一日目




 スマートフォンで時刻表を見ながらホームをふらふらと歩いていると背の高い男性とぶつかってしまった。相手はびくともしなかったが彼女はよろめいて端末を落とした。慌てて拾おうと身を屈めると武骨な手が端末を取り彼女へと渡す。ふと爽やかな柑橘系の香水が香った。彼のものだろうか。

「ありがとうございます」
「失礼しました。怪我はありませんか」
「いえ、大丈夫です」
「良かったです。では」

 会釈をして新幹線に乗り込む。彼が一台前の列車に入っていくのが見える。理知的な雰囲気の外国人男性だった。流暢な日本語を話すのでこちらに来て長いのだろうかと彼女は思った。

 三時間半ほどで新幹線は西日本へと入る。朝から出発したが時計は十二時を回っていた。途端に空腹を感じ、腹の虫が鳴り始める。この街の名物や地元でのみ展開されているチェーン店などで食事をとろうと考えて新幹線から下車し降り口を探してキョロキョロあたりを見渡すと、東京駅でぶつかった外国人男性も降りてきた。動きやすそうな服装で彼もまた彼女同様に荷物は少なく、帰省やビジネスには見えない。彼は彼女に気づくことなくそのまま階段の方へと向かい、彼女はその後に続きリズムをつけて楽しそうに階段を降りた。乗り換えのためローカル路線のホームへと移動するためだ。なんとなく東京とは空気が違う気がして深呼吸をしてみると、少し冷たい風が鼻腔を抜けて肺いっぱいに広がった。都心部なので空気がおいしいというわけではないのだが、なぜか清々しい気分になった。出だしは上々。この街の明るい雰囲気はきっといいことが起こるに違いない。知らない街の空気はなぜだか彼女をそんな気持ちにさせた。

 ホームへ移動すると先ほどの彼がペンキの禿げた古びたベンチに座り文庫本へと視線を落としていた。もしかすると彼と目的地が同じなのかもしれないと思い、仲間意識が芽生え始める。時刻表を確認すると次の電車が到着するまで十分ほどあるらしい。宿の予約を確認しようとその場でスマートフォン取り出し画面に目を落とすと、後ろから来た学生グループの男子とぶつかり再び鈍い音をたてて端末を落としてしまった。

「すみません」

 ばつが悪そうに学ランの男子高校生は謝った。拾い上げた端末を確認するが傷もついていないし壊れてもいない。学生に大丈夫だと伝えると、丸めた頭を下げて少し先で待っている友人達と合流して去っていった。地元の学生たちはこのローカル路線で通学しているのだろうか。数年前まではあのようにグループになってなんでもない会話をしていたことを思い出す。進学するもの、就職するもの、それぞれの道へ進み繋がりが薄れた今、SNSなどでその生活を垣間見る程度で疎遠になってしまった友人も多い。先ほどの学生たちをみて懐かしいような寂しいような気持ちになった。去っていく学生の背中を見送りふと本を読んでいる彼の方へ視線を向けると、ちょうど彼も彼女の方を見ており目が合ってしまった。またよそ見をしているとでも思われたのだろう。彼が薄っすらとほほ笑んだような気がしたので小さく会釈をしてみる。すると彼も小さく一礼してくれたので、やはり今回の旅の仲間ではないかと絆を感じて嬉しさがこみ上げてきた。これ以上じろじろ見ると失礼だと思い、彼女は近くのベンチに腰を掛けホームから視線を街並みへと移す。しばらくじっと座っているとまだ少し肌寒く上着の前を閉じるとそのまま電車到着まで彼の方を見ないようにとぼんやり空を見つめた。そこには澄み切った青空がどこまでも広がっていた。

 ローカル電車を降りると驚くことに彼も隣の車両から降りてきて彼女を見るなり目を丸くした。しかし何も言わずそのまま立ち去っていく。改札を出ると彼の姿はもう見えなくなっていた。束の間の旅の仲間と別れ、彼女は今から一人旅を始める。今日はここで昼食をとった後、市街地を適当にぶらついて宿に行く予定だ。ガイドブックを取り出し見てみるが、イマイチ地図が読めない。観光地なのでそこら中に案内があるし店もあって誰かに聞けばよいだろうと考え、彼女は歩みを進めた。

