豪華な朝食を食べ身支度を終えて宿を後にする。今日で六泊七日の旅が終わる。一人で旅をすることで得るものがあると考えて始めたこの旅行だが、宿や料理店、街で出会った人々との短いながらも温かい交流があってこそのものになった。それに行く先々で七海と何度も出会うという不思議な体験もした。月並みな感想だが人は一人では生きられず、誰かを支え、また支えられて成り立っているのだとわかる。進学も一人旅も自分は一人でもやれるんだという意思を示すために選んだのに、蓋を開けてみると真逆の結果が見えた。それでもなぜか晴れ晴れとした気持ちである。誰かの力を少しずつ借りて旅を成し遂げた今将来への漠然とした不安は消え、自分の進路は間違いないと確信することができたのだから。
最後は世界遺産にも指定されている海の中に浮かぶ大鳥居を見て帰る予定だ。寄り道をしながら目的地へと向かう。さすがに有名な観光地だけあって早朝から観光客は多く、人気の高さが伺える。まもなく満潮とあって人々はカメラのシャッターを向け、その幻想的な風景を写真に収めていた。彼女もまたスマートフォンを取り出して撮影しようとカメラモードを起動したとき、聞き覚えのある声が頭の上から降ってきた。
「撮りましょうか」
はっとして振り返ると、そこには七海が立っていた。彼女はきっと間抜けな顔をして驚いていたのだろう。七海は口元に手を当てて笑いながら言った。
「もう会えないかと思いました」
「信じられない! 本物ですか?」
七海は少し間を開けて頷き、右手を差し出した。彼女はスマートフォンを七海へと手渡すと後ろ手を組んでピシッと前を向いた。二度シャッター音が鳴った。中を覗き込むと晴れやかな笑顔を浮かべる自分の姿が映し出されている。礼を述べた後何を言おうかと迷っていると、七海が彼女より先に口を開く。
「展望台で会ったとき、きちんと挨拶できなかったのが心残りだったんです」
「私も。あの時バタバタ出発してご挨拶ができなかったことを悔やんでました。一本道の海道を抜けたら、もう二度と会えないんだって後から気づいて……」
彼女がそこまで言うと、七海は穏やかな笑みを浮かべて歩き出した。一緒に行こうと誘われているようで、彼女はその後ろについて歩く。
「別れの挨拶をしなかったからこそ、こうして再会できたのかもしれません」
彼女は目を輝かせて頷いた。
それから二人は一緒に参道を進んだ。スイスイと人混みを掻き分けて歩く七海を追いかけながら左斜め後ろの彼女がぼやく。
「さすがに人が多いですね」
背が高い上に金髪、サングラスをかけた目立つ風貌の男を人々は無意識に避けているようだった。その余波が後方へと流れてきて彼女は人波に揉まれていた。
「私の後ろに来ては」
「それじゃあ前が見えないです」
拗ねた口調で言う彼女を見て七海はそれもそうだと言って薄い唇を真一文字に結んだ。手でも繋げばよかったのだろうが、二人とも言い出せず横並びになって歩き出す。だってまだお互いに名乗ってさえいない。あんなに何度も会ったにも関わらず、二人は名を呼び合ったことは無かった。
「水族館へ行こうと思ってるんですけど、お兄さんは?」
「私は周辺の寺院を巡ってロープウェイに乗ろうかと。水族館は昨日行ったんです」
彼女は昨日の自分を悔やんだ。午後から急いで見回らずともよかったのだ。そうしたら、今日七海と一緒に回れたかもしれないのに。
「私も昨日行けばよかった!」
彼女は七海を見上げながら湿っぽい瞳を揺らす。まるで今にも泣き出しそうな子どものようだった。七海は反射的に彼女へと手を伸ばそうとしたが、腕が胸の高さまで上がった時にぐっと眉間に皺を寄せ伸ばしかけた腕を自分の胸元へと引っ込めた。そして開いた手を緩く握り小さなため息を吐いた。彼女はというと残念だと思う気持ちを隠すことなくがっくりと項垂れている。七海が水族館の見どころを教えてやると、興味深そうに聞いていた。それから二人は少し黙り込んだ。少し混雑が緩やかな広場へ出た時、七海がポケットから薄くて小さな紙袋を取り出し彼女へと差し出した。袋に張られたテープには水族館の名前が書かれている。
「もし良かったら貰ってください」
彼女は厚みが全くない紙袋を不思議そうに眺めてから、そっとテープをはがして中に入っているものを見た。袋を覗き込みながら美しく並んだ歯を出して笑うと、細い指で可愛らしいイラストが描かれたイルカの栞を摘まんで出した。
「形に残るものはいらないと言っていたので返してもらっても構いませんが」
