第4話

「入るぞ。気分はどうだ」

 ベッドを区切るカーテンから顔を覗かせ、目元に濃い隈を浮かべた家入が声をかける。ベッドには七海の妻である女が横たわっていた。眩しいのか腕で目を隠している。家入は視線を少し上にずらし維持輸液の残量を確認する。

「寝てると大丈夫なんですけど……起きようとするとダメです」

 そうか、と家入が呟きカーテンの隙間からするりとその細い身体を侵入させる。コピー用紙を見つめながら何か思案しているようだった。

「採血では特に異常はないな。検尿できそうか?」
「……トイレに行くことができれば」
「念の為調べておいた方がいいだろう」

 家入が持ってきた車椅子に乗るよう促される。ゆっくりと身体を起こすと頭の中が揺れるような感覚が襲ってきて平衡感覚が狂う。彼女は家入に支えられゆっくり身体を起こした。ベッドへ腰掛けると浮遊感と吐き気に襲われ、咄嗟に口元を押さえた。家入はさっと袋を差し出し、背中を支える。吐くものはとうに無く空えずきが続き、涙が溢れてくる。そして情けないやら苦しいやらで、今度は本当に涙がポロポロと流れ落ちた。


***


「最後に生理が来たのはいつだ」

 ベッドサイドにある安物の丸椅子に腰掛けた家入が言う。

 最後に来たのは、いつだろう。正確に覚えていないが、東北出張の最終日だったはずだ。ホテルを出ようとしたら下半身の不快感に襲われ、トイレに舞い戻ると下着が経血で汚れていたのを思い出す。新幹線の時間が迫っていたのに下着は汚れるし替えの下着はないし、散々だった。がっかりしながらシャワーで下着を洗ってドライヤーで必死に乾かしたっけ。

 あの一件以来、私は生理周期を記録したり基礎体温を測るのはやめた。完全に子どもを諦めることはできなかったが、以前のようなある種の強迫観念に囚われていない。それでも家入の言葉を聞き、期待してしまう。

 もしかして。

「……一ヶ月半くらい前、だと思います」

 期待値が高いほど外れた時の落胆は大きいのに。家入の言葉からやはりそうじゃないかと思って鼓動が早くなる。

 今まで何度夢見てきたことだろう。

 そうであって欲しい。

 いや、まだ決まったわけじゃない。

 期待するな。

 また絶望するだけだから。

 ああ、でも、もし“そう”だとしたら……。


「これを見てみろ」

 頭の中で巡る思考を遮るように聞こえる家入の声で現実へ引き戻される。眩しさから目もとを覆う腕をずらし家入の顔を見ると、にやりと口角を上げて笑っている。目の前に先程と同じようなコピー用紙がヒラヒラと差し出された。小さな文字で検査結果が記されている。

「エイチシージー、プラス……」
「そういうことだ! 産婦人科へ行け」

 家入が珍しく声をあげて笑う。なぜか満足そうに頷いて、私の頬を撫でた。よかったな、とつぶやき目を細める。

 そして私はというと、妊娠していたらしい事実を知り、嬉しいはずだが現実味がなく呆然としていた。信じられないが、差し出された目の前の紙には確かに妊娠反応陽性が記されている。声をあげて喜びたいが、今動くとまたぐるぐると目の前が回りそうなのだ。

 どうやら、夢にまでみたことが現実に起きているらしい。諦めた頃にやってくるというあの噂は本当だった。そっと下腹部に触れてみる。いつもと変わらない。いや、少し温かい気がする。お腹をさすってみた。妊婦みたいだ。いや、そうなったのだ、私は。

 少しずつ理解が追いついてきたのか、目の端に涙が溜まり、流れ落ちる。

 この目眩は君のせいだったのか。

「七海を迎えにこさせよう。電話しておくぞ」
「今日は遅くなるって言ってたから、来れないと思います」
「そうか? 飛んでくるんじゃないか?」

 家入はそう言って鼻歌を歌いながら胸元のPHSを取り出した。電話をかけながらカーテンをするりと抜けて電子カルテの前に座った。七海と何やら話しているようだが聞こえてこない。断片的に“倒れて……”、“意識はある……”と聞こえてくる。とんでもない重傷者として報告されていそうで、七海の反応が心配だ。

 電話を終え、家入がカーテンの隙間から身体を差し入れながら言う。

「三十分で来るとさ。結果は自分から伝えるんだぞ」
「……家入さん、これから私どうすればいいんでしょうか」
「産婦人科で胎児の心拍が確認されたら区役所へ母子手帳を取りに行く」
「いや、そうじゃなくて。ちょっと現実味がないというか……」
「二人でゆっくり噛み締めろ。今夜は赤飯だな!」

 家入は声高らかに笑いながら医務室の奥へ去っていった。

 不思議な気持ちが込み上げる。嬉しいような、こそばゆいような、今まで感じたことのない感情。辛くてたまらなかったこの目眩も吐き気も、私に宿った新しい命からの知らせだった。

 私の身体は確実に変化しているようだ。気持ちはまだふわふわしているけれど。家入の言う通り、これから七海と二人で噛み締めよう。