 街へ出て信号待ちをしていると道路を挟んで向こう側に彼の姿を見つけた。観光案内の看板を見ているようだ。すらりと伸びた背丈が凛とした佇まいを見せている。美しい金髪が風に吹かれ、美術品のようだった。

(同じ電車に乗り合わせた者同士、良い旅にしましょう)

心の中で彼に語り掛ける。彼女が案内所へと足を踏み出すと彼は行き先を決めたのか南の方へ向かって行った。

美しく整備された街並みを散策しながら、彼女は昼食をとろうと店を探していた。人ごみを避けてゆっくりするため日曜日から始まったこの旅。初日と最終日だけは混雑を覚悟していた。日曜昼過ぎの観光地は多くの人々で賑わい活気がある。その往来を一人で歩いていると、なぜか少し誇らしい気分になった。

 町家をリノベーションした喫茶店から漂う良い香りに誘われて中をのぞくと、店員に招き入れられたのでそのまま付いて行く。雑貨店にカフェが併設してあるようで中は外観から考えられないくらい広々としていた。ランチタイムを少し過ぎていたせいか数席の空きがあり、板の間にあるゆったりとした席へと案内された。ふと店内を見やると、畳敷きの部屋一番奥の席に東京で出会った彼がきっちりと背筋を伸ばし正座して本を眺めていた。書店で買ったそのままのブックカバーがつけられた文庫本は、彼の身体が大きいせいかやけに小さく見える。相変わらず上品な佇まいに見とれてしまい慌てて目をそらす。街に入ればもう会うことはないだろうと思っていたのに、先ほどから彼女の行く先々に彼の存在があって否が応でも意識してしまう。彼はいったい何者で、どこへ行こうとしているのだろう。水を持ってきた店員にこの店の売りであるカレーセットを頼むと、ガイドブックを開いてこれからどこへ行こうか考えた。今日はこの近辺の宿をとっているのでゆっくりと観光できる。美術館へは絶対に行くと決め、フルーツたっぷりのパフェも食べたいと思った。束の間の自由を手に入れ時間はたくさんある。これから何をしようかと彼女の心は華やぎ頬が自然と緩む。

 一方金髪の彼も彼女の存在に気づいていた。彼の名は七海建人という。少しばかり外国の血が入っているが日本人である。東京からここまで何度も会うと嫌でも気になってしまう。七海は彼女が胸を弾ませ行き先を思案している姿を見て、女性一人で旅行など危険なのではと考えていた。何かトラブルに巻き込まれた時、自分だけで対処できるのだろうかと。しかし、隠しきれない嬉しそうな笑顔でトラベルカイドを見る姿を眺めていると、真っ先にリスクばかり考えてしまう己の思考回路を忌まわしく思った。退職後の束の間の自由を謳歌するための旅行なのに、染みついた体質とでも言うべき考え方が抜けないことに落胆する。そこまで考えて七海は一つ小さな溜め息をついた。どこまでいっても保守的な考え方をしていると自分自身に呆れてしまったからだ。もう一度、本を持ったまま視線だけを彼女へと向ける。肘をついてニコニコと本に目を落としていた。彼女のまわりだけきらきらと輝いているようだ。これからのことが楽しみで仕方がないとでもいうようにページを捲り、目をぱちぱちさせている。何を見ているのかまでは七海の席からは確認できないが、気になる箇所を指でなぞったと思ったら鞄から青い蛍光ペンを取り出して大きく丸を付けた。行先を決めたのだろう。そして本を閉じ、店舗の雑貨コーナーに視線を移す。その横顔からは期待と悦びが溢れていた。それはとても美しい姿だった。

 七海が食事を終えて出口へ向かうとき、彼女はスプーンに山盛りのカレーを乗せて口に運ぶところだった。幸せそうに目尻を下げてもぐもぐと口いっぱいに頬張っている。おいしいものを食べた時に素直に感情表現できることを微笑ましく思う。七海は彼女の存在に気づいていないふりをして、静かに喫茶店を立ち去った。

