いっそ夢だけ見ていたい





 富山県にある慚箱、国獄温泉の昼下がり。小腹がすいた漆羽は、おやつを求めてさまよっていた。昼にあれほど食べたというのに、きっちり十五時には腹が減る。たいした働きもせずタダ飯を喰らう毎日にもやもやしないでもないが、腹の虫が黙っていないのだから仕方がない。

 訓練場の前の廊下をふらふら歩く。定刻ではないのに、中で誰かが鍛錬をしているようだった。そこに混じるべきか、引き続き食べ物を探してうろつくべきか。漆羽が立ち止まって思案していると、男と女の妙な声が漏れ聞こえた。

「ん……、もぉ、だめ……。無理ですっ」
「これくらいでへばってんな。まだまだいけるだろ」

 悩ましげな声を出す女と、意地悪そうな声の伏見。
 ――もしや、この中でいかがわしいことが行われているのではないか。
 馬鹿げた妄想だと思いながらも、漆羽は少し緊張した面持ちで扉を開く。

 がらんと広い道場の真ん中のほう。そこには、真っ赤な顔をして股割りをする女と、女の背にのしかかる伏見がいた。

「おまえら、真昼間から何やってんだよ」

 腕を組んだ漆羽が「はあ」とわざとらしいため息をついてみせると、伏見は即座に離れて両手を上げた。女は半泣きになりながら「違うんです」と言い訳を始めようとした。何が違うのかはわからないが、この現状を〝弁解しなければならないこと〟であると考えている事実が気に食わない。仮に二人がここで密会していたとして、正当な理由があれば言い訳しなくてよいはずだ。それともなんだ。こいつら実は、好い仲だったのか。まあ別にいいけど。自由にならない慚箱で恋の一つや二つくらい、生まれても仕方がない。だってここには、温泉以外の娯楽がほとんどないのだから。男と女がいればそりゃあ、こういうこともあるだろう。

 漆羽はもう一度、大きなため息をついた。考えれば考えるほど、なぜかもやもやが大きくなっていく。

 女へと視線を向けると、冷や汗をかいてうつむいていた。一瞬漆羽を横目で見て何か言いたげにしたが再び黙り込み、ぎゅっと目を瞑った。自信無さげなこの人物は、いざという時の影武者要員と聞いている。妖術の詳細は一部の人間しか知らない。然るべきときがきたら漆羽の身代わりになるという責務を負っている。しかし、戦力として一番劣っているのは誰の目からも明らかだった。本人もそれをよくわかっているだろう。だからこうして先輩に稽古をつけてもらっているんだと思う。しかし、わかってはいるのに、腑に落ちない。きっと有事の際には犠牲になるという胸糞悪い取り決めに納得していないだけだと、漆羽は自分自身に言い聞かせた。

 伏見を見ると、なぜか申し訳なさそうに眉を下げていた。わざとらしいハンズアップをゆっくりと下ろし、首をかしげる。なぜお前がギクシャクしているんだと言いたかったが、漆羽はぐっと飲み込んだ。なぜか伏見には自分の胸の内が見透かされている気がする。だから下手に口を開けなかった。

「コイツ最近、基礎訓練サボってて、すげえ身体かたくなってるんですよ」
「ちょこちょこ本部に呼び出されてて、ちょっと忙しくって……! 私もっと頑張りますから、クビだけは……!」

 女はおたおたしながら言い訳し、涙目で懇願しはじめた。突如降ってわいた最弱守護者解雇説の意味がまったくわからず、何を言っているんだと呆れ顔にもなる。だいたい誰にそんな権限があるんだと言いたい。もしもそれが可能なら、こんな女など真っ先にクビにしている。他人の命を捨てて生き残るだなんて、許されない行為だ。それも少なからず好ましく思っている女だから、余計に忌々しい。

   しかし漆羽は、己の命の価値をよくわかっている。自分に危険が及ぶとき、この女を犠牲にしてでも生き延びなければならない。おぞましい事実を改めて認識すると、吐き気をもよおしそうになった。

 この女に慕われていることは間違いいない。そう思ってしまう自分がいる。漆羽自身も、他の誰よりこの女を贔屓している自覚がある。笑っていたら、嬉しく思う。困っていたら、助けてやりたい。嫌だというのならいっそこんなところ、もう辞めたっていい。けれど二人が慚箱に囚われている以上、ここでは何も起こらない。起こさない。起こり得ない。自分の宿命に引きずり込むだなんて惨いこと、到底できないからだ。

