四日目




 朝の柔らかい光がカーテン越しに差し込み、彼女はアラームをかけた時間より早く目を覚ました。早朝はひやりと肌寒く足元に蹴られて丸まった布団を手繰り寄せてもう一度眠ろうかと思って目を閉じたが、やはり眠れなかったので起きることにした。窓の外を眺めると穏やかな海に優しい朝日が降り注ぎ、海の水面がきらきらと輝いている。散歩に出かけようと支度をしてホテルの部屋を出ると、まだ廊下はしんと静まり返っていてほかの宿泊客は眠っているようだ。従業員も朝食の準備で忙しいのかフロントへ行くまで誰とも出会わなかった。フロントで外出すると告げると、朗らかな中年女性がホットコーヒーをサービスして持たせてくれた。ぽかぽかと暖かいカップを持って朝の港へと繰り出す。

 外は肌寒くホットコーヒーで暖をとりながらポートターミナルで長い間海を眺めていると、ランニングをしている人がちらほら現れ始める。一番早いフェリーの運航が始まりそうな時間になると人がぽつぽつと集まってきた。水道にそって街が発達した地域なので、この土地に住む人々にとって船はなくてはならないものなのだろう。彼女はお腹が空いてきたのでそろそろ朝食をとろうとホテルへ戻った。

 ホテルの朝食ビュッフェはなぜか期待が高まる。彼女は目の前でシェフが作るオムレツを二回おかわりして、炊き立ての白米をちりめんじゃこと一緒に食べた。サラダ、納豆、具沢山の味噌汁も追加して、最後に小さなロールパンと紅茶を飲んだ。一人ではしゃいで腹いっぱいになってしまいしばらく部屋で休んでいると、もっと早くチェックアウトする予定が時計の針は午前十時をまわっていた。

 今日はフェリーとレンタサイクルを使っていよいよこの旅のメインとなる島巡りが始まる。三日目、四日目、五日目の三日間をかけてゆっくりと島々を周る予定だ。

渡船場で船を待つ。まずはフェリーで一番近くの島へ。船は五分程度で到着した。ガイドブックによるとアップダウンが激しい箇所があるというので、電動自転車を借りることにした。地元の人々の生活を邪魔しないように静かに街並みを巡っていく。ガイドブックに載っている老舗のパン屋で素朴なパンを二つ買い、おやつに食べることにした。途中、瓶入りサイダーで喉を潤しゆっくりと最初の島を散歩する。サイクリングコースをはずれてフラフラとしていると、優しい地元の人たちは道に迷っているのではないかと彼女へ声をかけた。一人で旅をしているのだと話すと人知れず存在するおすすめの景観や最近密かに話題になっているというカフェを教えてくれ、皆に親切にしてもらって嬉しかった。観光地ではあるが、ここに住む人々の生活もや温かさに触れてその優しさにほっこりと心が和む。

 島の人おすすめの小さな洋食店で昼食を食べ、ひとしきり回ったので次の島へ行こうかと考えていると美しい海岸が目に入る。そこでおやつに買ったパンを食べようかと自転車を止められるところを探しながらしばらく進んだ。平日で人影はまばらだが何人かの旅人が美しい海をながめて浜辺を散策していた。自転車を止めると海岸へと降りていく。辺り一面に美しい砂浜が広がっていた。貝殻でも落ちていれば拾おうかと考えたが、この旅では思い出の品は残さないと決めたことを思い出してやめた。足元を見ながら海へと向かうと、少しはなれた場所に七海の後ろ姿があった。最早見慣れたその背中を見つけ、やはり彼はこの旅の友であると思わざるを得ない。何度も別れたが、こうしてまた何度も出会う。なんとも不思議な縁もあるものだと彼女はピンク色に染まった頬を緩めてくすくすと笑った。七海は彼女に気づいていなかったので声をかけずにそのまま立ち去ることもできたが、せっかく神が与えてくれた機会なのだからと彼女は足先を七海の方へと向けて歩き出す。波の音と砂を踏みしめる音だけがそこにある。足音が自分に近づいてきたこと気づいたのか七海が彼女の方を振り返った。視線が合うと彼女は少し恥ずかしく思って立ち止まり「お邪魔でしたかね」と目尻を下げて七海へと声をかける。いつも出会うと驚いた表情を浮かべていた七海だが、目を細めて優しく笑っている。まるでここで待ち合わせでもしていたかのような素振りだった。そして七海の方から彼女へ近づいてきた。

「いつかこんな穏やかな海のそばでゆっくり暮らしたいと考えていました」
「とっても素敵です。その時がきたら、たまった積読を読んで余生を送りたいな」

 七海は細めた目を閉じて、口角をゆっくりと持ち上げてほほ笑んだ。自分も同じだと、忙しくてなかなか本が読めなかったと言う。これからは読めるようになったのだととれる話し方だったので、彼女は自分と同じように彼もまた人生の節目にあるのではないかと思った。あまり私生活を詮索するようなことを聞くと失礼だと思い短く返事をすると、そこから二人とも黙り込んだ。さざ波が耳に心地よい。風はほとんど無く、暖かな日差しが二人に降り注いでいた。沈黙がしばらく続いたとき、彼女はふと足元の貝殻に気づく。彼女はその場にしゃがんで砂浜とともに写真に収めた。桜色の小さな薄い貝殻だった。サクラガイだろうか。

「拾わないんですか」
「この旅では形に残るものは持ち帰らないでおこうと決めているんです」
「では、それは私がもらいましょう」

 こんな乙女チックなものを欲しがるなんて意外にロマンチストなのかもしれないと思い、しゃがんだまま貝殻を七海へと手渡そうと腕を伸ばした。七海が大きな手のひらを差し出したのでそこにポトリと落とすと、男性らしい太い指で小さな貝殻をそっとつまんだ。七海にとっては優しく触れたつもりだったのだろうが、摘まんだ瞬間にカシャンと音を立てて割れてしまった。