 彼女が会計を終えて外に出るとまた一段と観光客が増えて賑わいを見せていた。そのまま次の目的地へと向かう。日本で初めて設立された私立の西洋美術館である。蔦が幾重にも重なった石壁の門を抜けると、重厚感を漂わせる入り口が見えた。ギリシャ神話に出てきそうなその外観はとても神秘的だ。入館の受付を済ませチケットの半券を受け取ると、彼女は順路に従って歩みを進める。

有名な作家の絵画は今もなお溢れるエネルギーで人々を魅了し続けている。彼女も感心しながら絵画を眺めていると、少し先の風景画を眺める七海の姿が視界の端にちらついた。また会った。彼女が次の絵画へと身体を向けると彼の視線が自分へ向いていることに気づく。いつからこちらを見ていたのだろう。七海もまさか目が合うとは思っておらず、少し緑がかった瞳に驚愕の色を浮かべた。そして軽く会釈をするとすぐにさっと目を逸らし次のエリアへと移っていった。きっと彼とはこういう巡り合わせなのだろう。それもこの街を出ると終わるだろうが、もうしばらく運命めいたこの出会いを大切にしたいと思う。

 その後彼女は雑貨店巡りをして写真映えするパフェを食べ、宿へと向かって歩いていた。今日は記念すべき旅の始まりなので少々奮発していい宿をとっている。出費としてはかなり痛いが一度は豪華な旅館に泊ってみたかったからだ。本日の宿泊先は江戸時代の歴史ある民家を改築して造られた建物だ。日本の伝統的な美しさが心にも身体にもすっと馴染み、自分が日本人であることを誇りに思わせてくれるようだった。今日の宿泊の記念にするため建物から離れた場所でスマートフォンのカメラを構える。その全体像を入れようと引いてみたり背伸びしてみたりするが、イマイチ決まらなかった。二年前の端末で画質もあまり良くない。それでも少しは旅の思い出を写真に残したいと思って四苦八苦していた。彼女が身をかがめて下からのアングルからシャッターを押そうとしていると、宿の中から七海が姿を現した。鞄を置いてきたのか何も持っていない。彼女の心臓はどきりと音をたてて大きく鼓動を打つ。七海は無表情のまま彼女の方へと歩み寄りこう言った。

「撮りましょうか」
「いいんですか。あまり写真を撮らないから、どうしていいかわからなくて」
「私もそうですが建物だけ撮ってもつまらないでしょう。さあ、入ってください」

 七海は彼女を建物の方へ行くよう促して端末を構える。彼女は宿の入り口に着くと、ぎこちなく手を前で組んだ。七海は首を傾げてすこし考えを巡らせたあと、何かポーズをとってはどうかと言った。彼女も少し思案し、なるほどとでも言うように手をパチン鳴らして叩いて見せる。両手の人差し指を立てて宿の入り口を指し、左足のかかとをコンクリートにくっ付けて浮いたつま先は天へと向ける。そして歯を見せてニカッと笑った。七海は今だとシャッターボタンを押すと、画面の中にはとても楽しそうに笑う彼女の姿が映っていた。彼女は礼を言いながら小走りで七海の方へ駆け寄り端末を覗き込んで写真を確認すると、七海を見上げて満足そうに笑い腰を直角に曲げて深々とお辞儀した。

