夕餉を終えた漆羽は風呂に入ろうと用意を終え、静かな廊下を歩いていた。今夜は雲一つないせいか、夜空には数えきれないくらいの星が瞬いている。春先とはいえ、夜はまだ冷える。ここ国獄には今や慚箱として一部地域に厳重な警備が敷かれているが、かつてはどこもかしこも大賑わいの温泉街であった。漆羽らが暮らす宿以外は今もなかなか盛況で、観光客がひっきりなしに訪れる人気の観光地だ。昼間はここまで街の活気が聞こえてくるほどだが、夜はこの世と隔絶されたみたいにひっそりと静まり返っている。
漆羽は女の部屋の前を通るとき、いつも忍び足だった。気付かれないよう、風のように立ち去る。そうでないと障子一枚隔てた向こうにいる存在を意識して、よからぬことを考えてしまいそうになる。
今宵も静かな夜だった。昨日一日中降り続いた雨のせいだろう。
そんな静けさを攫うように、障子の向こうから女の吐息が滲む。
「っ、く……」
「……?」
聞き間違いではない。明らかな湿り気を帯びたその吐息は、漆羽が密かに思いを寄せる、女のものだった。何をやっているのか想像するだけでも罪の意識に苛まれるのに、乱れることの無い一定の速度で聞こえる衣擦れの音で、朧気だった頭の中の身勝手な妄想が現実味を帯びてくる。
「はぁっ……、ン……っ」
「……ひとりで……⁉ ンぐッ!」
呟くように漏らしてから声が出ていたことに気付き、漆羽は慌てて口元を押さえた。ただ黙って聞き流せばいいものを立ち止まって聞き入ってしまっている自分に気付き、頭を抱えてうずくまる。
「っふ、ぁぅ……っ」
――やっぱり、アイツ、独りで……! 何やってんだ誰か来たらどうする!?
今すぐにここを立ち去って、何事も無かったふりをしなければならない。理性の言い分は理解していても、身体が動かない。それに自分が行ったあと、もし、他の誰かが通ったら――。この艶めかしい忍び声が他の誰かに聞かれることを想像して、漆羽は決意した。
何があっても、この秘密は俺が守らねばなるまい、と。
「……っ、うぅ……はぁ……、ンっ……」
――いや、待て待て待て……‼ 完全に聞こえてるだろ外に! 頼むから今は誰も来てくれるなよ!
そんな漆羽の気遣いなど露知らず、止むことなく声は零れ堕ちる。畳と衣服が擦れる一定の律動から、女が夢中でひとり遊びに興じている姿が手に取るようにわかり、赤面しながら俯く己にどうしようもなさを感じる。見てはいけないと目を逸らしていたが、ふと、あちら側から己の姿が見えているかもしれないと気付く。慌てて障子から離れ、うずくまる。なんだってこんなことになってしまったのだろう。聞きたくて聞いているわけではないと、漆羽は誰に聞かせるでもなく言い訳をした。
「も、だめぇっ……!」
――ダァくそっ! 早く終われッ!
見てみぬふりをして立ち去ることもできただろう。どうにも離れられないのは女が心配だからだと己を諭し、畳の上を蠢くような音をただ聞いている。好いた女の声がどんなふうに震えるかなんて知らないままでいたかった。知ってしまったら最後。どれだけ耳を塞いでも、欲しいものの声だけは聞こえてしまう。
ついに漆羽がたまらず中の様子を伺う。恐る恐る開けた目に映ったのは、障子越しにうすぼんやりと点いた灯りに浮く、ピンと伸びた女の足だった。短い呻き声のあと、バタリと崩れ落ちるような音が聞こえる。
――静かになったな……もう済んだか……?
――疲れて眠っちまったんだろ……だったら俺が朝までここに……。
――……いや、それじゃまるで、俺が変態みてェじゃねェか。クソ……!
漆羽が膝を抱えて自問自答していると、唐突にスルリと障子が開いた。ギクリと肩を震わせ、素早く起立した。声の方に視線を投げると、肌に汗を滲ませた女がきょとんと立っていた。
「あれ。漆羽さん。何やってるんですか?」
「ンな!? 何って、ただの通りすがりだッ! 俺は今から風呂に行くッ」
思いの外大きな声を出してしまい、咄嗟に目を瞑って口を押える。そんな漆羽を女は訝し気に覗き込む。刺さる視線に責められているような気がして、ごくりと生唾を呑みこんだ。漆羽が薄っすらと片目を開けると、茹るような色香を放つ女が月を背にして佇んでいた。首元にじわりと滲む汗に月明かりが煌めき、ぴたりと身体に沿った運動着が健康的なエロスを感じさせる。
――はてさて、運動着、とは。
「奇遇ですね。私も汗流そうかなって思ってました」
「勝手にしろ……!」
女曰く、ここのところ身体が思うように動かず、身のこなしを鍛えようと夜な夜な鍛錬していたのだという。戦闘要員ではないが、いざというとき、守られる側でありたくないのだという。なんと気丈なのだと感心している場合ではない。そんな真っ直ぐな想いなど露知らず、助平な妄想をしていたうえ、更にはまだ見ぬ敵から勝手に護るつもりでいた。そんな己の恥部を晒すわけにはいかないと、漆羽は唇を噛む。そしてダラダラと流れる冷や汗をぬぐいながら、足早に風呂場へと向かった。後を追うように女も続く。目的地は同じなのに、二人の間には不思議な距離ができていた。女にはわけがわからなかったが、久しぶりに生気みなぎる漆羽を見て、嬉しく思い微笑んだ。ここにきてからの彼はずっとどこか投げやりな様子だったから、いらぬ心配だとはわかっていても、気に掛けずにはいられなかったのだ。
たっぷりの温泉がとめどなく湧く、慚箱国獄の夜は静かだ。
汗を流し終え、冷えた爪先を湯につける。長湯をするには少し温度の高い湯に腰まで浸かり、女は天を仰いだ。
「すごい。星がきれい」
「……だな」
竹垣の向こうから聞こえた声は、さきほどとは違いとても穏やかだった。十数年前の戦争が嘘みたいに、水音しか聞こえない。少しとろみのある湯を肩にかけると、湯けむりが漂う水面が揺れる。熱い湯に溶けだしてしまいそうな思いを抱えたまま、二人はぽつりぽつりと壁越しに話した。取り留めも無い話をいくつかしたあと、女は再び夜空を見上げた。
「男湯からもよく見えますか?」
「ああ, よく見える。綺麗な夜空だ」
そこには変わらず満天の星が煌めいて、真っ暗な夜を美しく彩っている。
季節は巡り空が廻っても、自分はここに在る。また次の年の今日も、一緒であって欲しいと願うことは、もう許されてもよいのだろうか。
「私、こちらにご縁を頂けて幸せです」
「……俺も退屈しない」
女の弾むように嬉しそうな声が跳ねる。素朴で素直な言葉に胸を打たれ、つい想いを吐露しそうになり、漆羽はずぶずぶと湯に口元まで沈んだ。今夜の一連の勘違いで、己の不甲斐なさを嘆く。
――この温もりが、人肌であったなら。
国獄に湧く名湯よ。豊かに溢れるその温もりで、寂しい男を慰めてほしい。願わくば決して手を伸ばせぬ女への思いまでも、溶かして流してしまいたい。