私が幸せかどうかは、私が自分で決める

第5話

「私、七海のことが好き。初めて会った時からずっと」



 例の部屋から一歩出てすぐに彼女が七海の背中に向けて放った言葉は、稲妻の如く頭からつま先へと駆け抜け、彼をそのまま地面に縫い付けた。全身がビリビリと痺れて血の気が引いていくのがわかる。言葉としての意味は理解できるのに、自分が当事者であると納得できない。そんな七海なんておかまいなしに、続けて彼女は言う。



「私の好きな人は七海だよ!」



 悲鳴のような彼女の声が続き、先ほどと同じ意味を持つ言葉が七海の心臓を穿つ。全身の血液が一気に凍りつく。耳鳴りがする。どこか遠くで自分ではない誰かに起こっているできごとのように感じるのに、彼女の声は七海の背後から聞こえてくる。『七海のことが好き』『好きな人は七海』確かに聞こえたその言葉の意味を脳が正しく処理できないままでいる。そんなことがあるわけはないと、今までの二人の関係が走馬灯のように駆け巡った。いつだって彼女とは言い争っていたし、会話らしい会話なんて無かった。記憶の中ではいつも背中を見つめるだけだ。楽しそうな顔は、七海ではない誰かといるときしか見ることができない。微動だにしない七海に追い打ちをかけるように彼女が呟く。

「でも、もう諦める」

 あまりの衝撃に七海は未だ振り返ることができないでいる。彼女はというと、一世一代の告白をしても無反応な七海の一歩後ろで顔を真っ赤にしながら目をきつく瞑り、身を小さく縮めて肩を震わせていた。辛い。苦しい。答えを聞きたくない。たった二文字を十年以上閉じ込めて、ようやく今、言葉にした。言わないでおこうと決めていたのに、言ってしまうと嘘みたいにあっけない。頭の中が真っ白になって動けない七海の背中に彼女が続けて語り掛ける。

「変な部屋に閉じ込めてごめん。私のせいだ。あの扉、昔の私の部屋の扉なの……」

 次第に彼女の声が小さくなり始めた。絶対に涙を流すまいと決めていたのに身体中を駆け巡る激情に抗えず、ついには目頭も熱くなってくる。このままではまずいと思うのに一度口に出してしまったらもう止めることができない。七海が七海の好きな人に告白する前に自分の気持ちにケリを付けたい。自己中心的な終わらせ方だがそんなことはどうでもいい。一生告げるつもりが無いというのは、終わらせるつもりは無い、と同義だと気付いたのだ。今は違う。もう終わりたい。この辛く苦しい片思いを清算して、今日から新しい人生を始める。そのための告白だった。

「七海が一回だけ私の部屋に宿題届けに来てくれたことあったでしょ」

 浅い呼吸と共に彼女が呟く。

「あの時慌てて転んで、ドアノブ掴んだら取れちゃって。焦って直したけどちょっとずれたまま」

 七海が学生の頃、一度だけ女子寮の彼女の部屋へ行ったあの時のことだ。忘れるはずがない。


***


 あの日彼女は季節性の流行り病にかかって部屋で休んでいた。学校保健安全法で定められた出席停止期間中の課題を届けるため七海が指名され渋々訪ねたのだ。たった二人のクラスメイトの一人が休めば一人きりの授業。だだっ広い教室にぽつんと並べられた二台の机。片割れがいないだけでこうも静かなものなのかと七海は思った。メールを打っても返信は無く、寝ているのか無視しているのかもわからない。この時すでに二人の会話はほとんど無かったし、七海は大学編入試験の勉強で忙しかった。上級生になれば今までよりさらに遠方へ出向くことも増え、彼女は学校にいる方が少なくなっていた。それでも気にかけていないわけはない。それどころか、以前よりも気になって仕方がない。今どこで何をしているのだろう。二人に残された時間は少ないのに、このまま会話無く袂を分かつ日が来てしまうかもしれない。七海には常に焦りがあった。だからといって、何をするわけでも無いのだが。

 一向に返事がない彼女の安否確認も兼ねて、少々気まずい思いをしながら彼女の部屋の扉をノックする。

「七海です。授業の配布物を持ってきました」

 しばらく待つが物音ひとつ無く、寝ているのかもしれないと七海は考えた。それとも風呂や食事だろうか。諦めて扉の前にでも置いて帰ろうと考えた時、室内でドタバタと足音が聞こえた。それが七海の方へと向かってきたと思えば、ガタンと大きな音を立てて何かが壊れるような音がした。中で彼女の慌てふためく様子がなんとなく想像できたが女子の部屋を勝手に開けるわけにもいかず、持参したものを置いて立ち去る旨を扉越しに伝えると、中から扉をガンガン叩き、ガチャガチャとドアノブを操作する乱暴な音が聞こえた。

