アラーム音で目を覚ますと、カーテン越しに柔らかな朝日が差し込んでいた。彼女はもぞもぞと布団の中で蠢いた後のっそりと身体を起こしてあたりを見渡すと、確かめるように心の中で呟く。
(一人旅に来てたんだっけ)
そう、彼女の一人旅は始まったばかり。昨夜は少しばかり羽目を外し過ぎててしまった。頭がガンガンと痛む。調子に乗って飲みすぎたようだ。多分、四杯くらいは飲んだと思う。いったい何があったのだろうと、曖昧な記憶を掘り起こしてみる。
はじめはジントニックだった。ライムがたっぷりと入っておりすっきりした飲み口でこの旅を絶対に良いものにしてやるという強い意思を再確認した一杯目。二杯目はロングランドアイスティー。紅茶の香りが爽やかでこれからの旅路を明るく照らすような希望を感じた。なんだかすぐに飲み干してしまったような気がする。次にたおやかな女性バーテンダーが薦めてくれたインペリアル・フィズ。このあたりから彼女は昔話を始めた。まるで壮大な物語の語り手のように、幼い頃から今までの人生を七海に話したのだった。彼女はとても楽しかったが、七海はそれを楽しんだだろうか。最後は何を飲んだかは覚えていない。ただ甘酸っぱい香りが帰り道の川沿いでも続いていたので、きっと七海かバーテンダーが素晴らしいセレクトをしてくれたのだろう。酔いつぶれて記憶をなくしたわけではないようだと、そこまで思い出して彼女は水を二杯飲んだ。初めて会う知らない男性と酒の席を共にして一緒に帰るという事実をよく考えると少しばかり危険な気がするが、見知らぬ土地で旅をするという非日常感が気を大きくさせたのだろう。男性とあんなに長い時間話したのは初めてだった。いつも恋人ができても長続きせず、何が悪いのかいつも数か月で振られてしまう。仕事でも入社当初は高卒入社の女子というだけで社内では軽くあしらわれていたし、辞める時も不思議な顔をされた。皆揃ってここ以外でお前に何ができるのだ、と言わんばかりだった。引継ぎはきちんとしてきたつもりだが、彼女しかしていなかった仕事も多くあり今頃混乱しているだろう。ざまあみろと少し意地悪に笑った。誰も見ていないし、これくらいは許されるはずだ。
朝食のためレストランを訪れると、食欲をそそる良い香りが広がっていた。彼女以外に数人の人々がすでに食べ始めているところだったが彼の姿は見当たらない。仲居に一番奥の席を案内され歩いていると、途中のテーブルに『七海様』と書かれたプレートが置かれていた。そこ以外の席は埋まっていたので、きっと彼の名前だろうと思った。
彼女の席にも朝食が運ばれてくる。土鍋で炊かれた白米はぴかぴかと輝き、炭火で魚を焼き始めると香ばしい匂いが立つ。小鉢を食べ進めて魚が頃合いになった時、七海が食事処へ入ってきた。一見外国人に見える長身の彼はやけに目立つ。七海は彼女を見つけるとほんのわずかに口角を緩めて頭を下げた。彼女は口に入れたばかりのご飯を喉に詰めそうになりながら、口元を押さえて反対の手を小さく振った。それをみて七海は控えめだが歯を出して笑うと周りの人々がみんな七海へと視線を向けたので、彼はしまったと慌てて窓の外へ視線をやって小さく咳払いをした。一気に注目を浴びて恥ずかしかったのだろう。彼女に背を向けてそそくさとテーブルについた七海は、両手を合わせて一礼した。
彼女は七海より先に朝食を終えて通りすがりに会釈すると、今度は七海がもぐもぐと口を動かしたまま小さく手を振った。先ほどとは立場が逆転しており、それがなんだかおかしくて彼女は声を殺して笑いながら部屋へ戻る。意外にお茶目なところもあるのだと七海への認識を改めた。
