってみると、死んだ蛙みたいにだらりと開いた寝間着の隙間から下着が見えそうになり、女は気まずい思いをして目を逸らす。視線の先に気づいた漆羽は着衣を整えて女に背を向けた。

「平気だって言ってるだろ! 放っておいてくれッ……」
「……申し訳ありませんでした。少し心配だったもので」

 先ほどの淫夢のせいで治まっていない昂りを見られてしまったかもしれないと思うと、羞恥で倒れそうになる。よりにもよって、一番見られたくない相手だ。先ほどまで夢の中でまぐわっていた、漆羽の片恋相手、張本人なのだから――。

 漆羽がごそごそしていると、女は蚊の鳴くような声でもう一度謝ると、涙を啜るように何度か鼻を鳴らした。ぱたぱたと走り去る足音を聞き、頭を抱えてうずくまる。こんなに苦しく辛いのに、身体の中心部の熱は鎮まりそうにない。そっと手を伸ばすと信じられないくらい熱を持ち、窮屈そうに下着を押し上げて漆羽を急かす。
 ――何やってんだ俺は……!

 先ほどまで優しい温もりで照らしてくれた朝陽はもう行ってしまったから、室内は少し冷える。主を失って尚、ほの温い布団に再びもぐりこんだ漆羽は、何もかも忘れようともう一度目を閉じた。瞼の裏に女の悲しそうな顔が浮かぶのに、慰めてやるどころか声をかけることさえできない己のふがいなさを自覚すると、途端に悲しくなってくる。涙の一つでも零れたら楽になれるのに、それさえ叶わない。じんじんと痛む胸を押えつけながら、迫りくる夢へと逃げ込むように意識を手放した。

 その日の夜。夕食と風呂を終え、漆羽が自室で天井の染みをぼんやりと眺めていると、襖の向こうから女の声がした。少し元気がなさそうな声色にズキンと胸が痛む。意を決して襖を開けると、冷たい廊下に正座する女が漆羽を見上げた。決意の籠った眼差しから、もう後戻りできそうにない思いを感じて息が詰まる。

「朝のこと……。漆羽さんに謝りたくて」
「何を謝ることがある」
「大切なお身体に勝手に触れてしまって、申し訳ございませんでした」

 深々と頭を下げ、流れるように吐き出される言葉をすぐに理解できない。どう考えても朝の出来事で謝らなければならないのは、漆羽のほうだった。寝ぼけていたとはいえ女の腕を掴み床に引き入れようとした上に、心配する相手を突き放し、挙句の果てにはこのように謝らせてしまった。己のふがいなさに心底嫌気が差す。それは違うんだと弁解の言葉さえすぐに出てこず、漆羽はただ立ち尽くしている。頭を下げたままの女が床に向かって続けた。

「以前より、異動願を出しています。漆羽さんお優しいので、明日の人事発令をご覧になられたら、今朝のこと、気にされるかと――」
「取り消しだ。お前は何も悪くないだろ! 俺が先に手を出した」

 頭の中で女の言った言葉がぐるぐると渦巻いている。つまりそれは、ここから去るということではないか。咄嗟に取り消すとは言ったものの、そのような権限が自分に無いことはわかっていた。前から何か思い詰めていたのだとしたら、どうしてもっと早く言ってくれないんだと思ったが、それに気づかず夢の中では女をいいように弄んでいた身でそんなことは到底言えず、言葉を飲み込んだ。喉の辺りが焼けるように苦しいが、かける言葉が見つからない。

「お恥ずかしながら私には、……ずっと、漆羽さんへの、疚しい気持ちがありました。ですから……、ここにいては、いけないんです……」
「そんなもの、俺のほうがもっとある! お前を見るたび、胸が苦しい。これでわかっただろ。……頼むから、顔を上げてくれ」

 女が顔を上げると、目にはいっぱい涙を溜めていた。溢すまいと必死に堪えている。絞り出すように語られた言葉のひとつひとつが漆羽の胸を貫き、滲み出る想いがこの場を温かな空気へと変えていく。別れの挨拶をしているのに不思議なものだと思う。もう終わりなんだという諦めを孕み、これ以上を望まないという女の決意から温度を感じるのだろう。

「私のような者にまで、もったいないお言葉でございます」
「信じてくれないのか」
「そう言っていただけただけで十分です」
「行くなよ……」

 漆羽は膝をつき、女の頬に手を寄せた。静かに瞼が閉じられたら、ぽろりと涙が零れて漆羽の指に絡む。女は涙を流しながら微笑み、漆羽の手に自分の手を重ねた。愛おしそうに撫でながら、筋張った手の指先に唇を当てた。どうやっても忘れられないのだから、せめてこの温度だけでも、覚えておきたい。

「短い間でしたが、ありがとうございました。どうか、お幸せに」

 漆羽は女の唇をなぞり、形と感触と、温もりを確かめた。顔を歪めながらも、この瞬間を記憶に刻もうと必死だった。指先をくすぐる柔らかさをこのまま自分のものにしてしまいたい。けれど、ここに囚われている意味はよく理解している。漆羽は女の唇を弄ぶのをやめ、自分より小さな手を取り、そっと甲に口付けた。

 離すつもりは無いが、今は別れなければなるまい。漆羽は髪を解き、元結を渡した。女も同様に、簪を渡した。大切なものを分け合って、永遠を誓う。生きていれば、きっといつか、一緒になれるだろうと願って。