「何やってる」

 七海がいつものように眉を顰めて言うと、扉が少しだけ開いてその隙間から彼女のとろんと潤んだ瞳が覗く。

「あの、ありがとう。わざわざ」

 汗で前髪が額にへばりついている。上気した顔を見るにまだ熱があるのかもしれない。それなのに部屋着のTシャツの襟ぐりはだらしなく緩んでいた。七海の長身から彼女を見下ろしたら胸の谷間に汗をかいているのがわかった。それにブラジャーを着けていない。ほんの数センチ先に彼女の生活の場がある。扉の内側は彼女だけの場所だ。古い建物特有の湿気臭さと共に、茹るような女の匂いが流れてくる。脳脊髄に直接作用するその甘やかな芳香は、自分とは決定的に違う雌のものだった。同級生であるが、生物学的には男と女。今まで異性として意識しないように気を付けてきた性をまざまざと感じさせられ、七海は居心地の悪さに顔を顰めた。

 一方彼女は、七海の舐めるような視線を浴びて自分の見た目が酷いことに気付いたのか、扉をほとんど閉めてしまった。部屋の中から何度も「ありがとう」と「ごめんね」を言って、隙間から手だけ出して荷物を受け取った。それから「うつるから早く帰った方がいいよ」と扉越しに言うと、再びバタバタと奥の方へと走って行ってしまった。ボスンとベッドに身体を投げ出す音が聞こえたところまで扉の前に突っ立っていた七海だが、盗み聞きをしているようで気まずく思い、何も言わずに立ち去った。今日、自分の中で何が起こってしまったのか、これ以上考えたくない。

 七海は部屋に戻って扉が閉まったことを確認したら、頭の中で彼女を滅茶苦茶に犯した。あのまま扉につま先を差し込んで押し入り、嫌がって逃げる彼女を押さえ付けて自身を捻じ込む。その後は抵抗などお構いなしに夢中になって腰を打ち付ける。泣き喚いて怖がっても、止めるつもりなど毛頭ない。

『やめて! 私たち〝友達〟だよね!?』
『うるさいな。一度も友達だと思ったことなんてない』
『嫌だっ! 痛いよぉ、も、やめてぇ……!』
『自分から誘ったんだろ!』

 どこかで聞いたことがあるような安っぽい台詞を吐く彼女に苛立ち、欲望のすべてをぶちまけるように背後から凌辱する。そのうち抵抗が弱まり穴も緩んで少しずつ粘液が滲み出てきたとき、一番奥に押し付けて思いきり射精してやる。そうすると彼女はまた怯えて抵抗を始めるのだ。女の力で敵うわけはないと理解らせてやると躍起になり、四肢を拘束して更に自由を奪う。二度三度と彼女の最深部に溜めこんだ精液を思いきりぶちまけた。七海がハハハと乾いた笑いを漏らすと、彼女は怯えて震えた。

――なんだ、嫌がっている割にぐちゃぐちゃじゃないか。真っ白な肌をピシリと打つとそこだけ真っ赤になって、まるで花が咲いたみたいだ。どうせここにいたんじゃ、誰も彼もがじきに死ぬ。それならもう、どうなってもいいと思わないか?

 頭の中で一通り行為が終わったあと、七海は激しい後悔に襲われた。いくら結ばれないと理解していても、今日のようなひどい妄想をして己の歪んだ欲望を思いきりぶつけてしまった自分が情けない。それでも目を閉じると瞼の裏に映るのはまるで最中や事後のような先ほどの彼女の姿だ。七海は自分にこのような嗜虐的な思考があるとは思わず始めこそ混乱したが、そんな酷い幻覚を何度か繰り返し頭の中で再生するうちに次第に麻痺してしまった。あんな無防備な姿を男の前で晒すなんてどうかしてると彼女を責めることで罪悪感を薄め、これは空想で現実ではないから問題ないのだと自分に言い訳をして何度も何度も、脳内で彼女を犯した。罪悪感と下心が混じったどす黒く不気味な感情をうまく扱えず持て余しながらも、彼女の姿を使って妄想することをやめられない。

 あの日以降、七海はどんなことがあっても女子寮に足を踏み入れなかった。あの空間に行ってしまえば思い出してしまう。彼女の火照った肌と薄い身体。胸の先端についた可愛らしい桃色の蕾を。


