第2話

 前回の生理からしばらくした頃。そろそろというタイミングで排卵チェックをすると陽性反応があった。ここから数日、タイミングを持たなければならない。正直に言うと気が重い。

 ここ最近の私達のセックスは、愛の営みというより作業になっていた。その日が来たら「今日排卵ありそうです」と業務連絡のようなメッセージを送る。彼の返事はいつも短文だが、早く帰ってくるよう努力してくれているようだ。「お願いします」から始まって、シャワーを浴びて、入れて、出す。その後は、パジャマを着ておやすみなさい。これを仕事のように最低三日は繰り返す。

 排卵日が近づいたら七海に知らせるので、いつだって誘うのは私から。これは仕方がない。身体の具合を知り得るのは私だけなのだから。しかし、今では七海からの誘いはほとんど無くなってしまった。この原因は私にあるのはわかっている。誘われても気分が乗らないと言って拒否することが続いたし、義務のようにやることだけやって終わったらすぐ寝るといった調子を続けていたからだ。七海と身体を重ねることで満たされていた日々は、もはや過去のものになってしまった。今や私たちの夫婦生活は愛の確認作業ではなく、子作りのための業務である。愛を囁かなくなった七海に少しの寂しさを感じてはいたが、それは自分に責任があるので仕方がないことだと諦めている。それでも、こんな私としてくれるだけで有難いことだと思うようにしていた。

 どうやら私は子どもができないことで、女という自分の性に自信がなくなっているらしい。この身体はどこがどうなっているのかわからないが何かがよくなくて、子孫を残せない可能性が高い。いくら仕事で評価されようと、自分を磨こうと、生物として根本的なところに欠陥があると言われているようだった。幸い、この業界では子どもがいる人の方が珍しい。デリカシーが無い人々から聞かれる「子どもはまだ?」というプレッシャーは少ない。私たちの夫婦生活を詮索されることも無かった。一般人は大変だと聞く。三年も子宝に恵まれないとなると、きっと親類や友人なども黙っていないだろう。そうやって見知らぬ誰かと比べて、自分の方が少しでもマシだとでも思わないと存在を否定されているような気持ちになる。

『LHサージ陽性。今日お願いします』

 七海へメッセージを入れる。しばらくして既読になり、『了解』とだけ短い返事があった。彼は昼前に家を出たようなので、遅くなるかもしれない。反対に私は早朝に出発し、既に仕事を終え帰宅している。つくづくタイミングの合わない二人だな、と自嘲した。七海が帰るまで、まだ時間はかなりある。家事を片付け夕食を用意して、次の仕事の書類に目を通す。パソコンを閉じて少し休憩しようと目を閉じたら、いつの間にかそのままソファで眠ってしまった。

 しまった、と思い一気に目が覚めた。休憩のつもりが熟睡していたようで、時計を見ると零時を回っていた。まだお風呂にも入ってないし夕食も食べていない。七海は、と辺りを見回すが帰宅した様子はなかった。スマホを確認すると二十分ほど前に『今から帰ります』とメッセージが入っていた。返事をしようと画面をタップしたら、玄関ドアが静かに開く。七海が帰ってきたようだ。革靴が二歩分なって、カギをそっと置く音が聞こえた。ジャケットを脱ぎながら歩いているようで、衣擦れの音が近づいてくる。

 ふと昔のことを思い出す。遠い記憶の中の私は嬉しそうに七海の胸に飛び込む。嬉しくて玄関まで出迎え抱きついていて、満面の笑みを浮かべる。そんな私を見て、七海は優しく微笑んだ。そして、犬みたいだとからかわれたんだっけ。懐かしくも切ない思い出だ。今とはまるで違うから。

 これからの行為を考えると憂鬱になる。洗面所で手を洗う音が聞こえ、リビングの扉がそっと開いた。私はソファに横たわったまま、顔だけ七海の方へ向ける。おかえりと言ったが、ただいまは無かった。

「寝てたんですか」

 開いた口が塞がらないとでも言いたげな表情で七海が言う。わざとらしく溜息をつき、時計とネクタイを外した。

「さっき起きた。お風呂入ってくる」

 私はソファからゆっくりと身体を起こし、結んだままの髪を解いた。

「……どうぞ」

 こちらを振り向くことなくキッチンへ行き、夕食を電子レンジで温め始める。その背中からなんとなく不機嫌が感じられて声をかけた。

「あ、ごめん、やっぱり先入る?」

 七海がため息混じりに「いえ」と言って数秒の沈黙のあと、げんなりとした表情をして口を開いた。

「もうチンしはじめたのに君から入ればいいでしょう。今日は暑かったので汗だくですけど。これ食べたら入るので。どうぞ。お先に」

 七海は一気にそう言うと、両手に皿を持ち、口に箸を咥えてテーブルについた。その態度で私の至らなさを指摘するようだ。

 いつものことなのだが、七海はわりと子どもみたいな感情表現をする。結婚当初は可愛らしく感じたものだが、今はそうは思えない。タイミングを持たなければならない、今日のような日は特に。これで職場では大人オブ大人の常識人として扱われているのだから外面がいいにも程がある。

