あの日は、形式的な挨拶に行くだけのつもりだった。ただいまと言って、土産を渡す。それから少し世間話をして飯でも食って、またなと言って帰る。
本当に、それだけのつもりだったんだ。
まだ昼間だというのに静まり返った住宅街を進んで、いくつか角を曲がった先。昔は近所に住んでいたからしょっちゅう行き来していた仲だったが、あいつが実家を出て一人暮らしを始めてからというもの、さすがに毎日顔を合わせることはなくなった。こっちが好きなときにふらふら立ち寄って、飯を食ったり少し話したりする。気の置けない友人の家に遊びに行く。そんな感覚だった。
斉廷戦争が終結してゴタゴタが片付いたら、世話になった人たちにあいさつ回りをする。そう決めていた。しばらく休暇を貰って帰還報告のために各地をまわりながら、地方で見つけた美味そうな名産品を買い込んでいた。これは好きそうだとか、驚くだろうなだとか、あいつの反応を予想しながら買いまわるのは楽しかった。
あいつは一人暮らしのくせに広めの平屋に住んでいる。母方の祖母が隠居生活をしていた家を譲り受けたからだ。若い女が住みそうにない佇まいだが、俺は竹垣から便所の配置まで、全部気に入っている。現家主はこの家の中でも庭が一番好きなようで、暇を見つけては庭いじりをしていた。土を撒き、重い植木鉢を運んで、一緒に霓裳蘭を植えた。なんでも、寒い冬にも耐える種類だといっていた。洋蘭には洋児の洋が入っているし、花言葉がぴったりなんだと言われたが、こじつけにも程がある。
今更になって午後三時という中途半端な時間に来てしまったことを少し後悔していた。もしかしたら、留守かもしれない。そう思ったからだ。あいつの家に行くとき時間を気にしたことは無かったが、この数年で仕事を始めたと人づてに聞いたのをここまで来て思い出した。しかし道端で悩んでいてもどうにかなるわけではないし、とりあえず尋ねてみることにする。門扉のブザーを押したのに、うんともすんともいわなかった。本当はビーって警報みたいな音が鳴る。怖いから押すなと言われたことがあるが、じゃあこれは何のためについているんだ、と言い返さずにはいられなかった。他愛もない思い出ばかりが消えては浮かぶ。とにかく今は、家人がいるのかいないのか。それが肝心だ。
我が家のように門扉を開けると、奥の玄関扉が開いていた。その奥に腰を折っているあいつの後ろ姿が見えて、なんだ、いるんじゃないかと声をかけようとした。一歩踏み出すと控えめな庭があり、草いきれが立ち込めていた。こちらに全く気付く様子の無いあいつを驚かせてやろうと、抜き足差し足すすんでいく。ついに玄関に足を踏み入れて懐かしい匂いを嗅いだとき、金縛りにあったみたいに動けなくなってしまった。なんとも不思議な話だが、世界が急に速度を落としてしまったみたいに思えた。それなのに心臓はやけに早く打つし、息は苦しいし、自分が真っ直ぐ立てているのかさえわからない。最後に会ったときより随分伸びた髪を垂らしている目の前の女の背中から目が離せず、まばたきさえできなかった。
浮かぶ見知った背中。少しほつれた玄関マット。祖母の形見の姿見鏡。行ってくると別れを告げたあの日から何ら変わっていない風景は、まるで時が止まったみたいに思えた。下駄箱の上の花瓶に生けられた花だけが妙に瑞々しく、きっと今日も変わらず庭いじりをしていたのだろうと想像がつく。
目の前の日常とは裏腹に、俺の頭の中では戦地の様子が走馬燈の如く流れていた。そこら中に飛び散った血と濛々と舞い上がる土埃。息が詰まりそうな硝煙の匂いもふつふつと蘇り、鼻を突く。いつの間にかひどい手汗をかいていたようで濡れた手のひらを眺めたら、どうしてか血塗れだ。思わず服で拭っても、全然とれやしない。違うんだ。俺は、自分の責務を果たしようとした。それだけだ。誰かに向かって言い訳をしていると、戦地の臭気を漂わせていたのは自分自身だと気付いた。あいつの匂いと混じらせてはいけない。そう思って、一歩下がる。このまま消えて無上がろう。俺とあいつでは、もう住む世界が違いすぎる――。