***


 七海にはそんな鬱屈した青春時代があった。七海の酷い妄想を彼女は知らない。しかし彼女を見ると思い出すのだ。あの頃の自分の至らなさを。それを若さだけで片付けられることができたらどんなに楽だろう。彼女を見るたび、自分の精神的な未熟さを突きつけられるようで、羞恥の念が皮膚の下をぞわぞわと這いまわる。

 この業界でなければ、彼女への恋心は青春の甘酸っぱい思い出として胸に仕舞っているだけで終われたかもしれない。こんな世界で出会ってしまったせいで呪いになり、未だに心に巣食っている。忘れたくても忘れられない。捨てようとしても泣きながら忘れないでくれと縋りつくからタチが悪い。誰ともどうにもならないと思えば思うほどあの日の光景が鮮烈によみがえり、七海を苦しめ続けた。近くにいる気配がすれば避けたのは、遠くから見つめるだけでいいと思っていたからだ。顔を合わせれば口論になるから、極力会話をしないように心がけていた。互いに連絡など取り合うわけもなく、人づてに聞いた噂話で近況を知った。勝手に見た勤務表で行先を知り、ひっそりと無事を祈る。そんな関係だったのに、彼女は七海のことが好きだという。これは現実だろうか。あの部屋のせいでまだ、何かがおかしいのかもしれない。

 七海はずっと振り返ることができないでいる。広く逞しい背中に彼女の叫びがぶつかっては消えた。空気は張り詰め、息をするだけでも身体が引き裂かれてしまいそうだ。恐らく彼女は泣いているのだろう。それを悟られまいと必死になって隠している。七海に向かって好きだと叫んだのに、答えを求めることなく諦めるのだと言う。彼女がそれを望んでいるのならば、応えてはいけないのかもしれない。二人は決して始まってはならない。始まったら最後、今度は終わりがきてしまう。

 七海が彼女に返事をする資格はあるだろうか。今までさんざん傷つけて、頭の中では都合よく弄んできた。時には無理矢理、時には恋人同士として、何度も肌を重ねることを夢想した。ついには捨てて逃げたのに自分勝手に出戻って、変わらぬままでいてほしいと都合のいい理想まで押し付けている。どうすればいい。彼女を傷つけたくない。ドラマチックに手を取り抱きしめて、誰よりも愛してると叫びたいが、この先彼女を再び独りにしない保証はない。七海が死んだあと、彼女は一人で生きていけるだろうか。彼女が七海を遺して逝ってしまったとき、正気でいられるだろうか。死体も残らないほどぐちゃぐちゃになったら。跡形もなく消え去ったら。彼女が突然、帰って来なくなったら。誰にも見つけられずに事切れたら。良くないことばかりが思い浮かんでは消えていく。七海は自分の性を呪った。何も考えずに感情だけで動けたらどんなに楽だろう。

 結局七海は彼女の告白を聞いて以降、一言も発さず振り向くこともなかった。彼女は微動だにせず一言も発しない七海のいつもと変わらぬ後ろ姿を見て、彼の考えていることがわかった気がした。当然の結果だ。始めから勝算など無かった。それが七海の答えなのだと彼女は思った。応えることはできない。そういうことだろう。言う前から結果はわかっていたけれど、ここまで冷たくあしらわれるとは思っていなかった。立ち去らないところをみるに、一応耳はこちらに向けているらしいことだけはわかる。まあこれでいい。聞いてくれるだけで十分だ。別に今更七海とどうこうなりたいというわけではなく、自分の気持ちにケリをつけるために言った。ただそれだけなのだから。だから七海が今回の騒動で罪悪感を抱かないように自分から終わらせるしかないのだ。

「死んだら骨、海に撒いてよね。約束でしょ」

 動けない七海に追い打ちをかけるようにすべてを諦めてしまった彼女が言う。それから冷えた空気から逃れるように足早に七海の隣をすり抜けていく。自分よりもうんと小さい身体が、いつもよりもっと小さく見える。先ほど部屋を出るとき、もう何もかも清算しようという気持ちになっていた。彼女に先陣を切られて言い出せなくなったなどという言い訳を頭の中で何度もこねくり回し、これから先のことを考える。彼女が見せてくれた弟と妻となる人物の写真がぼんやりと浮かんだ。

