元気がいい中年夫婦が営む民宿で一夜を明かす。昨夜は新鮮な海鮮料理が食べきれないほど出てきてお酒もすすんだ。おすすめの日本酒があまりにも飲みやすく、結構な量を飲んだのだが、それでもすっきりと目覚めることができたので料理と酒の相性が良かったのだろうと寝起きの頭でぼんやりと考えた。
宿を出て旅の相棒である電動自転車に乗り込む。今日はついにこの海道を抜け、島巡りを終える。朝の空気は冷たいが陽が差すと上着を脱ぎたくなるほど暖かい。道なりにしばらく進むとこじんまりとした道の駅があったのでソフトクリームを食べた。それから海沿いをさらに行って途中で山道へと入り小さな池とお地蔵様の側までくると、休憩するため自転車から降りて石段に座る。ペットボトルのコーヒーを飲みながら七海に貰ったレモンサブレを取り出す。一口かじるとサクサクした食感と共にレモンの爽やかな香りが口いっぱいに広がった。甘みのあるサブレ生地に練りこまれたレモンの果皮がほろ苦く、少し大人の味がした。自分用に買ったレモンケーキも開ける。しっとりとした生地の中に酸味の強いジャムが入っていて想像以上にパンチのある味だ。コーヒーより紅茶にすればよかったと思いながらペットボトルの蓋を閉めた。七海もどこかで酸っぱい顔をしながらこのレモンケーキを食べているだろうか。
休憩を終えて山道を下り再び海沿いに出ると、何かの養殖場が見えた。従業員がせっせと手入れをしているのを少し眺めてから、小高い丘の上のある食堂に入って刺身定食を昼食にする。それからまた海沿いに進みながら道中の海岸にもしかしたら七海がいるかもしれないと覗いてみるが、彼の姿は見当たらなかった。
ついに最後の島へと到着した。街並み眺めながら展望台へと向かう。勾配の緩やかな階段をしばらく上ると小さな山の上へとたどり着く。展望台に上ると風が強く吹いていた。北東には彼女が進んできた島々が遠くに浮かんでおり、南西を見るとこれから向かう街が見える。かなりの距離を三日間かけて自転車で進んできたとしみじみ思う。道中を思い出して物思いに耽っていると、後ろから誰かが近づく足音が聞こえた。もしかしたら七海かもしれないと心臓は鼓動を速める。どきどきしながら振り向くと、足音は一人分だったのにまったく同じ歩調で歩いてきたのかそこには初老の夫婦が二人歩いていた。仲睦まじく腕を組み、彼女の方を向いて柔らかに微笑んで「こんにちは」と挨拶をする。彼女は短く挨拶を返すと展望台の特等席を彼らに譲った。
「待ち合わせですか」
美しい白髪の老女が彼女に問いかける。
「いえ、そうじゃないんですけど……」
彼女は口ごもりながら視線を泳がせる。そんなにわかりやすい表情をしてしまってなんと失礼だろうと恥ずかしく思った。
「振り返った時のお顔、とっても嬉しそうだったから。だから、誰かを待っているのかと思ったの」
老女は手を口元に当て上品に笑い、「会えるといいわね」と言って夫と並んでベンチに腰掛けて南東の海を眺めた。彼女は柵に肘をついて北西の海を眺めている。風はいつの間にか止み遠くの波音だけが聞こえる静かな世界が広がっていた。海鳥が数羽空を飛んでいる。彼女は自分もあんな風に羽ばたけるだろうかと思った。世の中の歯車になることはなんと馬鹿らしいのだと思っていたが、いざ退職し組織から放たれると途端に不安に襲われる。個としての自分は何も持たず裸に近い状態で社会の中に放り出された今、一人で戦っていける気がしない。それを打破するため働きながら死に物狂いで勉強してもぎ取った進路だが、果たして自分のような持たざる者が六年間もの学生生活を最後まで走り終えることができるのだろうか。旅の終わりは確実に近づいている。自分の人生の答えを得るための旅だったが、その答えをまだ見つけられていない。ベンチを見ると老夫婦はいつの間にかいなくなっていた。
また少し風が出てきてさわさわと草木が揺れ始める。そろそろ日が落ちてきそうな時刻になり気温も下がってきた。出発しなくてはと振り返ると、低くなった太陽を背にして七海が立っていた。彼女は驚いて目をぱちぱちと瞬かせ、両手で口を塞ぎ叫びだしそうになるのをぐっと堪えた。目を細めて七海が言う。