そうこうしていたら、目の前の女が、何か叫びながらこっちへすっ飛んできた。咄嗟に受け止めようとしたのに、俺の手は虚しく空を切った。そりゃあそうだ。こんな人斬りとは誰だって抱き合いたいなんて思わない。なんでもないんだと言ってこのまま帰りたかったが、目の前の幼馴染は目に涙を溜めていた。胸元に携えていた震える手を、恐る恐る俺へと伸ばしてくる。なんなんだ、お前は。こんな汚れた俺でも受け入れてくれるっていうのか。だいたいなんでお前が泣くんだ。泣いたいのはこっちだってのに。お前は何も知らないまま、平和に生きていかなきゃいけない。誰にも脅かされず、うまいものを食って、よく休む。そういう生活の安寧のために剣を振るってきた。それを成し遂げたいま、もう俺から与えてやれるものは残っていない。こんな血生臭い俺とつるんでいい奴じゃないんだ。
俺に向かって手を伸ばすあいつを突き放さないといけない。でも、できない。その手を取りたい。そう思ってしまう。
払いのけようと出した手に、あいつの指先が触れた。皮膚同士がわずかにくっついただというのに、そこからじわりと温もっていく。自分を薄っすら覆っていた曇りが晴れていくみたいな気がした。手を取り、指を絡めてみたら、どうなるだろう。こいつともっと混じると、この穢れが落ちるかもしれない――。
気が付いたら本能的に抱きしめてしまい、離せなかった。あいつの濃い匂いが肺を満たす。質の悪い合成麻薬でもこうはならないぞ、というくらい頭がクラクラしてきた。痛いと聞こえた気がして、我に返って力を緩める。しばらくして目と目が合う。ビー玉みたいにきらきら澄んだ瞳から、次々と神秘的な液体が零れていた。泣いているのか。泣くなよ。俺なんかのことで。何か言おうと開いたあいつの口からは、言葉にならない嗚咽が漏れていた。誘うみたいに揺れる唇に、思わずかぶりつく。なんだかそうしないといけない気がした。いや、誰かにやれと言われたのか。自分の行動が制御できないなんて、初めてだ。頭の中と行動がちぐはぐになってしまっているとわかるのに、修正できず好き勝手に口の中を蹂躙する。鈍い痛みで舌を嚙まれたと気付き、さすがにヤバイと一旦身を引く。噛まれて少し冷静になったかと思ったのに、涎でべとべとに濡れてしまった口元を泣きながら拭う姿に再び理性を吹っ飛ばされ、気付いたときにはまた迫っていた。それからはもう、止められなかった。
あいつの住む世界の平和が脅かされてほしくない一心で、戦場を駆けた。そういえば戦地でも、何度も思い出していたな。帰ったら一番に会いたいと思っていたのは誰だったか。どうしてわざと遠回りしたんだ。会えばこうなってしまうと深層ではわかっていたのか。やっと会えたらもう、止まらないと本能的に避けていたのか。
抱き寄せたあいつの身体は信じられないくらい薄かった。このまま力を籠めたら、簡単に折れちまう。細い腕に痩せた足。ちゃんと食ってたのか疑わしい。これでも潰さないよう一応、気を付けているつもりだ。でもお前が承諾したんだろ。お前がいいっていうのなら、止めたくない。
愛してる。許してくれ。
精一杯の拙い告白をどんな気持ちで受け止めたのだろう。
そこから夢中で貪って、我に返って隣を見たら、青あざだらけのあいつが死んだみたいに倒れていた。誰がこんなことを――! って、俺以外に誰がいる!? 人生で起こりうる出来事の中でも最悪を自ら引き起こした罪悪感で潰れそうになりながら、ただひたすら謝ることしかできなかった。けれどあいつは、こんな俺を笑って許すのだという。好意の最上級は何だったか。俺は愛してる以外に言葉を知らない。
