行き逢う旅路のその先は―後日談―




「遅れてすみませんっ」

 息を切らせて走ってくる彼女の姿を見て七海は目を細め、もたれかかっていた駅の柱から身体を離す。すっかり夏らしくなり汗ばむ身体が少々鬱陶しいと思っていたが、額やTシャツに汗を滲ませた彼女を見ると駅の外はもっと暑いのだろうと考えた。はあはあと呼吸を荒らげる彼女に七海がハンカチを差し出すと、学生が好んで使いそうな大きめのリュックサックからタオル地のハンカチを取りだし「持ってますよ」と笑いながら返事をした。余程荷物が沢山入っているのだろう。どう見ても重そうなその荷物を持ってやろうかと思ったが、背負っているリュックサックをわざわざ下ろさせて「持ちます」というのもなんだかおかしな話だと思い七海はその提案をするのをやめた。

「そんなに慌てなくても大丈夫です」
「ちょっとバイトが長引いてしまって。本当にごめんなさい」

 穏やかな声で七海が声をかけると律儀な彼女は腰を折り曲げて深々と謝罪した。こういった彼女の真っ直ぐさを七海は好ましいと思っている。

「いいんですよ。忙しいんですか」
「家庭教師なんですけど途中から私がアツくなっちゃって……」
「あなたが楽しそうで良かった」

 照れくさそうに視線を外して答える彼女を見て七海は気持ちが安らいだ。彼女の選んだ道に間違いは無く充実した日々を送っているのだろうと思えたからだ。

「医学部生の家庭教師ってすっごく時給がいいんです!」

 ニヤリと笑いながらもはつらつと答える彼女の表情は明るい。二人は冷たいものを飲もうと決め、ランチタイムとカフェタイムの間でやや空席の目立つこじんまりとしたカフェへと入った。彼女は椅子を引いて七海の前の席に座り、最近の気候の話を始めた。「すっかり夏本番ですね」と言いながらハンカチで汗を拭い、手でパタパタと顔を扇ぐ。それからメニューを見てアイスティーとパンケーキに決めたと言い、七海はアイスコーヒーとガトーショコラを頼んだ。店員が立ち去った後、七海の方を向いてにこりと微笑む。

「七海さんは新しいお仕事慣れましたか」
「私は出戻りなのでぼちぼちといったところですね。あなたはどうですか」
「大変だけど、楽しいです。知らないことを勉強して、それが将来に繋がるってすごい事なんですね」

 彼女は新しく始まった大学生活を心から謳歌しているようだった。旅の最中よりも更にピンと背筋が伸び、自信ありげな表情だ。控えめだった髪の色も明るくなり以前より活発な印象を受ける。それから学生生活について語り始めた。この界隈では再受験生は珍しくないようで、誰もが平等に机を並べて頑張っているらしい。受験勉強とは違って専門知識を学ぶためスタートラインは同じなのだが、やはり大学受験でも難関である学部に合格した者たちは地頭が自分とは違うのだと言って項垂れた。それでもその表情は希望に満ち溢れていて美しく輝いて見える。七海は彼女の纏うこの空気感がとても好きだった。己を信じ地に足を着けて困難な道を切り開こうとするその姿は、夢に向かって進もうとするすべての人間に勇気を与えることだろう。

「それで、私が社会人経験があるからっていっつもリーダーになるんですよ。この間も発表の時に……」

 彼女はグループワークでの不満を述べながら思い出し笑いをしていた。七海が聞く限り毎度リーダーを当てられることは満更でもなさそうだが、それが最近の悩みなのだという。彼女に対して明るく快活な自立した女性というイメージを誰だって持つだろうということを考えると、他の学生たちが頼りたくなるのもわかると七海は思った。

