第3話

 寒さに身を捩り足元に放り出されたタオルケットを手繰り寄せる。いつの間にか寝てしまったようだ。寝室のカーテンを閉め忘れていたので、薄らと月明かりが差し込んでいる。今何時だろうとぼんやりとした頭で辺りを見回す。ベッドに七海の姿はなく、時計の針は深夜二時十五分をさしていた。

 ついに相手にされなくなったかと、悲しいけれど当然だとも思う。自分のことしか考えていなかった。酷い態度と言葉で七海を傷つけ、自分勝手に傷ついて。こんな夫婦になりたかったんじゃない。いつかはこの作業も身を結んで、私のお腹の中に新しい命が宿るはずだった。つわりってどんな感じなんだろう。出産はやっぱり痛いのかな。子どもは一人でもいいけど、二人は欲しかったな。性別はどちらでもいい。騒がしくても七海と共に手を取り合って、子育てをする、笑顔の絶えない明るい家庭になるはずだった。いつか子ども達が大きくなって出ていったら、七海とふたりでどこか海のそばで静かに暮らす。子どもの結婚式で七海は泣くのかな。そんな夢まで見ていたのに。

 私たち夫婦のあり方を考えないといけないのかもしれない。排卵日だとかタイミングだとか、そういったことはもうやめよう。おいしいものを食べて温泉にでも入ってゆっくり休もう。もう一度目を閉じて、目が覚めたら朝になっていますように。


***


 深夜の私の願いが通じたのか、目を開けると外は明るくなっていた。あれから深い眠りについたようで、身も心もすっきりしていた。いつの間に一緒に寝ていたのか、隣には七海が背を向けて眠っている。起こしてしまわないようそっとベッドを抜け出し、七海の寝顔を盗み見る。静かに寝息をたてる無防備なその姿は、いつもより幼く見えた。足音を立てないよう寝室を出て、リビングのカーテンを開けた。朝の日差しが優しく差し込みモンステラを照らす。そういえば随分手入れをしていないので、葉が伸び放題になっている。私はリビングボードから剪定ばさみを取り出すと、茎の根元から切り落とした。小さくパチンと音を立て葉が落ちる。一本、また一本と切っていく。このモンステラは一緒に住む部屋を決めた時、どうしても観葉植物を置きたいと私がねだって買ったものだ。この三年で随分大きくなった。

 落とした葉を集めていると寝室の扉が開いた。七海がぬっと現れる。寝起きのせいか、いつもより目付きが悪い。

「おはよう」

 おはようございます、と掠れた声で返事が返ってきた。七海は伸びた前髪を払い、片手で眼鏡を覆うように上げたあと、じっと私の手元を見ている。

「……切ったんですか」
「伸び放題だった」
「すっきりしましたね」

 そうだね、と返事をすると七海はこくりと一回頷いて洗面所へ行った。切った葉を見ると少し埃を被っていた。

 私はキッチンへ行きコーヒーメーカーに豆をセットした。豆から全自動で淹れてくれるこの機械は、去年七海が悩み抜いた末に購入したものだ。それまでは私がハンドドリップで淹れていたが、器具を洗うのが面倒だと言った日に家電量販店に見に行ったことを思い出す。色々なメーカーのパンフレットを貰いパソコンで性能比較表まで作っていたので、そのあまりの真剣さが可笑しくて随分笑った記憶がある。

 懐かしい思い出に浸っていたら芳ばしい香りがたちのぼり、コーヒーが出来上がった。その香りに惹かれたのか、まだ眠そうな顔をした七海がキッチンに入ってきた。

「夜、起こさなくて、すみません」

 そう言って七海はお揃いのマグカップを取り出した。私が地方出身へ行った時、なんとなく選んだものだった。

「仕方ないよ」

 コーヒーを注ぎながらそう呟くと、穏やかな声で七海の方を向くように諭される。向き直って目を見ると、少し潤んでいるように見えた。口もとは困った様にへの字になっている。意を決したように七海が口を開く。

「君と子どものことを話したいとずっと思ってました」

 諦めたはずだが、七海の口から出た“子ども”という単語にどきりと心臓が跳ねる。何を言われるのか怖い。肩に力が入って身体が強ばる。心音が耳の中で大きく響き、耳鳴りがして足元がぐらついて今にも倒れそうだった。七海に何を言われようと、どう転ぼうと自分の剥き出しになった弱い部分を守れそうにない。彼に死刑宣告をされるくらいなら、自分から言った方がいい。

「わかってる。今まで付き合わせてごめん」

 七海の顔を見ることができない。驚いているのか、悲しんでいるのか、それとも開放感を感じているのか。俯いて溢れそうな涙を堪える。息ができない。ああ、でも、これは苦しいけれど死ぬほどじゃない。そう、まだ耐えられる。