七海が少し困ったような表情で呟く。
「いえ、頂きます。嬉しいです。ありがとうございます」
彼女は栞をガイドブックに挟みそのまま鞄の中を見渡した。小さなため息をついて残念そうに言う。
「でも私には渡すものが何もないです」
「旅の思い出を沢山貰いました」
「かっこつけたこと言ってないで何か買えばよかった」
彼女が唇を尖らせてぼやく。その様子を見て七海は小さく息を漏らしながら笑った。
参拝順路を抜けると土産物店や料理店が立ち並ぶ通りへと出る。七海は道路の脇へと寄ると彼女を手招きして呼んだ。
「少し早いですが、昼食を一緒にいかがですか」
彼女は嬉しそうに首を縦に何度も振って頷いた。それからランチ営業が始まったばかりの牡蠣料理の店へ入って二人は向き合ってメニュー表を見た。七海は牡蠣飯やカキフライなど看板料理を一通り頼んだ。彼女はそんなに食べられないと止めたが、七海は大丈夫だと言って笑った。料理を待つ間、二人は旅の思い出を語り合う。同じ一本道の海道を通っていたはずだが行った場所や見た風景は全然違っていた。それでも先々で出会えた奇跡を改めて噛みしめる。こんな経験は後にも先にも無いだろう。
彼女は突然思い出したように七海に告げる。
「四月から大学生になるんです」
「私は転職します」
境遇も同じだと彼女は満面の笑みで答えた。それから七海はあまり自分のことは語らなかったが、彼女が話すのを頷きながら聞いた。彼女は会社勤めをしながら勉強するのが大変だったことを話した。社会人と受験生という二足の草鞋を履いての生活に疲れ切って会社で居眠りをしていたら人事評価が下がったとこぼす。七海は努力したことは認めるが評価が下がるのは致し方がないと言った。まったくその通りだったので返す言葉もなく、苦虫を嚙み潰したような顔で七海を見る。それから彼女は旅路を振り返りながら、四月からの大学生活が楽しみになったと言って晴れやかな顔で笑った。そうこうしているうちに料理が次々と運ばれてきたので二人は黙々と食べた。途中で彼女はリタイアしたが七海は運ばれた料理をすべて食べきって、だから大丈夫だと言っただろうとでも言いたげに少し得意げな表情をした。
店を出ると至る所に行列が出来ていた。タイミングが良かったと二人は微笑みあった。
それからしばらく歩くと分かれ道へとたどり着く。ロープウェイはあっちだと彼女が言うと、水族館は反対方向だと七海が指さした。いよいよ別れの時がやってきた。
「お兄さんに出合えて良かったです。楽しい旅になりました。ありがとう」
彼女が別れの挨拶をすると七海はほんの少しだけ眉尻を下げた。自分から言いたかったのか別れを惜しんでいるのか、その表情からは読み取れない。彼女がじっと七海を見つめていると一度深く呼吸を整えてから口を開く。
「あなたに会えて良かった。不思議な気持ちです。ありがとうございます」
爽やかな笑みを浮かべて右手を差し出したので彼女も手を伸ばすと、大きく温かい七海の手と少し冷えた小さい彼女の手が触れ合い、硬い握手を交わす。
「「さようなら。またどこかで」」
二人はお辞儀をしてから歩き出す。振り返るまいと思っていたのに、もう会えない寂しさから彼女は振り返った。すると七海も振り返っていたので、二人は手を振りあった。それから再び背を向けて歩き出す。彼女は一人になると頬が緩んでいることがなんとなく気恥ずかしくなって、口元を押えて歩いた。
楽しい思い出は胸の中へ。彼女は新しい生活が楽しみだと心を弾ませた。
乗ってきたフェリーで本州へ渡り、電車を乗り継いで新幹線の駅へとたどり着く。指定席へ乗り込むとガイドブックを見返した。挟んだ栞を指でなぞる。形に残るものは手元に残さないと決めたのは、土産物を見るたびに楽しかった日々を反芻して寂しく感じるのではないかと思ったからだ。でもそれは間違いだったと気づく。なぜなら今、こんなにも楽しい気持ちになっているのだから。きっとこの先何があっても、この栞を見るたびに今回の旅路と七海のことを思い出す。それは素晴らしいことなのだ。だから、みんな思い出を品に変えて残すのだろう。
やがて新幹線は発車して彼女を東京へと連れ戻した。しばらくぶりの自宅に帰るとそこは変わらず雑然としていたが、ほっとした気持ちにもなった。荷物はそのままにしてシャワーを浴び、たくさんの積読の中から旅行記を探し出しページを捲る。半分ほど読み進めたところで眠くなったので電気を消した。こんなにも満たされた気持ちで眠りにつくのは生まれて初めてだ。