いっそ傷だけ遺してくれ





 冬の寒さもずいぶん和らぎ、日中は春の陽気を感じさせる。特に今日は朝からすっきりと晴れていて、陽がさす場所にいるとぽかぽかと暖かいほどだ。国獄に幽閉され早三年目。季節の巡りを感じてしまうほど、ここに暮らしたのだと漆羽は思った。いつもと同じ人間、同じ湯に慣れてしまった今が、虚しいのか穏やかなのかはわからない。

 ある日のこと。ふと訪れた玄関先で、女が四つ這いになり家具の底の隙間に手を突っ込み、四苦八苦していた。何をしているのか気になった漆羽が近づいていくと、どうやら何かを拾おうとしていることがわかった。全く、そんなところに何があるのだと呆れてしまう。普段はキビキビとした働きぶりのくせに、たまにこういった予想外の動きを見せてくるから目が離せない。どこかそそっかしい彼女のことを漆羽はいつも、少しだけ気に掛けていた。好意と呼ぶには未熟だが、友情とは明確に異なる不思議な感情だ。そんな女が悩まし気な声を出しながらもがいている姿を見て、ごくりと息を呑む。

「何やってんだ……」
「んッ、この、スキマに……、大切なもの、落としてしまったんですっ……」
「俺がとってやろう」

 ふぅ、と大きな溜息をひとつ吐いた女がのそのそと立ちあがる。それから、やれやれとわざとらしく困ったような表情を浮かべながら、ピシリと姿勢を正した。躊躇なく漆羽の横に並んだと思ったら、ずいと腕を差し出して並べた。ぴたりとくっついた白く細い腕にドキリと心臓が跳ねる。

「私の腕でやっとだから、漆羽さん無理ですよ」
「イッ!? そりゃあ、男と女なんだから、違うだろ!」
「なので、火ばさみ持ってきます」

 漆羽は慌てて腕を引き、胸元に寄せた。触れた部分にぞわりと鳥肌が立っているのがわかる。一方で女はなんとも思っていないのか、彼に背を向けスタスタと土間収納へと消えていった。漆羽はバクバクうるさい心臓に向かって鎮まれと言い聞かせながら、後ろ姿を追う。芯の強さを思わせる伸びた背筋を眺めながら、気持ちを整理しようとぐるぐる考えを巡らせた。

 ここ慚箱国獄には、女性はそれほど多くない。妖術の扱いについて性別はあまり関係無いものの、戦闘となるとやはりどうしても男が多くなってしまう。数少ない女性だから特別視してしまうのかもしれない。身長はそれほど高くないくせに並ぶと妙な圧があり、いつも漆羽は困惑させられていた。今だってほら、火ばさみを手にどんどん近づいて、目の前にいる。人様の眼前で火ばさみをカチカチさせ、自信たっぷりに頷きながら「これで一発です」とほくそ笑んでる。漆羽が半歩下がったら、彼女は一歩踏み込んでくる。本人としては冗談を言って戯れているだけなのかもしれないが、いつもいちいち距離が近い。こうやって毎度、勝手に追い詰められては、勝手に悶えているのだ。

「取れたか」
「うーん。暗くて……。ちょっと照らしてもらえます?」
「どうだ」
「んー……、見えません……」

 女は再び四つ這いになり家具の隙間に火ばさみを突っ込んでカチカチいわせた。底を攫うように左右へ振っても髪留めらしきものには当たらない。漆羽もしゃがみ込んで電灯で照らしてやってもまだ見つからないのだと言う。また悩ましい声を出して唸り始め、聞くまいとしても耳に入ってくる。よからぬ妄想に脳内が占拠されそうになり、漆羽は掻き消すように目を瞑って、頭を抱え、うずくまった。この場で転がり回りたい衝動に駆られるが、なんとか平静を保とうと深呼吸を数回。少し落ち着きを取り戻したところで目を開けると、キラリと奥のほうで何かが輝いた。彼女がいつも使っている髪留めだった。

「オイッ! そこにあるじゃねぇか」
「えっ。どこですか?」

 床にうずくまったままの二人がジタバタしながら隙間を照らして覗き込んでみる。指差すほうへ女が寄ると、二人の頭がゴツンとぶつかった。彼女が発した「ギャ!」という色気の欠片もない声さえ可愛らしく思えるのだから、この感情はタチが悪い。

「バッ!? そこ! あるだろ! 右の奥!」
「あっ、あった! 取れた! 取れました漆羽さん!」

 女が大切そうに胸に抱いた髪留めは、以前漆羽が彼女の誕生日に贈ったものだった。それ自体に特別な意味はなく、分け隔てなく皆の誕生日には贈り物をしている。幽閉された身で自由な外出さえままならないが、たまの気晴らしに出た街で見つけた蒔絵が美しい漆工の髪留めだ。それを〝大切なもの〟だと言ってくれ、愛おしそうに抱きしめている姿を見て、漆羽は得も言われぬ幸福感で満たされていた。

「お、おうッ。良かったな。これから出かけるのか?」
「はい。もうすぐ花まつりなので、その準備を」
「そうか。もうそんな季節がきたんだな」
「今年は草もちをいっぱい作るつもりです。漆羽さん、去年何回もおかわりしてましたもんね」

 くすくす笑いながら肘で漆羽の脇腹を小突く女を、もう止めることはなかった。こうやって、簡単に柔らかい場所へ手を伸ばして触れてきて、優しく包んで何もかも受け入れる女の強かさにいつも救われている。美しい蒔絵の髪留めを使い、慣れた手つきで髪を束ねると、いつもの見慣れた姿になった。

「……ッ! 異様にうまかったから仕方ないだろッ」
「私の力作ですから。それじゃあ、ありがとうございました。行ってきます」
「気を付けてな」

 ふわりと微笑むさまを見て、湧きあがる感情の正体を知る。もう言い訳できそうにない。この優しくも切ない恋慕はどこに仕舞っておくべきか。
 きっとどこへやったとしても、春の芽吹きと共に、何度も思い返すのだろう。