「もっと早くに話し合うべきでした。君に辛い思いをさせ続けた……」

 七海の声が震えている。彼も悲しく辛いんだとわかる。私と同じだ。七海も苦しんでいた。

「もう基礎体温もつけないし排卵チェックもしない。……子どもの事は考えない」
「座りましょう」

 七海の手が肩に触れ、ソファの方へ促される。彼は本当に優しい。いつもその温かさに救われていた。そして寄りかかりきって傷つけた。

 二人でソファに腰を下ろす。七海と私の間には少し距離があった。ちょうど幼児一人分くらいだなと思い、こんな何も無い空間でさえ子どもの影を見つけてしまう自分に嫌気が差す。七海は何も言わずマグカップに視線を落としていた。

(何か言わなくては)

 そう思っても頭の中に浮かぶことは言い訳じみた言葉ばかりで、また自分かわいさに七海を呵責してしまいそうになる。しんと静まり返った室内に七海がコーヒーを飲む嚥下音がやけに響く。耐えきれず私もカップに口をつける。柔らかな酸味が鼻腔を抜けて香った。グアテマラの有名な農園のもので、先週コーヒー好きな補助監督から貰ったのだった。


 ここで腹を割らなければきっと私達は終わる。それでも保身に走る言葉が出そうになる。

「私、絶対七海を責めてしまう。まともに話せないと思う」
「今から私も君を責めるのでおあいこです」
「嘘つき。責められたことなんてない。いつも私ばっかりあたって、ひどいこと言って、それで……」
「ストップ。それでは自分を責めていることになる。今度は私の番です」

 膝の上で手をかたく握りしめながら早口で言うと、途中で七海が制する。そして大きく息を吸うと七海が話し始めた。

「君がいつも当日になって突然誘ってくるので、種馬になったような気分でした。男はいつでも出来ると思ってるんでしょうけどそれは違います。仕事のようにはいかない。気持ちが無いとできません。それを維持するのが辛かった。しかも排卵日以外は断られるし、変なサプリメントは買ってくるし、いつもイライラしていて生理前は特に酷い。生理がくるたびにこっそり泣いているくせに、慰めさせてもくれない。……実はこれが一番こたえました」

 七海が一気に言う。その後ふーっと大きなため息をついてこちらに視線を向ける。なぜかすっきりした表情をしていて驚いた。そんな私の鳩が豆鉄砲を喰らったような顔を見て七海は吹き出した。久しぶりに笑う七海を見たような気がする。そうだ、みんな知らないけれど七海は意外と子どもみたいなところがあって顔に出やすいんだ。冗談も言うし結構自分勝手なところもある。

「あの、ごめんなさい」
「わかってくれればいいんです」

 そう言って不自然に開けられた私と七海との間にある空間を詰め、私のそばへそっと近寄った。肩に腕を回して私の側頭部で深呼吸を繰り返している。腕にぐっと力が入って抱き寄せられる。すうすうとわざとらしく立てられた呼吸音が耳をくすぐる。

「かわいいにおいがする」
「変なこと言わないで」
「コミュニケーション不足からここまできたので、思ったことは口に出そうかと」

 満足そうに七海は微笑んでいる。こんなにも落ち着いた気持ちで七海と接するのは久しぶりだ。

「コミュニケーション不足……」
「心の中まではわからないので」

 いつも何かに追われたように切羽詰まって、足掻いていた。私ばかりが背負っていると思い込み、誰にも相談せず自分の中で掻き回し続けた気持ちは禍々しく煮詰められていたはずなのに、憑き物が落ちたように心が軽くなる。私は七海と話がしたかったんだと気づいた。長く一緒に時をすごすことで、なんでもわかってくれるだろうと思ってしまった。気持ちは言葉にしないと伝わらない。こんな当たり前のことも見えなくなっていたんだと自嘲する。


 七海はというと、まだしつこく私を嗅ぎながら満足そうに口角を上げている。吐息がかかりくすぐったい。

「……あのさ、子どもはもう諦める?」
「どちらかに決める必要はないはずです。ただもう仕事みたいなセックスは嫌だ」
「それは、ほんとにごめん。あのね、しばらく二人でも悪くないって思うんだけど、どうかな」
「同感です」

 腕の中から七海を見上げると、彼はその腕を少し緩め私の頬にキスをした。私は答えるように七海の手を握った。あたたかく、しっとりと汗ばんでいる。七海が私の手に指を絡める。ゆっくりとその美しい顔が離れていくと、慈しみがこもった眼差しで見据えられる。

「いつかその時がくるかな」
「どうあろうと君を心から愛しています」


 朝の光がカーテン越しに入り込む。七海の顔が近づいたと思うと唇を食むように口付けられる。そっと手を解かれキッチンへ向かう背中を呆然と見つめる。エプロンを着けて冷蔵庫を物色して、たまごと牛乳、ハムを取り出した。どうやら朝食を用意してくれるらしい。手際よく料理する姿を見つめながら、七海に初めて恋をした時のことを思い出し、私は一人頬を染めた。