   ぐるぐる巡る考えを頭の隅に押しやると、頭の中の靄が晴れていく。己の置かれた状況の理不尽さに文句の一つや二つ言ってやりたいが、どの道どうにもならないのなら、正当な理由で触れるくらいは許されたい。

「俺が鍛えなおしてやるよ」

 漆羽が白々しい愛想笑いを浮かべて言うと、女の顔からみるみる血の気が引いていった。怯えているように見えて、少し申しわけない気持ちになる。しかし、このほうが都合がいい。不出来な従者を指導するのも己の役目だという、大義名分を堂々と振りかざせるからだ。

「……よかったな。頑張れよ」
「二人してなんですか⁉ 一人で大丈夫です!」

   何かを察した伏見が一瞬目配せしてきたが、気付かないふりをした。扉が締まったら、静まり返った部屋に二人きり。きっとしばらく誰も来ない。

   ボディラインに沿った訓練着には、既にじわりと汗が滲んでいた。神奈備内では頼りないが、それでも一般人よりはずっと鍛えられている。しかしそれなりに引き締まった身体ではあるものの、胸元や尻周りは女性らしくふっくらと肉付いていた。普段風呂で男の裸ばかりみているせいか女の肉体がやけに生々しく見えた。
   ――そういえば、久しく女体に触れてない。
   思わずごくりと生唾を飲み込んだとき、女を舐めるようにじっとりと眺めてしまっていた自分に気付く。

   慌てて不埒な思考を追いやって、指導者然とした態度に切り替える。よし、と合図を送ると、女はこくりと頷いた。

「さっきみたいに足開いて、自分で前に倒れないと意味ないぞ」
「はいっ。うぎっ……! 痛い……」

   漆羽が指示すると、女は大きく足を開いて床に伏せようとした。へにゃへにゃしながら腰を曲げ、色気のない悲鳴をあげる。

「腰をふにゃって曲げるんじゃなくて、背中まっすぐにして股関節から倒れないと意味ないぞ」
「ぐッ、押さないでっ……!」

   背中を丸めて背骨から曲げようとする女を制するため、漆羽は女の背に手を当てた。まっすぐどころかビクリと反り返ってきたので、鎖骨の下にも手を添え、背中と胸元から挟み込むように支えてやる。すると自然と前に倒れていき、最初よりもうんと姿勢がよくなった。漆羽は手を離し、上向きになっているつま先をゆっくりと前へ倒してやった。さらに深く前屈して、女の両手が床に付いた。

「痛いか?」
「あれ。ぜんぜん痛くないです」
「気持ちいいところで止めて、ゆっくり深呼吸。三十秒くらいやってみろ」

   痛みがあると筋肉が緊張して柔軟の効果が乏しくなる。息を大きく吸って、ゆっくりと吐き出す。すると力が自然に緩んで、楽にほぐれていく。もともと基礎の力はあるから飲み込みは早い。少し正してやるだけで、柔軟くらいは十分ひとりでできそうだ。けれどどこか落ち着きなく、ぎこちなさもある。少し緊張しているようで、息が乱れると途端にリズムが崩れてしまうみたいだ。胸いっぱいに吸って、細く長く吐いて肺をからっぽにする。適切な呼吸ができるよう、漆羽は一緒に深呼吸をしてやった。

   大きく吸って、すう――。
   ゆっくり吐いて、はあ――。
   すう。はあ。すう. はあ。
   繰り返すうち、次第に二人の息遣いが交わっていく。呼吸が同調するとともに、二人の境界線が緩んでいくのがわかった。溶けて混じりあい始めた輪郭を確かめるみたいに、漆羽は女のそばに寄った。すぐそこにある温もりに、手を伸ばしてしまいたくなる。

「漆羽さんの解説、すごくわかりやすいです」
「教わる側が心得てるからだよ」

   上手いじゃないかと褒めてやると、女は嬉しそうに頬を緩ませた。強張った筋肉がほぐれて、女の力が緩んでいくのがはっきりとわかった。リラックスした雰囲気があれば、うまくやれる。最初のぎこちなさは、漆羽直々の訓練でいったい何をさせられるのかと戦々恐々としていたのかもしれない。そう思うとなぜか可笑しくて笑ってしまった。

