前日七海と別れてから彼女は自転車でのんびりと次の島を散策し、夕方遅くに北欧風のこじんまりとしたペンションへチェックインした。慣れない長距離自転車の疲れを風呂で癒した後、大阪のホテルでシェフをしていたというオーナー自慢のディナーを食べ一杯だけワインを飲んですぐに眠った。
いつもあまり夢は見ないのに、その夜は不思議な夢を見た。化け物に追いかけられて泣きながら逃げているところに黄金の光が射して、何者かに助けられるというものだった。会社を辞めて、これから始まる新生活に不安を感じていないわけでは無い。深層心理にある何かがこのような夢を見せたのだろう。彼女は社会人入試を経てこの春から大学に進学することになっている。貯金と奨学金を駆使して学生生活を六年間続けなければならない。きっとそんな気持ちが見せた夢だろうと納得すると、シャワーを浴びて焼きたてのパンが美味しいモーニングをしっかりと食べた。今日は三つの島を巡る予定にしているので前日よりも長距離の自転車移動となる。
小さなペンションを後にすると、来た道を少し戻ってフルーツ大福の店へと急いだ。昨日は既に売り切れていたので今日はどうしても食べたくて開店とほぼ同時に舞い戻る。朝いちばんに行くと約束していたので、店主は暖かく迎え入れてくれた。昨日すごく残念そうにしていたから、と朝から取り置きしてくれていたようだ。店内で海をみながら甘酸っぱい苺大福を頬張った。朝の瀬戸内海は美しい。小鳥のさえずりと穏やかな風に揺られた草木の擦れる音が聞こえる。美味しい和菓子と優しい人との再会、風光明媚な自然景観を同時に与えられ幸先の良いスタートとなった。
それからのんびりと景色を眺めながら神社を巡る。何人かの観光客とすれ違ったが七海の姿はなかった。柑橘の栽培が盛んらしく、土産物店にはずらりと黄色やオレンジが並んでいる。海沿いをしばらく進んでジェラートを食べ、柑橘をそのまま器にしたフレッシュジュースを飲み、レモンケーキを二つ購入してサイクリングロード入口付近の洗練された雰囲気のカフェで少し早い昼食をとって次の島へと向かう。
今日の宿泊はこの四つ目の島なのだが、予想外にチェックインまで少し時間が余ったので島の北にある海水浴場で海を眺めることにした。そろそろ自転車を漕ぐのが辛くなってきたとき目的地が見えてきた。砂浜に入ると先ほどまでは天気が良く暑いくらいだったのに、雲が出てきたせいか少し冷たい風が吹いている。上着を自転車のかごに置いてきてしまったので縮こまって両腕を擦っていると、足元にたくさんの貝殻が落ちているのが目に入る。白い巻貝へと手を伸ばすと後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。
「形のあるものは持ち帰らないのでは」
振り返ると七海が彼女の上着を携えてこちらへと向かってきていた。その瞬間に雲の隙間から太陽の光が差し込み海辺を温かく照らす。彼女は満面の笑みを浮かべて七海に駆け寄ると上着を受け取って声を弾ませる。
「やっぱりまた会った!」
「寒そうにしている姿が見えたので」
「もうずっと先に行っちゃったかと思ってました」
彼女は目を細めて嬉しそうに話す。七海はその姿を見て穏やかな笑みを浮かべた。
「もう行きますよ。あなたにこれを」
七海は小さな紙袋を彼女へと手渡す。中身は黄色と緑の包装が美しいレモンサブレが一枚だけ入っていた。彼女は嬉しくってたまらないというように顔を綻ばせると「ありがとう!」とはつらつと答えて紙袋を胸元へぎゅっと押し付けた。それから七海に少し待っているように伝えると、自転車へと向かって走り出す。羽でも生えているのではないかと思うほど軽やかに走り出したが、やはり砂地に足をとられ途中からもたもたと大股で駆けてゆく。
「走るとまた……」
七海が途中まで言いかけると、やはり前へと倒れて砂浜へ手を突いた。彼女は振り返ることなく手を振ってそのままトートバックの中から白い紙袋を取り出して七海の方へと戻って来た。今度は注意深く足元を見ながらゆっくりと歩いている。彼女は紙袋を後ろ手に持って隠しながら七海を見上げ、「じゃーん!」と効果音をつけて彼の眼前へと何かを差し出した。ぶつかってしまいそうなほどの距離だったので七海がたじろいで一歩下がると、彼女もしまったという表情をして一歩下がる。
「私からも。貰ってください」
二人の間に少し距離ができたが、七海が二歩進んで彼女の手から差し出されたプレゼントを受け取った。袋を覗くと上品な包装がされたレモンケーキが一つ。
「二つ買ってたんです。もし会えたら一つ渡したくって」
「会えなかったら二つ食べるつもりだったんですか」
「お兄さんは、会えると思って買ったんでしょう? 私も同じです」
七海の返事はなかったが、静かに頷いた。
二人は挨拶を交わしそれぞれの旅路へと戻る。彼女はその後、海沿いに島を半周回ってサイクリングロードへと入る。すこし海辺でゆっくりしすぎたのかチェックイン時間が迫っていた。宿へ少し遅れると連絡を入れて自転車を飛ばす。
日が暮れてきて夕焼けが広がっていく。橋の向こうの美しいサンセットを眺めていると、心が浄化されていくようだ。どこかで七海もこの空を見ているだろうかと思い、次の島へと渡る橋の真ん中でしばらく空を眺めた。一枚だけ写真を撮り、宿へと急いだ。