そこからはもうなし崩し的に関係を持ち続け、現在に至るまで会えば身体を重ねる日々だ。最初はたどたどしくて恐れもあったようだが、今じゃあいつのほうから甘えてくる。しかしまあ、考えれば昔からそうだったよな、とも思う。怖がりで、泣き虫で、何をするにもどこへいくにも付いてきていた幼馴染。俺の人生の一部で、当たり前にそこにいたあいつ。まるで自分の片割れみたいに思っていた相手と離れて、ようやく気付いた存在の大切さ。
正直、めちゃくちゃ可愛い。俺が一生護ってやると、毎日決意を新たにしている。それと同時に、離れていた間に起こったことを何度も反芻している。あいつがここで日々を過ごしているあいだ、自分は戦地で何をしていたか。敵国の兵とはいえ何人も殺めてきた自分が、何も知らない無垢の塊を毎日穢して踏み躙る。もしかして俺は、自分の穢れをアイツで禊ぎ落とそうとしているのではないか。罪を忘れて快楽に溺れることで、楽になろうとしているのではないか。何も聞かれないのをいいことに、黙り伝えず騙しているのではないか――。
最近、自分の欲望が抑えきれず恐ろしい。見つめられると罪の意識に苛まれるから、ここのところは後ろからばかりしている。これじゃあただ慰みものにしているみたいだが、いざ目の前にすると御し難い欲望に苛まれめちゃくちゃに犯したくなる。だいたい、本気で嫌がらないのもおかしい。嫌なら本気で拒めよ。受け入れられてるって勘違いしちまう。飯風呂睡眠が当然のごとく用意され、あまつさえ夜の相手にも一切の躊躇がない。あまりにも従順で逆に不安になってくる。もしかして、俺以外のやつにもそんな態度なのか――? なんて、疑心暗鬼にもなるだろ。
今日だって股間に顔を持っていって舐めろと言えば素直に従う。至極当然のように股間に顔を埋めるな! それ誰に教わったんだ! ついでに言うとやってくれるのはいいが、ぷちゅぷちゅ音を立てるだけで下手くそ極まりない。もっと喉の奥まで飲み込め! ジュポジュポいわせて舌絡めろ! そこまで考えて俺は、思考を一旦停止させた。もうストッパーがぶっ飛んでる。あいつのせいだ。泣いて嫌がれば踏みとどまれるのに、全部受け入れるあいつが悪い。このままじゃ、歯止めが効かなくなりそうだ――。
兎にも角にも嫌だともやめろとも言わず、あいつはほぼ毎夜、俺の捌け口にされている。こんなんじゃ駄目だなんてこと、誰に言われなくてもわかってる。でも。ああ。くそ。あいつといると、抑えが効かない。
なんでこんなことになっちまったんだよ!
漂う夕餉の匂いにつられ、ふらふらと台所へと立ち入る。慣れた手つきで二人分を用意するなんて、もうやめてくれ。頭ではそう考えながらも、視線はエプロンの紐でくびれた腰に釘付けになっていた。みそ汁の味見を終えた瞬間を見計らって、後ろから覆いかぶさるみたいに抱き着いた。少し蒸し暑い台所で汗ばんだ首筋に鼻先を埋めながら、臍の下あたりをまさぐる。そんな俺に構うことなく、あいつは汁椀に豆腐となめこの赤だしを注いだ。旨そうだが、今はそれどころじゃない。焦らすみたいに太ももをさすり、反応を伺う。なんでもないみたいに夕飯の準備を進めているが、黙りこくっているところをみると満更でもなさそうだ。
「ご飯できたよ」
「こっちこい」
結局俺がもたなくて、無理矢理手を引き火の元から引き剥がす。よろめいた瞬間を狙って抱きすくめ、退路を断つ。こっちは限界なんだよ。
「わ、痛いってば」
「早く」
言っても聞かないから引っ張っていく。いつものことです、みたいな顔でトコトコついてくる。だから抵抗しろって。
「また……? ごはん冷めちゃう」
「ここ、手ェついて、見せてみろ」
困ったなあ、って全然そんなこと思ってない声で言われても意味なんてない。何の躊躇もなく他人にパンツを晒すな。いや俺がやれって言ったけど!