次の目的地に向かうため荷物を整理しチェックアウトをして宿を出ると川縁に七海が立っているのを見つけた。朝食は七海が最後だったが、宿を出たのは彼女が最後だった。七海は彼女を見つけると朝の挨拶をして、ゆっくりと近づいてくる。
「昨夜は大丈夫でしたか」
「ごめんなさい。つまらない話ばかりしてしまって」
「いえ、とても楽しかったです。本当に」
彼女は赤面してうつむいている。だらだらと自伝を聞かせてしまって申し訳ない気持ちと酔いがさめて恥ずかしい気持ちが混ざっていて複雑な気分だ。
「けっこう飲んじゃったみたいで……。酔ってご迷惑までおかけして、本当にすみませんでした」
「何も迷惑な事など無かったです。ただ、少し不用心だなとは思いましたが」
七海の言う通りだったので、彼女は恐る恐る聞いた。
「私、もしかしてお兄さんに変な事しましたか」
彼女が怯えながら聞くので、七海は目を見開いて吃驚したあと背中を丸めてくっくっと喉の奥の方から押し出したように笑った。目じりに涙をうっすら浮かべしばらく笑って、はーっと大きく息をはいて彼女に向き直る。
「私は何もされてませんが、あなたがされていたかもしれない。今後は知らない男にはついていかないことです」
七海はわかったかと念押しをして、別れの挨拶を告げた。彼女も礼を述べて手を振った。七海は市街地へと向かい、彼女は駅へと向かう。
次はついに海の見える街に行く。駅のホームへと再び舞い戻り、しばらく待っていると電車が来たので意気揚々と乗り込んだ。早朝のラッシュはとうに過ぎていて車内はゆとりがあったのでしばらく窓の外から街並みを眺めていたが、扉が閉まったので駅に別れを告げるべくホームへと目を向けるとそこには七海が立っていた。彼女の存在に気づき小さく会釈をする。電車はゆっくりと発進して、やがて七海の姿は見えなくなった。
目的地の観光案内所を訪れていた彼女は、とある地図を手に入れた。約四時間程度のコースで街を散策しながら古寺をめぐるものだった。御朱印を集めることもできるらしいが荷物になるのでやめておいた。それに、この旅で得るものは形のないものと決めている。途中で寄り道をしながら昼食をはさむことを考えると、夕方の宿の予約に十分間に合うだろう。今夜はこの街で観光して一泊する予定だ。
電車を降りて地図をみながら街をゆっくりと歩く。古い町並みばかりかと思いきやお洒落なカフェやショップも多く、平日だったが観光地ということもありまずまずの人出があった。男女混合のグループが土産店できゃあきゃあ言いながら楽しそうに話している。卒業旅行の学生たちだろうか。
寺へと続く石畳の小路を進む。数分間隔で古寺があり、さらには目印になる石柱が点在していて迷うことはない。まだ肌寒さを感じる季節のせいかあまり花は咲いていなかったが、初夏に訪れるときっと美しいのだろう。坂道を登っていくと少しずつ見晴らしがよくなり街と海が一望できる。彼女は途中で小洒落たカフェに入ってハンバーガーを食べレモネードを飲んだ。しばらく休憩したがまた歩き出し、寺々を巡りロープウェイで展望台へと昇る。山頂から眺める街は箱庭のようだった。水路に沿って発達した街並みを静かに眺めていると足音が近づいてきたので誰かが展望台を上ってきたのだとわかる。振り返ると階段の最後の段を上がって景色を眺めようと顔を上げた七海と目が合った。彼女は感嘆の声をあげ、口元を手で覆って驚きで肩を跳ね上げている。今朝別れの挨拶をしたばかりの男は静かな声で言う。
「また会いましたね」
「すごい偶然! こんなことってありますか!」