「嫌味言わないでよ」

 言わなくてもいいのに私も反撃する。

「……」

 返事がない。またいつものようにだんまりを決め込むので、私はそのまま無視してバスルームへ向かった。仕事時間が違うのだから、帰宅時間がずれても仕方がない。私が寝てたら何か問題でもあるんだろうか。自分の時間をどう過ごそうが私の勝手である。いらついて雑に身体を洗いながら、念の為に無駄毛をチェックする。いくらこれからするのが作業としてのセックスであっても、最低限のマナーは守っておこうと思った。こんなになってもまだ、七海に少しはよく見られたいという女の部分が残っている。

 シャワーを浴びながら先程の正しい対応とはなんなのか考える。一緒に入ろうとは誘えばよかったかもしれない。しかし、もう一年以上明るいところで七海の肌を見ていないので、なんだか決まりが悪かった。前みたいに恋人同士のように振る舞えない。七海と私は男と女であり夫婦であるのはもちろんだが、生活を共にする家族でもある。食べたり飲んだり眠ったり、七海と過ごし人間としての営みを繰り返すうちに、私と七海の間にあった別の個体であるという境界線が曖昧になってきている。七海が私へ影響を与えるように、私の行動や言動もまた七海に干渉して差しひびく。それぞれ独立した大人であるはずだが、家族として暮らすうちに一部が溶けて融合したような感覚。

 ラインは曖昧なのに心の距離は遥か遠い。この間隔をどのように埋めたらいいのだろう。不妊であることが私達の間に溝を作ったのだろうか。

 風呂から上がると交代で七海が入っていった。わざとらしく私を無視している。大人気ない。食べたあとの食器も片付けることなくテーブルに放置している。つまらない嫌がらせである。腹が立つがこのまま放っておくのも癪なので、食洗機に乱暴に放り込んだ。

 いつの間にか音もなく風呂から出てきた七海がテーブルの上を見て鼻で笑う。片付けてやったんだから、何か言えばいいのに。自分から声をかけるのも癪なので放っておいた。そんな私を見て更に不愉快なんだろう。七海はどかっとソファに座ると、サイドテーブルに積まれた本を読み始めた。

 冷ややかな空気な流れている。これではタイミングどころではない。でも今日を逃すとまた三十二日後には生理を迎えることになる。やるしかない。ソファに座る七海の前に立つ。最低だが腕組みまでしてしまった。いかにも威圧的な態度をとってしまう。

「ねえ、やらないの」

 そう言った私を七海は鋭い上目遣いで睨みつける。ここで怯んではいけない。

「……さっき帰ってきて、いま、やっと、座ったところです。ちょっとゆっくりさせてください」

 七海はすぐに視線を外して大きくため息をつく。

「もう眠いから、さっさと終わらせて寝たい」

 我ながら自分勝手な言い分だと思うが、折れる訳にはいかない。今日しなければ、来月また泣くことになる。今日やらないと、卵子の寿命は排卵後二十四時間しかないのだから。

「君、さっきまで寝てたでしょう」

 わざとらしく口角を上げて七海が言った。その仕草に胸がざわつく。

 いつでも出せる男とは違って、私にはひと月に数日間しかチャンスがないのに。一人じゃできないからお願いしてるのに。七海が子ども欲しいって言うから頑張ってるのに。

 一気に惨めな気持ちが沸きあがる。返事をするのも嫌だった。こんな気持ちのままセックスなんてできない。でもやるしかない。虚しい。七海はなんて意地悪なんだろう。返事をせず寝室へ向かおうとすると、七海の声が聞こえた。

「起こしていいんですか」

 振り返ると本に目を落としている。こちらを見もせずに言葉を発するその仕草にまた傷ついた。

「今日から三日はやらなくちゃいけないの」

 私も七海を見ない。寝室に向かって言い放つ。

「……はあ。もっと肩の力を抜いたらどうです」

 頭に血が上る。私は返事をせず、寝室のドアを力任せに閉めた。七海の反応はわからない。こんなに腹が立っているのに、それでもまだ“やらなきゃいけない”気持ちは冷めることなく、私の中に義務として存在する。


 一人では広すぎるベッドに身体を投げ出す。タオルケットに包まり、可哀想な私の事を想い泣いた。