「もう。後ろからばっかり」
「濡れてるじゃねえか」
「触られたら……こうなっちゃう……」
布の色が濃くなっていて、見ただけでどうなってるかわかる。あの短時間で、なんでこうなる? 意味がわからない。どれだけ欲しがりなんだ。
「どうなってるのか説明しろよ」
「洋児のせいでしょ……」
「無理矢理なのに、こんなすぐぬるぬるさせてたら駄目だろ」
そう。いつもお前はいいとは言わない。俺だけが求めて、それに応えてるだけだ。だから俺のせいで、お前は何も悪くない。って、んなワケあるか。そっちが悪い。押されてなんでも許してたら、悪い奴に何されても文句言えないよな。お前からみたら俺は加害者だろ。そうやってなんでも受け入れるな。
「……だって、何回もされたら覚えちゃう」
「俺のせいかよ」
「身体が勝手に、してもらえるって思ったら、こうなるの……!」
言い訳は聞き飽きた。一体お前は誰どうしたいんだ。自分の意思はそこにあるのか? わかってる。俺の所有物じゃないってことは。でも、好き合ってるって確信が欲しい。他の誰でもない、俺だけだと明言してくれ。だってあのとき、俺は愛してるって言ったのに、お前の返事は無かったじゃないか。
「他のやつにされたら? 俺が居ない日もあるだろッ……」
「そんなこと、してないっ……」
「お前がそう言ってても、こんなふうに迫られたら、どうすんだって聞いてる」
「なんで、怒ってるの……? そのときは、洋児が助けてよ……!」
泣きそうな顔で言われたら、自分の罪を認めざるを得ない。それでも態度だけじゃ意味を成さないから、どうしてもお前の口から聞きたいんだ。俺たちはなんなんだ。ただの幼馴染か? 好きだと言ってくれ。俺のことを、好きだと言えよ。たったのそれだけでいいのに、なんでお前は言わないんだ。言葉にしてくれなきゃわからない。たった一言、聞させてくれ。
「クソッ、もういい。いれるぞ」
当てがっただけで沈んでいく。奥に当たるとうねって悦ぶ。こうして繋がり穴を埋めても、満たされない部分が未だある。相違があるとは思っていない。答え合わせがしたいだけ。でもそこだけは頑なに避けるから、何かあるのかと勘ぐってしまう。自分にこれほど女々しい部分があったなんて驚きだ。
「ああ……。もう、お前のせいで、おしくなりそうだ……!」
「ごめん、ごめんね……」
「もう、喋るな。口塞ぐ。声、出すなよ」
ごめんだなんて、聞きたくない。お前の意思が知りたいのに、どうして教えてくれないんだ。
頭の中をからっぽにして、穴の奥へ打ち付けた。腐り堕ちそうなほど熟れているくせに、最期の一歩は踏みとどまってくる。好きな気持ちだけじゃ駄目なのかもしれない。どうすれば答えてくれるのかわからず、毎日途方に暮れている。最早このまま妊娠させて既成事実を作るしかないとまで思ったが、寸でのところで引き抜いて、むちむちとした尻たぶ向かって射精した。薄汚い吐物で冒涜しても、あいつは変わらず何も言わない。いつまでたってもおさまらない疼きを持て余しながら、苛立ちを抑えきれず突き放す。中途半端に引きずり下ろされた下着に足をとられ、あいつは床に膝をついて「いたいってば」と呻いた。痛いのはお互いさまだろ。お前にとって、俺はいったい何の価値があるというんだ。俺はもう、お前じゃないと駄目だってのに。
事後の気だるい空気が漂う。この瞬間が一番虚しい。何度繰り返しても学習しない自分の堪え性の無さだけでも最低なのに、すぐにまた欲しくなる強欲さにも吐き気がする。食卓にぐったりと身体を預け、肩で息をしているあいつは一体、何を考えているのだろう。ぐちゃぐちゃに溶けた穴がひくついて、身体はもっと欲しがってるみたいに見える。一向に動こうとしないから無理矢理引っ張って前を向かせると、満足げにふにゃふにゃ微笑んでいた。紅く色づく首筋にまた欲を煽られるが、なんとか踏みとどまる。