「あの、前はもっと、できたんですよ……?」

   漆羽が笑ったことで女は眉をひそめ、弁解じみたことをつぶやいた。すると前に倒れていたはずのつま先が上向きになり、途端にバランスを崩して元通り。言わんこっちゃないと、漆羽は女の後ろから覆いかぶさるようにして股関節に軽く触れた。

「だから、足の付け根のとこ意識しろって」
「あっ……、急に触らないでくださいっ!」
「変な声出すなよ。こっちは真面目にやってんのに」

   当然、これは真面目な指導だ。それなのに、漆羽の手はにべもなく払いのけられてしまった。あまつさえ漆羽に非があるとでも言いたげに、目を細めてキッと睨みつけている。

「次いくぞ。そのまま前で手を組んで、顔は上向き。背筋伸ばして、手をゆっくり上げる。息、止めるなよ」
「ぐッ……。けっこうキツいんですけどっ……!」

   肩甲骨を意識して背中を寄せる。普段使わない筋肉を目覚めさせて、しなやかな身体をつくっていくためだ。猛者ぞろいの国獄とはいえ、いつなんどき何が起こるかわからない。あまり考えたくはないがもしそうなったとき、最小限の被害で切り抜けたい。そのためには、この女に少しでも強くあってほしい。咄嗟のことにも反応できる力をつけなければ。

「思ってたより悪くないぞ。じゃあ胡坐をかいて、手を頭の後ろで組む。俺がゆっくり腕引っ張るからな」
「ギーッ……! 伸びてるーってかんじがしますっ」

   漆羽は後ろから女の二の腕を掴み、斜め後ろに引き上げた。剣士ではないからか、どこもかしこも女性らしく肉づいている。そういえば、二の腕と胸は同じ柔らかさだと聞いたことがある。漆羽はつい指先に力が入るのを自覚した。ぷにぷにとした感触が布越しに伝わってきて、一瞬だけ女の胸のやわらかさを想像してしまい、脳内で悶絶した。そういうつもりでやってるんじゃないと何度も自分に言い聞かせ、頭の中の妄想を必死で掻き消した。

「次は四つ這いの姿勢から腕を前に伸ばして、額を床につける」
「ングッ……、こうですか?」

   姿勢を変えてしっかりと背中を伸ばしていく。途中「いてて」と聞こえたが、呼吸を整えているうちに力は抜けていったようだ。猫が背伸びをしているみたいに見えるこのポーズは、背中だけでなく体幹もゆっくりと広がって呼吸がしやすくなる。尻を突き出した姿勢を真後ろから眺めることについては、深く考えてはいけない。しかし意識すればするほど、そこにばかり視線がいく。ぴたりと肌に密着したショートパンツから零れ落ちるみたいなむちむちの尻肉や、割れ目が見えそうなほど布が食い込んだ股間から目が離せない。

「んー。もうちょい両足、開いてみろ」
「くぅーっ……。これ, けっこう、キモチイイかも……?」
「そりゃあ良かったよ。姿勢はそこで止めて、深呼吸だ」

   教えたとおりの深呼吸を繰り返し、女は背筋を存分に伸ばした。熱心に指導を聞くから吸収が早く、教える側にも手ごたえがある。

「ふぅー……。私、柔軟のやり方、間違ってたんですかね?」
「いや、だいたい合ってる。でもまあ――、変なクセみたいなのがついちまってるな」

   何をしているのかは教えてもらえないが、ここのところ女は本部と国獄を行ったり来たりしていた。訓練に参加していなかったせいで我流になってしまっているところがあるようだ。それなりにできていた程度にまでは戻さないと、今日にでも何事かが起こるかもしれない。だからこの指導は適切で、他意はない。何かあったとしたらそれは事故で、決して自分のせいではない。
   そんなことを考えながら、漆羽は女の大きな尻をねっとり眺めていた。

「ちょっと、押すぞ」
「えっ。は、はいっ!?」

   女の返事より早く、漆羽は後ろから覆いかぶさるようにして女の背を両手で押した。高く上がった女の尻にちょうど股間が密着してしまう。何を慌てているのか知らないが、女は身動ぎして抵抗してきた。訓練中に狼狽え指示に従わないとなると、もう少し強い指導が必要だ。