『奥さん妊娠してるんだ。可愛い。幸せそう』

 彼女の言葉が脳内を駆け巡る。結婚。妊娠。幸福。家族。七海は自分と彼女を並べて想像してみた。あの二人のように笑っていたい。でもどうしてか幸せな未来など全く見えない。それは七海が彼女を使ってしてきたひどい空想の行為のせいでもあるし、呪術師という血生臭い仕事のせいでもある。幸せにしたいと思っているのに、幸せというものが何かわからなくなってしまった。幼い頃に父や母へ向けていた感情と同じものでよいのだろうか。大切に思ったもののほとんどを失ってしまった。産まれてきて呪いが視えて、ずっと孤独感に苛まれてきた。高専へ入り学友と出会ったことで少しはマシになったと思ったのに、それは地獄の入り口に過ぎなかった。こんな世界で一体何を求めろというのだ。自分が今行っているのは過去の清算。あるいは罪の償い。はたまたやり直しかもしれない。馬鹿げてる。何もかも。この世界も。あの部屋も。イカれた先輩も。この世界で変わらず笑っていられる彼女でさえも。

 そうこうしているうちに彼女の背中が遠ざかっていった。ほらもうあの角を曲がったら、すべてがゼロになる。これで良かったんだ。そうだろう。

 七海が諦めて立ち去ろうとしたとき、聞き覚えのある若い男の声が聞こえた気がした。七海の記憶の中で一番明るい男の声だ。それは自身の中から聞こえてくるのに、七海の言葉ではない。

今言わないでいつ言うの。
一生伝えるつもりは無い。
さっき約束したじゃないか。
でも彼女の枷になりたくない。
ここまで意気地なしだなんて。
傷つくのは自分だけでいい。
あの子も十分傷ついてるよ。
始めてしまったらもっと傷つくことになる。
やってみないとわからない。
うるさいな、このまま〝友達〟のままでいい。
一度も友達だなんて、思ったこと無いくせに!

 その声に背中を押された気がした。一歩前に出た七海は、その勢いのまま彼女に向かって声を掛ける。どうか足を止めてくれと願いながら。

「あの部屋に入ってから今までのこと、全部取り消します」

 七海の声を聞いた彼女が曲がり角でピタリと止まった。両手を固く握り、肩を震わせている。怒っているかもしれない。当然か、と七海は他人事のように思った。部屋から出たら告白してみませんか、などと言いながらも結局一言も発していないのは七海の方だ。それどころか彼女に先制され、そのまま不戦勝で退場しようとさえしていた。そんな七海の腰が引けた態度を見透かしているのか、彼女は大きな深呼吸をして七海を真っ直ぐに見つめた。

「七海に告白したのは私の自己満足だから聞いてくれるだけでいい。あの部屋であったこと、七海のせいだなんて思ってない。今日で全部終わりにする」

 眉間に皺を寄せて唇を噛みしめる七海とは対照的に、振り向いた彼女はもう何もかも終わったというようなすっきりとした表情をしていた。自分の言いたいことだけ言ってスッキリして立ち去ろうとする彼女の身勝手さに、七海はなんだか腹が立ってきた。もちろん、腹を立てる筋合いが無いことなどわかっている。それでもあまりの清々しい様子に、一人でさっぱりするなと文句の一つも言いたくなる。自分がどれだけ耐えてきたか、どれだけ愛しているか、それを飲み込むことが、どれほど辛いか、知らないだろうと言ってやりたい。こんなにあっけなく告げていい想いではない。墓まで持っていくつもりだったのに。

「違う。なぜわからない」
「お互いさまでしょ。じゃあね七海。聞いてくれてありがとう。明日からも今まで通りでよろしく」
「ちょっと待て。この十年をやり直したい」

 猛スピードで七海が突進してきたと思ったら、彼女の手首を思いきり掴んだ。じっとりと湿っているのに冷たい手のひらから七海の緊張が伝わってくるようだ。長身から彼女を見下ろし鬼のような形相で睨みつけている。そんな圧に屈することなく、彼女は思いきり七海の手を振りほどいた。ぎりぎりと締め上げられた手首には手形がついていた。

「もう全部、ぜーんぶ遅い! 今日で呪術師辞めて婚活するから。アラブの石油王と結婚して悠々自適に暮らす!」
「また突拍子も無いことを言う。非現実的です」

 七海は空っぽになった自分の手のひらを握って開いて、見つめてみた。この手ですべてを守りたいし、何一つ取りこぼしたくないのに、どうしてかいつも叶わない。今だって目の前にいる長年の想い人の手さえ掴み損ねてしまった。今も彼女は政治家の愛人になって不労所得で生きていくだとか、宝くじを当てて引退するだとか、わけのわからないことを言い続けて七海が近づくのを拒絶している。もうどうしようもないのかもしれない。やはりこの想いを告げるべきではなく、諦めて一人で生きてひっそりと死んだほうが気楽だろう。七海がうつむいたまま逃げ口上を脳内でこねくり回していると、彼女は苛立ちを露わにして叫ぶように言った。