 旅の最中に二人はお互いのプライベートの詳細を明かすことは無かったが、駅で再開したあの日に連絡先を交換した後はこうしてたまに会って近況報告をしている。それは他愛も無い天気やニュースの話であるとか仕事や学生生活の話などだが、お互いの波長が合うのか彼女も七海もこの時間が息抜きになっていた。七海は彼女に呪術師であることを明かしていない。仕事は何をしているのかと聞かれたこともあったが一般人に理解を求める方が難しいので少々特殊な専門職であるとだけ伝えると、彼女はそれ以上詮索しようとはせず「じゃあ私と同じですね」と言って笑っただけだった。言っても信じて貰えないだろうし、これからも言うつもりは無い。七海はそれでいいと思っているし、彼女もきっとこれからも聞いてくることは無いだろう。そんなことを考えて少し七海が上の空になっていたら、彼女がハッとして口に手を当て申し訳なさそうな顔をして七海の顔を覗き込んだ。

「……ごめんなさい、私ばっかり喋っちゃって」
「いえ。あなたの話を聞くのは楽しい。私は編入だったので、一年から同じ仲間と過ごすと大学生活もまた違ったんでしょうね」

 そう七海が答えると彼女はまた笑顔をきらきらさせて頷いた。何か思い出した彼女がリュックサックのジッパーを開けるとたくさんの教科書が見えた。その一冊に七海が旅の最終日に彼女へ送ったイルカの栞が挟まっていることに気付く。

「使ってくれてるんですね。ありがとうございます」
「そうなんです。この栞を見ると七海さんと一緒に旅をした日の事をいつも思い出すんです」

 本を取り出しはみ出た栞の紐を撫でながら彼女が言う。付箋がたくさん貼られた薬理学の教科書だ。続けて彼女が口を開く。

「あの、もうすぐ夏休みなので、また一緒に旅をしませんか」

 それは七海にとって、とても魅力的な誘いだった。彼女と共に出かけると楽しいに違いないとわかっていたからだ。それでも即答できずにいると何かを察したのか「もしよかったら、ですが」と彼女は付け加え照れくさそうに俯いた。

「そうですね。考えておきます」

 曖昧な返答を聞いてもなお爽やかに微笑む彼女を見ていると、七海は少し心が痛んだ。繁忙期に差し掛かり旅行どころではない。それに彼女とは住む世界が違い過ぎて、正直に言うとその姿が眩しかった。それでもあの日々を一緒に旅したと表現されたことが嬉しくて七海は隠しきれない笑顔を見せる。美しい穏やかな海と優しい人々、美味しい食事と静かな時間。あれは一人旅では無かった。常にお互いの存在を意識したあの旅路。それを共有にした友人なのだと言われているようで嬉しかったのだ。

 二人はしばらく他愛も無いお喋りを続けたが、彼女が時計を見て次のバイトがあると言ったので解散となった。店を出てしばらく歩いたところで彼女がおずおずと口を開く。

「旅行のお誘いの件は無理しないでくださいね。社会人って夏休みなんて無いし、きっとお忙しいでしょうから」
「いえ、ぜひ一緒に。日帰りでもどこかへ行けないかと考えているところでした」

 彼女は嬉しそうに飛び跳ねて喜んだ。

「じゃあまた連絡しますね!」
「気を付けて」

 七海と別れると彼女は改札を通り駅構内の雑踏へと消えていった。その後ろ姿は煌めいて見え、将来への希望に満ち溢れていた。すぐに七海のスマートフォンにメッセージが入る。

『今日は楽しかったです。どこかへ一緒に行ける日を楽しみにしています』

 車内でほほ笑む彼女を想像して七海も口角を上げた。

(涼しい高原や北海道の湖畔がいいだろうか)

 七海はスケジュールを確認しながら旅行サイトを検索し、いくつかのページを彼女へと送る。返事はない。きっとバイト中だろうと思って画面を閉じ、彼女と並んでジェラートを食べながら避暑地を歩く姿を想像した後、夕食作りに取り掛かった。

 この世界で生きていくのも悪くない。
 忙しい合間に彼女に会えた事でそう思わせる一日だった。