「肩しっかり落として。もっと尻上げろ」
「ンッ、あの、重いんですけど……!」
「ある程度の負荷かけねえと」
「だからって、んんっ……、漆羽さんッ、お、おもいっ……」

   漆羽が女を更に前へ倒すよう床に押し付けると、尻と股間が隙間なくくっ付いた。こんな姿勢だったらどうしたって意識してしまうし、下半身の血流も良くなってくる。徐々に形を浮き上がらせつつある漆羽のソレは、女が文句を言いながら身をよじるたびたっぷりボリューム感のある尻に刺激されていた。挑発されているのではないかと思い、さすがに腹が立ってくる。

「ふう。よし。一旦戻れ。呼吸整えて、もう一回開脚前屈やるぞ」

   大きく足を開かせた女の後ろから抱き着くような形で漆羽も座った。リンパ節をほぐすため、鼠径部を軽く押す。

「やぁっ。そこ、押さないでくださいよぉ……!」
「普通にやれって」

   何かふにゃふにゃ言いながら身体を強張らせている女の股関節をほぐすように揉むと、なぜこんなところを触るのかと女がたずねた。漆羽はやれやれと大きなため息をついて、女の手を自らの大腿の付け根へと導く。女の手を取り、鼠径部を揉ませながら、漆羽は説明してやった。ここにある大きなリンパ節の老廃物を流すと、血流がよくなって下半身が使いやすくなる。身体を支える足がしっかりしていないと、いざという時に動けない。だから丁寧に揉んで、押して、こねて、さする。わかったか、と聞くと、真っ赤な顔をブンブン縦に振って頷いた。全くこの程度もわからないなんて、やはり継続した教育的指導が必要だ。

   再び前屈するよう女へと告げる。素真実に前へ倒れていく。漆羽は引き続き、鼠径部のリンパマッサージを続けた。何度も繰り返しているうち、女の声にわずかな甘さが混じり始めた。

「あっ。な、なんか、ヘンなことにっ……、んっ、なっちゃってませんっ……?」

   やはりこの女に焚きつけられているような気がする。これは訓練で、サボって鈍った部下の矯正だ。そういう意図はないのに媚びるみたいな声を出してくるなんて、そこも指導してやらなくてはならないとは。

「おまえが変な感じにしてるんだろ」
「ぇ……、えっ!? んっ、わたし、して、ないです……」
「なら、いいんだけどな。背中曲がりすぎ。腰から曲げろって言っただろ」

   漆羽は身体を前へと倒した。押されて女も前へと倒れていく。すっかり血の巡りは良くなり、下半身はどくどくと脈打っていた。女もきっと、同じだろう。

「ぁ、……んん、っはぁ。あのっ、漆羽さん……、も、いいですからっ」
「ここまでやっといて、もういいはナシだ」

   女を床に伏せさせて、股座をまさぐった。何枚かの布越しなのに、熱を持ち、湿っているのがわかった。

「はぁ、ん……、くっ……。もう、おわりましょっ」
「最後までやらねえと、意味ないんだって」
「……はぁ、はぁ……。だめですっ、ってば……!」

   女は身を捩ろうと漆羽の下でもがく。ストレッチどころか筋緊張は増すばかりだ。ますます熟れた女の中心部を外側からぐいぐいと押してみる。明らかな情欲を感じる吐息が漏れてきて、漆羽はにやりとほくそ笑んだ。

「伏見には頼むくせに、なんで俺は駄目んだ?」
「んひっ、あっ……。耳もと、いやっ……!」

   わざとらしく耳の縁を食む。びくりと身体を跳ねさせて、悦んでいるように見えた。首元に滲んだ汗から漂う女の色香に眩暈がする。ここで終わることなんてできない。

「力抜いて、身体、俺にあずけろよ」
「ぅ……。こう、ですか……」

   素真実に力を抜いた女の身体を起こす。後ろから羽交い絞めにして閉じ込めると、反射的に足が閉じられてしまった。足を開くように指示すると、渋々大きく開脚した。自分の命令に素真実に従い身体をいいようにされている様を見て、得も言われぬ征服感に支配されていく。開いた足の真ん中の、女の大切なところ付近に再び触れる。下着の中でぐちぐちと小さな音を立てた。こんなになって、ここもほぐしてやらないといけない。