「さっきから何⁉ 言いたいことがあるならはっきり言ってよ!」
「私も好きです。アナタのことが、学生の頃からずっと。諦められない」

 ヒステリックに声を荒げる彼女を見て、七海は大きな溜息と共に告白した。もう、どうでもいい。諦めの境地からつい出てしまった言葉だった。

「……なんでそれを、さっき言ってくれないの」
「私ではアナタを幸せにすることができないからです」
「私が幸せかどうかは、私が自分で決める」

 七海から自分勝手だと言われたが、一体全体どちらが自分勝手だというのだろう。部屋を出たら告白しようだなんてけしかけておきながら、自分は守りに入って口を噤む。彼女の決死の告白に大した返事もなく、挙句の果てには嫌々みたいに想いを告げておきながら、そのくせ幸せにできないなどと悲劇のヒロインぶって彼女から目を逸らしている。

 彼女は覇気なく眉を下げる七海から視線を逸らすことなく、真っ直ぐに見つめ続けていた。濡れた瞳の奥の方に、彼女の強い意志を感じる。

「私を許してくれますか」

 ぼそぼそと呟くように七海が言うと、彼女は強い口調で言い返した。

「許さない。今までのこと、全部清算して」

 出会ってから今日までのことが脳裏に浮かぶ。思い出すにはどれも辛く、苦しいことばかりだ。それなのに七海のことを考えていると胸が熱くなる。本能から彼を求め、愛してしまっている。この気持ちを知らなかったころには戻れない。想いを告げたからには、最期まで寄り添って生きていきたい。七海が彼女の手を取り、真剣な眼差しで言った。

「一生かけて償います。傷つけてすみません」

 それに応えるように彼女は微笑む。

「七海の一生、私が丸ごと貰うから。それから、……私も、意地悪ばっかり言った。ごめん」

 彼女は珍しく口ごもり、視線を泳がせながら可愛らしい謝罪をした。七海にとって、取るに足らないことだった。何を言われても、どんなことをされても嫌いになんてなれないのだから。

 ゆっくりと彼女の手の甲に唇を当てた。この関係を何よりも大切にしたい。ようやく結ばれた二人の特別な日だ。どこへ誘おうか。夜景のみえるレストランで愛を囁き合うのもいいし、カジュアルなバーで長年のわだかまりを解消するためおしゃべりに明け暮れてもいい。自分のもてるすべてをかけて彼女を愛し抜く覚悟が七海にはある。

「いいんです。食事に行きませんか。今夜はアナタとゆっくり話したい」

 七海は渾身の甘ったるい声を出して彼女の反応を窺った。この流れ、間違いなくうっとりして頷くに違いない。七海は伏せた目をわざとらしくないように意識して、ゆっくりと戻した。


「あ、今日は家入センパイに誘われてるからパス」


 七海の予想に反して、彼女は回れ右で廊下を曲がってスタスタと立ち去ろうとした。咄嗟に七海が追いかけるも、彼女の足は異様に速い。

「おい待て。なんでそうなる」

 肩を掴もうと腕を伸ばしたけれど、彼女はするりとすり抜けて歩みを止めない。女子会だなんだと言う彼女の後を追いかけながら、この流れでそれはおかしいと抗議してみても、約束は先着順なのだと彼女は言う。次はいつ会えるのかと聞けば、なんと二週間後ではないか。そんなに待てないと縋っても、彼女は頑として譲らなかった。そんな二人を微笑ましく見守っている役目を終えた心優しい呪霊たちは、顔を見合わせてやれやれ、と大息を吐いた。



 何はともあれ、一件落着である。





 壁男です。なんとかハッピーエンドに納めることができましたが、すべては彼女と扉子さんのおかげです。私と私の生みの親である七海建人は、ただ流されただけに過ぎなかったのですから。女性は強かです。私の壁人生に悔いは無い。

 扉子です。ハッピーなエネルギーのおかげで、奇跡的に一命をとりとめることができたわ。壁男さん、お疲れさま。これで私達もゆっくり休めるわね。まあでも、せっかく生まれてこうして出会えたんだから、恋のキューピッドとしてこのまま高専七不思議のひとつとして生きていかない? 私、壁男さんと一緒ならなんだってできそうな気がするの。ここからは時間外労働ね。




 こうして積年の両片思いを清算した二人は高専中から祝福され、たいそう苦々しい顔をしながらも繋いだ手は決して離さなかったという。

 壁男と扉子は高専公認の監禁部屋として大活躍するのだが、それはまた別のお話。