「お前、もっと嫌がれよ! こんなにされてんのに……!」
「気持ちいいよ?」
「なんでそうなる……!?」
「なんでって、洋児がこうしたくせに」
片足にひっかかっていたべとべとに汚れた下着を履く姿を眺めながら、俺は途方に暮れていた。白濁で穢された尻にかまうことなく引き上げられたフリルの付いた可愛らしい装飾が哀れに見える。どうせあとで洗うからいいんだと以前言っていたのを思い出す。結果的に汚れは落ちるが、そういうことではない。こいつには、尊厳を踏みにじられているという自覚はないのか。見当違いの返事はもう聞き飽きたんだ。やれやれ顔でほくそ笑むな。なんでか俺が間違ってるみたいに思える。違うだろ。お前は、自分の身体を好き勝手されて、怒って当然の立場なんだ。まるでさっきの出来事なんて児戯だと言わんばかりに、なんでもないみたいな顔するな。自分だけ達観してるって言いたいのか。俺ばかりがお前を求めて、もがく様が可笑しいか。
「お腹空いたね。ご飯食べよう」
何事もなかったかのように笑いながら、台所へと戻っていった。一人残され、頭を抱えてうずくまる。言い訳のしようがないくらい惚れている。けれどあいつの無垢さに触れるたび、戦地の空気やにおいが思い出された。あいつが差し出す〝いつもの日常〟が今の俺には眩しすぎる。
綺麗に盛られた素朴な夕食。土鍋で炊いた新米から漂うほの甘い香り。いただきます、と手を合わせるあいつが白米に箸をつける。動かない俺をちらりと窺って、少し不安そうな顔をした。ほかほか湯気を立たせる山盛りの白米と、熱々の味噌汁。ふっくら焼かれたサワラの西京漬けにわかめの酢の物。これを出されて食わずに帰ったら、あいつは一人泣きながら処分するのだろうか。
「今日は食わねえ」
「……わかった。またね」
この献身の意味は一体なんだ。お前から貰いすぎているのに、まだ足りないと欲してしまう。たった一言、好きだとは言ってくれないんだな。ただ俺は、お前に求められたい。同じ分だけ愛して欲しい。一方通行でないと教えてくれ。食卓に並ぶ茶碗を眺めながら、こみ上げてくるものを押し殺す。これ以上、望んではいけない。それでも、望まずにはいられない。
「ダァ! やっば食う!」
「えぇ……? 勝手だなあ」
喉の奥から出そうになった本音を飲み込むべく、米を掻き込んでみそ汁で流す。咀嚼されなかった食塊が喉を抉じ開けて通っていき、胸が詰まりそうに苦しかった。温かなはずの目の前の食卓が霞んで見える。視線の先には、何事もなかったかのように箸を動かすあいつの姿があった。小さく開いた口に白米が運ばれる。もぐもぐと咀嚼して、ごくりと飲み下す。いつものの仕草がやけに目について、飲み込んだはずの言葉が再び飛び出そうとしてきた。
俺が抱く常軌を逸した感情をあいつは知らない。知ろうともしない。今日みたいにいきなりぶった切って日常まで引きずり下ろし、全部なかったことにしようとする。あいつが差し出す〝何気ない日常〟は心地いいからこそ、避けなくてはいけない。もっと欲しくなって、誰にも渡したくなくなる。醜い独占欲が脳内に蔓延っていて、まるで自分じゃないみたいだ。
「他の奴に食わせんなよ」
「洋児以外来ないんだってば」
困ったまま笑うその顔も、全部俺のものにしたい。曖昧なままの関係を良しとしているわけではなく、この閉塞感を打ち破りたいと思っている。けれどその先にある答えを知るのが怖くて、子どもじみたやり方で突っぱねては悲しませた。たったの一言でいい。好きだと一言聞けたなら。それ以外何も望まない。想い合っているという確証が欲しい。
「知らねえ」
「機嫌なおして。洋児の好きなタラコのふりかけあるよ」
「子どもじゃないっつうの」
目の前の食卓がやけに遠く見えた。昂る感情を隠し通すことだけが上手くなっていく。噛み合わないまま進んだら、俺たちはどこへ行きつくんだろう。