   女はもはや全く力が入らないようで、漆羽に身体を委ねていた。されるがままになっている女を支えてやるという名目で、胸元に腕を回した。柔らかい乳房が漆羽の手のひらや腕に触れる。二の腕と胸の柔らかさは、少し違うように思った。下半身をまさぐる手は、性器に直接触れてはならない。あくまでこれは訓練の一環で、他意はない。ふっくらした性器周りの肉を押すようにこねていると、女は抑えきれない喘ぎを漏らす。

「ぅっ、ぁ……。これ、なんか、へんですっ……」
「このまま続けたら、痺れるみたいになるかもな」
「あッ、もう、とまって……。ぃ、いやっ……!」

   止まれという声を無視して触り続けると、女は腰を揺らして貪りはじめた。本当に嫌だと言うのなら。本気で嫌がっているのなら。ここでやめるつもりだった。頭の中で言い訳をしながら、女の真ん中に指をそわせた。そこ目掛けて女が股を擦るように当ててきたから、期待に応えて力を籠める。女は腰を震わせ反応を示す。

「はは。上手だよ。気持ちいいだろ」
「ぐッ……! ぁっ……! んッ、ひっ……!」

   次の瞬間、背中を反らして大きく震えた。噛みしめた唇からじわりと血が滲む。声を漏らすまいと必死で呼吸を整えようとする女に追い打ちをかけるべく、耳元で一言囁く。

「声出していいぞ」
「ぅ、んぅー……!」

   ぶんぶん首を振って嫌がりながらも次の大波に飲み込まれ、女は再びビクビクと震えた。しばらく身体を強張らせていたが、電池が切れたみたいにぐにゃりと脱力してしまった。密着した身体からほとばしる熱に浮かされて、思わず唇に吸い付きそうになる。女から漏れる甘い吐息を感じながら、未だ痙攣して快感の余韻に浸る尻に熱く猛る股座を押し付けた。このまま吐き出してしまいたい衝動に駆られ、わずかに腰を揺らす。熟れた穴に突っ込む妄想をしながらずりずりと擦りつけていると、女がぽつりと漆羽の名をこぼした。

   これ以上は駄目だと言われたような気がして、漆羽は我に返った。
   いつもの訓練場にむせ返るような淫猥な匂いが立ち込めていて、眩暈がする。
   これは夢か、幻か。そうであれば、どれだけいいか。

「……次からは一人でできそうか」
「ひ、ひとりで、できます……」

   床から身体を起こし、荒い息を整えながら女は答えた。耳まで真っ赤に染まり、目には涙を溜めて苦しそうにしている。その姿にさえ欲情している自分に気付き、漆羽は女に背を向け、小さく自嘲した。

「もし一人でやるのが難しかったら、また俺に言え。他の奴らには絶対言うなよ。わかったな」
「はい……。わかりました……」

   職権乱用甚だしいが、なりふり構っている余裕はなかった。他の誰にも、あんな姿を見せたくない。本当はどこかに囲ってしまいたいという、醜い独占欲が腹の底に渦巻いている。これ以上醜態を悟られないよう、女一人を残して訓練場をあとにした。まるで逃げているみたいだ。いや、違う。これは逃避そのものだ。扉の向こうで一人になった女が、どんな気持ちでいるか。今の漆羽には考える余裕は微塵もない。

   長い廊下をいくつか曲がった自室の前。漆羽の良き理解者である男が、苦々しい顔で佇んでいた。

「漆羽さん。ちょっとやりすぎ」
「わかってる。俺を思いっきり殴ってくれ」

   そんなことをしても何の解決にもならないと何度も言ったが聞く耳持たず。伏見は仕方なく漆羽の鳩尾に一発入れて、その場を去った。

   漆羽は鈍い痛みに耐えながら、女を想った。
   ここではない場所で出会っていたのなら、始まるものがあっただろうか。甘美な夢をみるだけならば罪ではないと、自分を慰め心を鎮める。胸の内のなかでもずっと奥にあるこの感情を飼い慣らせないほど未熟ではない。だからこそ、みっともなくあがいて苦しむ自分を嘲り笑ってくれれば気は済むのに、女も含めてここの奴らは誰も、そんなことはしてくれないから質が悪い。