「……割れた」

 ぱらぱらと砂浜に貝の破片は散って、七海の指の間には砕けた残骸だけが残る。残念そうに残ったかけらを手のひらに置いて眉を下げる七海を見上げて彼女は声を出して大笑いした。

「力強すぎ!」
「こんなに脆いとは思わなかったんです」

 彼女はひとしきり笑った後、目じりに溜まった涙を人差し指の背で拭うと「笑っちゃってごめんなさい」と、まだヒイヒイ言いながらとってつけたように謝った。少し気を悪くさせたかもしれないと七海を見ると、ほんの少し唇を尖らせながら割れた破片の感触を確かめるように指を擦り合わせていた。砂浜には彼女の笑い声と波の音だけが聞こえていて、小説や映画のワンシーンのように世界からそこだけ切り離されたようだった。

「まだ沢山落ちてますよ」
「もういいです。また壊したくない」
「拗ねちゃった」

 七海は海へ向かって数歩進むと割れてしまった貝殻をぱらぱらと砂浜へと落とした。彼女は七海の背中をじっと見つめた。しっかりと背筋を伸ばして前を向いているようで、七海の発言からは時折消極性が感じられる。今だって新しい綺麗な貝殻を探せばいいのに、壊してしまうことを恐れて諦めている。バーへ行った夜だって知らない世界を探検したかったのに脇道へそれることを注意されたし、別れの挨拶は「さようなら」だ。出会って間もないが少しずつ人となりがわかってきたような気がする。七海はしばらく黙ったまま何も言わない。

「おやつを買ってあるんですよ。おひとついかがですか」
「パンでしょう」
「えっ、エスパー?」
「遠くからあなたが店に入っていくのが見えた」

 またしても彼女は声を出して笑った。「声をかけてくれればいいのに」と言って自転車へと走りながら戻る。途中で砂に足をとられて前方へと転んだ。七海は慌てて駆け寄ろうとしたが、彼女は両手をついて振り返り「こけた!」と笑って走り出す。またバランスを崩しそうになっていたが持ち直し、両手を水平に挙げて「セーフ!」と言ってケラケラ笑う。自転車のかごからビニール袋を出して七海の方へとまた駆け出した。砂浜をザクザク言わせながら大股で歩いている。彼女なりに転倒しないよう注意しているのだ。すぐ側まで来ると気が緩んだのか走り出したので予想通りつんのめり、七海に向かってスローモーションで倒れていった。パンの袋をもっている左手は使うことをためらい、右手を出して目をきつく瞑る。ぐっと身体に力を入れて少しでも衝撃を和らげようと身構えた時、ふわりと東京駅で嗅いだシトラスがまた香って七海に受け止められたのだと気づく。

「三回もこけますか」
「丁度いいところにクッションがあって助かりました」

 彼女が照れ笑いをしながら七海の胸から離れると、彼は大きなため息をついて「気を付けてください」と素っ気なく言うとそっぽを向いてしまった。後ろ向きになった七海の耳とうなじはほんのりと赤味がかっているようにみえる。照れているのかもしれないと彼女は思い、彼から見えないのをいいことにくすくすと笑った。それから砂浜に直に座ると袋をガサガサ言わせて中を覗き込む。

「丸いのと長いの、どっちがいいですか」
「では、丸いので」

 薄いポリ袋に入った丸いパンを七海へ差し出す。礼を言って受け取り、七海は彼女の隣に遠慮がちに座った。二人の間には、もう一人だれか座れそうなほどの空間が不自然に空いている。

「丸いのはあんパン、長いのは揚げパンでした!」

 どうやらクイズだったらしく正解を楽し気に述べると、いただきますと言って大きな口を開けて揚げパンをかじる。どちらもかつて給食で食べたような昔ながらの素朴な味がして、ごくりと一口目を飲み込むと二人は同時に「懐かしい味がする」と言った。あまりにもきれいに音が揃ったので二人とも驚いて見つめ合う。それから先に七海がぷっと吹き出して笑ったので、彼女は堪えていたのに我慢できずに大笑いした。砂浜で七海と出会ってからずっと楽しくって仕方がなかった。一人旅のつもりが二人で一緒に旅をしているように感じてしまう。七海の物言いは一聞すると少しぶっきらぼうだが、行動や言葉の端々に隠された臆病な優しさが垣間見えるようだ。

「お兄さんも自転車ですか」
「いえ、レンタカーです」
「じゃあ、きっと今日でお会いするのは最後ですね。車には追いつけないから」

 彼女は晴れやかな表情で言うと、七海は少し寂しそうな顔をしたように見えた。この先の予定を今ここで伝えて約束でもすればまた会えるだろう。でもそうしてしまうとなんだか大きな力に逆らっている気がする。もしも二人がまた出会うことがあるならば、それは神が定めた運命だろう。

「また会える気がします」

 七海はゆっくりと立ち上がり、臀部に着いた砂を手で払った。彼女も立ち上がろうと姿勢を変えると、七海はそっと手を差し伸べる。彼女は戸惑うことなく七海の手を取って立ち上がった。

「ありがとう」
「またこけるところを見たくないだけです」

 七海は困ったように笑っている。

 その後別れの挨拶をして二人は出発した。向かう方向は同じだった。彼女が水平線を眺めながら海岸沿いの県道を進んでいると、後ろから七海の車が追い抜いていく。短くクラクションを鳴らし、窓から手を出してひらひらと振った。彼女も手を振り返し、車が遠ざかっていくのを見つめた。

彼の言う通り、きっとまた会える。それは確信に近い予感だった。