第1話

 七海が呪術師に復帰してしばらくした時、交際を申し入れられ了承した。三ヶ月後にはプロポーズされ婚姻届を提出した。あれから三年。私達はずっと二人で暮らしている。


 コウノトリは存在しない。


 七海と付き合い始めたと言うと、とても驚かれた。七海が術師に復帰した時には、恋人や家族を作るつもりはないと言っていたようだ。それがスピード結婚となれば、みんなひっくり返るほどびっくりしていいリアクションを見せてくれた。七海の中で何がどう変わったのかは知らないが、何かが吹っ切れたんだろうと思う。そんな七海が子どもを欲しがったなんて聞いたら、医務室のベッドはいっぱいになるだろう。七海と一緒に過ごせるだけで幸せだった、そんな三年前の事を思い出しながら一人でにやついていた。

 子を成すことがこれほど大変だとは思わなかった。結婚してセックスがあれば自然に妊娠する、そう信じて疑わなかった。なんの問題もない健康な夫婦が一度の排卵で妊娠する確率は約二十パーセントだそうだ。それなのにこの三年、一度も私にその兆しが訪れることはない。この確率はいったい何パーセントなのだろう。

 毎月きっちり訪れる月経が、律儀に今月もやってきた。たまに遅れたり早まったりするものの、“私は健康な成人女性である”と言わんばかりに狂いなく訪れる。昨日から基礎体温が下がってきていたので、今回も駄目だったんだと半ば諦めていた。こうなることはわかっていたつもりだった。それでも、覚えのあるだるさと陰部の不快なぬめりで目覚めた時、ああ、また来たのか、と頭の中で脳がぐるぐる回っているような感覚に襲われる。しばらくベッドの中でもたもたしていたが、ようやっと立ち上がりふらふらとトイレへ行く。ショーツに着いた経血を見ると、どうしようも無く暗い気持ちになる。やっぱり今回も駄目だったんだと、現実を突きつけられるからだ。

 排卵チェック薬では陽性が出るのに、妊娠検査薬では陰性ばかり。神様はどうして私たちに子どもを授けてくれないのだろう。

 月経周期は規則正しく約三十二日。基礎体温は高温期と低温期がはっきり二層に分かれている。排卵日が近づくと下腹部の圧迫感があり、頚管粘液の増加もある。まさに教科書通りなのだが、どうしても七海家に赤ちゃんはやってこなかった。七海の方にも異常はなく、原因不明不妊と言われている。何か原因があると言われた方がまだ希望が持てた。どうしていいのかわからない。このままずっと子どもが出来ないのだろうか。それでもいいと現実を受け入れて、別の幸せを探した方がいいのかもしれない。しかし、年齢的に絶望するほどではない。どっちつかずのこの状況がジリジリと二人の心身を消耗させていた。

「また生理きたよ」

 バスルームで血まみれのショーツとズボンを洗っていると、背中に七海の気配を感じた。振り返ることもなく告げる。反応はない。

「何がだめなんだろう」

 小さな声で呟いた。シャワーの音で聞こえないかもしれない。いや、聞こえていない方がいい。七海は優しいから、きっと慰めてくれる。私はそれに甘えて七海にあたってしまう。

「何もだめなことは無い」

 七海は聞こえていたようで、バスルームに入ってバスチェアに座る私の隣に膝をつく。濡れるよ、と言おうと思ったがやめた。

 やはり、私の気持ちを汲もうとしてくれる。いつも辛い気持ちに共感してくれる。わかっているからこそ、今はやめて欲しかった。ささくれだった気持ちをぶつけてしまう。近寄らないで、今は放っておいて欲しい。そう言えばいいのに、狡い私は言わなかった。自分の中で消化しきれない、このどす黒い気持ちを発散したくて、七海が私に触れるのを待つ。

 一呼吸置いて、七海の温かく大きな手が私の背中にそっと触れる。ほら、来た。慈しむように撫でられる。心地好い。それなのに私は、七海に今から酷いことを言う。

「じゃあどうして赤ちゃんできないの」

 責めるように呟いた。言ったそばから後悔したが、口から出た言葉は取り消すことはできない。七海は何と言うのだろう。私の背を上下する手から困惑を感じる。背中から肩へそっと手を回し、私の側頭部にそっと額をくっつけた。その行動から七海の深い愛情を感じ、私の心は安心で満たされる。それでも心の奥底には焦燥と不安が入り交じり、身体は熱した鉛のように重く、沈み込むようだ。すごく泣きたいのに、なぜか涙は出ない。

「まだその時じゃないんでしょう」

 七海が静かに言う。私の気持ちを落ち着けようとする時の声色だ。

「いつその時がくるんだろう」

 間髪入れずに答える。きっと七海はすぐに答えないだろう。ゆっくりと時間をかけて、私を傷つけないよう言葉を選ぶはずだ。そんな七海の慰めの言葉に期待している。

「……」

 七海は黙り込んだ。答えが出ないこと、誰にもわからないことで小突いても仕方がないのに。どうにも嫌味ったらしい言い方をしてしまったことを私はまた後悔した。七海の寄り添おうとする気持ちを利用して鬱積した負の感情の捌け口にしている。

「これ洗ってから出るから先行ってて。遅れるよ」

 また彼は何も言わなかった。そして静かにその場を立ち去った。出しっぱなしのシャワーの音が浴室に響く。やはり泣けない。涙の一粒でも出てくれれば気が晴れるかもしれないのに。この感情の捨て方を知らない。毎月少しずつ溜まっていく。いつも七海がきれいにしてくれたけれど、三年という年月の中で小さくついた傷は増え、消えない汚れが溜まり、取り返しのつかないところまできていた。

 しばらくして玄関のカギをかける音が小さく聞こえた。私は七海の方を一度も見なかった。酷い言い方をして、冷たい態度をとった。自己嫌悪で、ようやく涙が流れる。それすら自分のために泣いているようで、気分が悪い。いつも彼は私を責めない。その優しさに漬け込んでいる自分の不甲斐なさが心底気持ち悪かった。