お腹を抱えて笑う彼女を見て七海は目を細めて口角をわずかに上げる。彼女は今朝七海と別れてからのコースを彼に説明し、七海はそれをふんふんと頷きながら聞いた。七海は海辺の方をうろうろした後に美術館を訪れ、それから展望台に上ったのだという。彼女はありとあらゆる感動詞を動員して七海の話を楽しそうに聞いた。お互いに一人旅のつもりだったが、偶然の出会いから不思議な絆を感じていた。一通り話し終えると、彼女はスマートフォンを鞄から取り出し七海へ手渡す。
「撮ってもらってもいいですか」
「もちろん」
澄み切った青空を背景に彼女が大の字にポーズをとると、七海はシャッターを切った。カシャリと電子音が鳴り終わると彼女が走ってやってきて、画面を覗き込みながらにこにこ笑って礼を述べる。七海からスマートフォンを受け取るともう一度感謝の言葉を口にして、「じゃあ私はもう行きますね」と言って手を振りながら階段を降りていく。七海は「さようなら」と言ってその背中を見送った。
その日はそれっきり街中で七海と会うことはなかった。彼女は海辺のホテルに泊まって部屋から海を眺めているところだ。本当はどこかへ飲みに行くつもりだったが、前日飲み過ぎたこと、歩き回って疲れてしまったことを理由に外出はやめておいた。
二十時ごろにやはり一杯だけと思い直してホテルのバーへと出かけると、若い男のバーテンダーがポートターミナルを一望できる席へと案内してくれた。窓の外を眺めると遊歩道がきれいに整備され、等間隔に並ぶ街灯が暖かい光りを灯している。いくつかのベンチはあるが誰も座っていない。柑橘の香りが爽やかなオリジナルカクテルを飲みながら船着き場をぼんやりと眺めていると、この旅が始まって以来何度も見かけたブロンドの男性がポートターミナルの向こうから独りで歩いてきた。
「あっ!」
思わず声をあげてしまう。慌てて両手で口を塞ぐと、バーテンダーは穏やかに微笑み何か面白いものでも見つけたのかと聞く。彼女は興奮気味に早口で訳を説明して港を歩く七海をうっとりと見つめた。外はまだ少し寒いのだろう。薄手のジャケットの襟を立てて身を縮めながらゆっくりと探し物でもするかのように歩いている。七海は近くのベンチに座って海を眺め始めるとしばらくじっと動かなかった。手には何か飲み物を持っているようだ。二階の窓越しから見える少し遠くの七海は両手に収まってしまいそうなサイズだったが、彼の周りだけ光り輝いているように見えた。彼の容姿のせいだけではなく、立ち振る舞いや纏う雰囲気がそうさせるのだろう。それとも彼女が彼にちょっとばかり特別な感情を寄せているからかもしれない。東京からずっと一緒。見知らぬ土地で何度も出会うその人物を眺める彼女の表情は朗らかだった。
ふいに七海がベンチから立ち上がりホテルの方を見上げた。そのタイミングを待っていたかのようにバーテンダーは彼女へドライフルーツの入った小皿をサーブする。彼女は窓から視線を外してもうナッツを貰っていると伝えたが、これはサービスなのだという。彼女が礼を述べて再び窓の外を見た時、ガラス越しに七海と視線がぶつかった。その瞬間、矢に射られたように胸の奥が大きく跳ねる。心臓が止まったかと錯覚するほどの衝撃を受けた後、少しの間をおいて心拍数が急上昇した。そして顔から火が出そうな程熱くなり、肩口まで熱が広がってゆく。きっと真っ赤になっているだろう。七海はぽかんと口を空けてその様子を見ていたが、困ったように額に手を当て可笑しくてたまらないというように笑った。
嵌め殺しの窓越しに二人は手を振りあい、七海は頭を下げてからゆっくりと立ち去った。
彼女は彼の背中を確認すると両手で顔を覆って俯いた。
バーテンダーはカウンターの真ん中で機嫌よさそうにグラスを磨いていた。