「ありがとうございました。宿も同じなんですね」
「そのようです。お一人ですか」

 その言葉を発した後、七海はしまったとでも言いたげな表情を浮かべた。そして眉尻を少し下げ、謝罪の言葉を口にする。

「失礼しました。詮索するつもりはないんです」
「気にしないでください。気楽な一人旅です」
「同じです。では、良い旅を」

 そういうと七海は川沿いへと向かって歩いて行った。まだ夕食まで時間があるので街を散歩でもするのだろう。女の一人旅だと聞いて、彼はどのように思っただろう。無謀だとか、危ないだとか、そういった感情を少なからず持ったことが伺える表情だった。しかしそれらを口にすることはせず去っていった。変な女だと思って警戒されただけかもしれない。ただ詮索するつもりはないという言葉がなんだか個として尊重されているような温かさ感じ、きっと彼は相手を思いやる心を持っているのだろうと彼女は考えた。先ほど撮ってもらった写真を確認してみる。伝統的建築が美しい宿の前で浮かれたポーズをとって笑う自分が映っていた。七海の言う通り、宿だけとっていても後で見た時つまらなかっただろう。とても楽しそうな自分の姿を見てほほ笑む。これからの旅も、旅が終わった後もきっとうまくいく、そんな風に感じられる素敵な記念写真だ。それから彼女は浮かれた足取りで宿へと入っていった。

 今日の夕食は少し早めの十七時半にして、のんびり夜の街を散策することにしている。川沿いを歩いてどこかお酒が飲めるところで独りの時間を楽しもう、そう決めていた。離れ湯で汗を流して浴衣に着替えると、いよいよ本格的に一人旅らしくなってきたと胸が高鳴る。部屋に戻るとちょうと夕食が運ばれてきた。すっきりとした爽やかな食前酒を一杯飲む。旬のものをふんだんに取り入れた料理が次々と運ばれてきて、目にも美味しくもちろん味は最高だった。デザートまで食べるとお腹いっぱいになって心も体も満たされた。こんな幸せがあるだろうか。自分が稼いだお金を使って自分で自由を手にしている。そう、この旅は束の間の自由を謳歌するためのもの。新生活が始まるときっと目が回るほど忙しくなるだろうから。

 彼女は食事を終えて部屋でぼんやりとここ数年の生活に思いを馳せる。今となっては珍しく高校卒業後から就職したので働き始めてしばらくは高校生活と社会人とのギャップに苦しんだ。早く自立したいが故に大学へ進学しなかったのだが、進学した友人たちのSNSが更新されるたび憂鬱な気持ちになった。いつの間にか見ないようにしてがむしゃらに過ごした数年間。この生活で何を得たのだろうか。

 彼女が財布だけ持って浴衣のまま宿を出ると、外はひんやりと冷たい風が吹いていた。少し薄着で来てしまったと身を縮めて両腕をさする。一旦部屋に戻って服を着替え、再び宿の外へと繰り出した。日曜の夜ともなると宿泊客は少ないが、観光をしている人々はまだ多かった。幻想的な夜の川沿いを歩く。穏やかな風に揺られる柳の木が暖かい色の照明に照らされおとぎ話の世界に迷い込んだようだった。そのまま歩いて一本路地へ入ると明るいうちは賑わいを見せていたのに今は店舗のシャッターは閉められ薄暗く、道路の脇に点々と点けられた灯りだけがぼんやりと光っていて少し寂しさを感じる。誰もいないその通りを抜けていこうと数メートル歩いたところで、後ろから男性に呼び止められた。一瞬不穏なことが起こるのではないかと胸が締め付けられたが、その声はどこかで聞いたことがあるような気がした。振り返るとやはり東京から同じ旅路を行く七海が立っていた。彼女が挨拶をすると彼も返したが、少し戸惑ったような声で話しかける。

「そちらは、人通りがないので危ないのでは」

 彼女から視線を外し、斜め右下を見ながら言う。それから「お節介かもしれませんが」と付け加えて彼女の目に視線を戻した。

「そうですよね、やめておきます」
「水を差すような真似をしてすみません」

 七海が苦笑いをしながら言うので、自分の軽率な行動で彼に嫌な役目をさせてしまったと申し訳なく思った。

「いえ。ありがとうございます。オバケがでたら怖いし」

 彼女が言うと七海はふっと小さく笑った気がした。七海は「その時は、」とまで言うと首を横に振り、なんでもないと言い淀む。それから気を取り直したように穏やかな表情に変わった。