「見つけた」
「わあ! 今日はダメかと思いました」
七海は彼女を探していたのだろうか。それとも偶然だろうか。どちらにせよ二人は行く先々で出会った。これは一体何を意味するのだろう。
「レモンケーキ、酸っぱくて美味しかったです」
「サブレもほろ苦くて美味しかったですよ。ありがとうございます」
ふっと息を漏らして七海が笑う。そして彼女の隣へと並び来た道を思い出すかのように遠くの海を眺めた。それから彼女の方を向き、ぽつりと小さな声で話し始める。
「さっきすれ違った老夫婦に待っている人がいると言われました。きっとあなたのことだと思った」
「私は、待ち合わせをしているのかと聞かれました」
「待っててくれたんですか」
「会えたらいいなと思ってました」
太陽が水平線に沈み始めると、空は橙色に染まってゆく。少しずつ辺りは燃え盛るような茜色へと侵食され、空に浮かぶ雲が夕日を映して朱くなる。もうすぐ日が暮れる時間だ。
「行かないと。実はチェックイン時間を過ぎてるんです」
「もうすぐ暗くなる。送りましょうか」
「ありがとうございます。でも、私の旅の相棒を置き去りにできませんから」
「それもそうですね。お気をつけて」
夕日に照らされた木々が囲む階段を二人で降りると、さらに日没が迫っていることがわかった。沈みゆく太陽が最後だと言わんばかりに燃えていたからだ。別れの挨拶をすると同じ方向へと進む。七海の乗った車はしばらく並走してくれたが、後ろから農作業を終えたであろう軽トラックが来たので先日同様に短くクラクションを鳴らして窓から手を振り、スピードを上げて先に行ってしまった。一度信号待ちで追いつきかけたが、やはり車についていくことはできない。宿泊先へと続く最後の橋に差し掛かると七海の車は更に先へと進んでいって、やがてどこかで曲がってついには見えなくなった。きっとまた会える。そう信じることで寂しい気持ちを誤魔化した。
宿へ着くとお洒落な若い夫婦と二人の幼児が迎えてくれた。古民家を改築して家族で二部屋だけの民宿を経営しているそうだ。あまりにも遅かったので心配していたのだと言う。少し寄り道していたというと、安心したと言って部屋へと招き入れてくれた。まだ夜は肌寒いので土間の薪ストーブには火が灯っている。
その夜は家族とともに食事をした。旅人に慣れている子どもたちは人懐っこく、最初は彼女の話を聞きたがった。しばらく夫婦と話し込んでいると子どもたちは大人達の話に飽きてしまい、一緒に遊ぼうとおもちゃを持ってきて彼女の気を引くため袖口を引っ張る。母親はそれを咎めたが、彼女は話すのをやめて子どもたちに付き合い少し遊んでやった。自分にも子がいたらこんな感じなのかもしれないと想像して彼女は頬を緩めた。しばらくすると子どもは寝る時間だと両親に諭され、渋々おやすみなさいと言って父親と共に寝室へと消えた。父が寝かしつけることになっているとオーナーの妻は言う。
子どもたちが眠った後には静かな夜が訪れる。寝室から出てきたオーナーは一仕事終えたと言って冷蔵庫から冷えた缶ビールを取り出した。彼女には地元で作られたクラフトビールの瓶を手渡すと、乾杯しましょうと言ってにこやかに微笑んだ。実は三人目を妊娠しているというオーナーの妻は自家製レモンジャムを入れたレモネードを飲んだ。夫婦が旅の話の続きを聞きたがったのでどこまで話したかと思い出す。三日目の浜辺の話のあたりで彼女は「すごく不思議な話なんですけど」と前置きをして、この旅を始めた時から何度も同じ男性に会っていると告白した。夫婦は目を丸くして話の続きを促し、彼女は噛みしめるように航路を思い出しながら旅の思い出を語った。夫婦は「おぉ」やら「えぇ」やら相槌を打って彼女の話にのめりこんでいる。最後に展望台で別れたと言って話し終えると、夫婦は顔を見合わせてうっとりとほほ笑んだ。
「それはもう、運命ですよ」
目を輝かせてオーナーの妻が言う。彼女はやはりそうなのかもしれないと思って頬を赤らめ、ホットワインが入ったマグカップで顔を隠しながら照れ笑いをした。心温まる夜だった。