「どちらまで行かれるんですか」
「目的地はあるんですけど、スマホも地図も置いてきちゃったのでわからなくなってたところです」

 彼女は大きな口をあけてアハハと笑った。目的地にたどり着けないかもしれないので、このままふらふら散歩をしながらどこかお酒が飲めるところに行こうと思っていたのだと言う。それを聞いた七海は眉間にしわを寄せて今にも小言を言いだしそうだったが、彼女を見るときまり悪そうに下唇を噛んでいたので真意は伝わっているのだろうと感じた。

「店の名前や特徴が分かればいいのですが」
「宿から少しいったところでレンガ造りで、広くて……」

 七海はなるほどと言って口元に手を当て試案する。どこかわかったらしい。地図が無いか辺りを見回したが、経路がわかりそうなものは特になかった。どうしようかと二人は考え込む。わずかの間を置いて彼女が何かを見つけ、川沿いの遊歩道の先を指差して話す。

「このすぐ先にお店があるじゃないですか」

 指先を辿ると洗練された雰囲気の木造の建物が見える。そこには飲食店が複数入っており、入り口には赤い看板に繊細な筆記体でカクテルの名前が並んでいた。

「ここなら帰りも迷わずにすみそう。ありがとうございました」

 彼女はお礼を述べてお辞儀をすると立ち去ろうと足を踏み出した。七海は何か迷っているように視線を泳がせた末に口を開く。

「私もそこへ行こうと思っていたんです」
「じゃあ一緒に行きましょう。せっかくですから。だって東京からずっと一緒だったなんて、信じられます?」

彼女は嬉々として誘ったが七海は少し面食らったように目を見開き、美しい深緑の瞳の瞳孔が大きく開いた。驚いているようだ。

「あ、ごめんなさい。やっぱりやめましょう。いきなり失礼ですよね」

 言ったあとに言葉を取り消すことはできないと彼女は後悔した。どう考えてもナンパのように聞こえただろう。ただ彼とは今日一日のうちに何度も出会い最早他人だとは思えず、少し話をしてみたいとも思っていた。七海は慌ただしく表情を変える彼女を感情が読めない表情でじっと見つめ、小さく頷く。

「では、一杯だけ付き合っていただけますか」
「気を遣わせちゃいましたね。でも、嬉しい。ありがとうございます」

 にっこりとえくぼを浮かべて笑う彼女を見て、七海も頬を緩めている。そして二人は並んでレトロなバーに入っていった。

 きっとこの一夜で二人はもう会うことはないだろう。そんな思いが気を少し大きくさせお互いの名も知らぬまま夜のおしゃべりを楽しんだ。七海はあまり多くを語らなかったが、彼女は今までの人生を振り返るように話した。それはとりとめもない昔話ばかりだったがとても楽しい時間だった。七海は穏やかな表情を浮かべてたまに相槌を打ち話の続きを促す。女性のバーテンダーは二人の楽しげな会話を小耳に挟みながら、最後に彼らへこの地の名を冠するカクテルをサービスした。

 そして夜は更けてゆく。

 七海の少し前を歩く彼女の首筋はアルコールのせいか赤味がかっている。千鳥足とまではいかなくとも、たまにふらついているのでかなり酔っているのだろう。

「少々飲みすぎでは」
「まっすぐ歩いてるでしょ」
「そうですね、一応」
「お兄さん、お酒強いんですね」
「そのようです」
「今日初めてお酒を飲んだ人みたいな言い方!」

 彼女はまた明るい笑い声をだし、スキップでもしそうな足取りで今日の宿泊先へと歩みを進める。ご機嫌な気持ちを全身で表現しているその姿に心が和み、彼女の背中を見つめながら七海は思わず笑みをこぼした。

 いよいよ宿が見えてきた。時刻は二十二時をとうに過ぎている。

 二人は良い夜だったと別れの挨拶をして、それぞれの部屋へと戻った。旅の出会いは一期一会。今日の出来事は忘れられない思い出の一つになるだろう。彼女が独りきりの部屋へ戻ると途端にしんと鎮まりかえっていたので少し寂しさを感じたが、そのまま部屋風呂にざぶんと入って浴衣に着替えると何も考えずに眠った。