見慣れた横断幕にぼんやりと文字が浮かび始める様子を二人は静かに見守った。そこには「告白しないと出られない部屋」と書いてある。二人にはその告白が何のことを指すのか瞬時に分かった。言うつもりは無いと心の奥底に仕舞いこみ、鍵をかけて呪符を貼り付けぐるぐる巻きに封じた相手を愛する気持ちのことだ。身体の接触を強要するばかりでなく、秘めたる思いをも告げろという。
「告白、か」
彼女がぽつりと漏らす。その様子を七海は目だけを動かしてこっそりと見た。珍しく気の抜けた表情でぼんやりとしている。もうこれで終わりだと安心していのではないかと七海は思った。この部屋の呪いを祓い終えたら二人はどうなるのだろう。お互いに隠していた想いを打ち明けた後、今までと同じでいられるとは到底思えなかった。何度も今日の事を思い出し、気持ちを伝えたことを後悔するだろう。彼女に避けられるかもしれない。嫌って遠ざけてくれと思ったばかりなのに、また揺さぶられている自分に七海は呆れた。今世ではこれ以上の繋がりを望んでいない。そのかわり、死後の世界で一度だけ会わせてくれさえすれば、それでいい。そう思っていたのに。
もしも十年以上背負って生きてきた重荷を下ろすことができたなら。彼女も同じ気持ちであったなら。そんなことはあるはずがないのに空想してしまう。あなたのことをずっと前から好きだったと言ってしまえば気持ちは楽になるだろう。しかしそれは、七海が下ろした重荷を相手に背負わせるだけだ。やはりそんなことはできないし、やってはいけないんだと七海はぐっと唇を噛んだ。緩んだ気持ちを引き締めて、もう一度自分の気持ちを上から下までなぞってみる。彼女の事を心から愛している。この気持ちを告げたかったが自分にはできない理由がある。彼女に非があるのではない。自分のせいなのだ。だからせめて自分ではない誰かと幸せになり、それを祝福することを許して欲しい。
七海はいつかの結婚式の日を思い出していた。二次会の終わりかけギリギリに滑り込んだときのことだ。いつものごとく朝から晩までこき使われた二人は披露宴に出ることができず、駅のトイレでパーティの装いに急いで着替えた。早く早くと言いながらヒールを鳴らす彼女を七海は速足で追いながら、こうして二人で歩いていると恋人同士に見えるかもしれないと考えていた。二人とも速攻で仕上げたとはいえお洒落をしていたし、季節のせいか街はイルミネーションに彩られ美しく光り輝いていた。先ほどまで薄気味悪い異形を切り裂いて葬ってきたはずなのに、今はまるで別世界にいるようだ。あまりにも軽装な彼女が白い息を吐く度にマフラーをプレゼントしたいだとか、手を繋いだら温かいのにだとか、そういう事をばかり考えている。小走りで自分を急かす姿がデートではしゃいでいるように見え、彼女が背を向けているのをいいことに七海はフフフと声に出して笑った。空想の中の七海は優しく微笑み、走る彼女の手を取りこう言う。
『久しぶりのデートではしゃぎすぎでは。手を貸してください。危なっかしい』
すると空想の中の彼女は頬を染めて七海をうっとりと見つめてこう答えた。
『七海と一緒に居られることが嬉しくて、走ってないと弾け飛びそう』
しかし現実は違う。お約束の深い溜息を吐いて眉間に皺を刻み、心底呆れた声を出し七海は言う。
「いい歳した大人が馬鹿みたいに走るのはやめろ。そのうち転んで痛い目みますよ」
現実の彼女が振り返り唇を歪めてこう答えた。
「七海がしょーもない呪霊逃がすからこうなってるんでしょ。オフの時くらいその変なサングラスやめたら?」
それからまた走り出し、しばらくしたら小さな段差で七海の忠告通り彼女は転んで、咄嗟に前へ出した手のひらと膝を擦りむいた。ストッキングは派手に裂けたのに替えは無い。ほら言わんこっちゃないと七海は手を差し伸べたが、彼女は振り払って一人で立ち上がる。それから七海を無視してコンビニで替えを買ってトイレで着替え、七海のせいだと文句を言いながら再び駆け足で会場へと向かった。七海は走っていた自分のせいだろうと思ったが言わないでおいた。また口論になる。それに、上品なパーティードレスから見えた破れたストッキングを記憶に刻み付けることに忙しい。普段見ることのない装いといかがわしいハプニングのせいで頭がいっぱいだった。
なんとか二次会に辿り着いたとき、余興はすべて終わりみんな楽しそうに酔っていた。二つ年下の後輩術師に披露宴の写真を見せてもらいながら七海と彼女は一杯だけだと言い酒を酌み交わす。隣に腰掛ける彼女を見てみる。後輩のスマートフォンをスワイプし、花嫁の美しいウェディングドレス姿について感想を述べていた。綺麗だとか、可愛いだとか、そんな当たり障りのない言葉を口にて嬉しそうに微笑む彼女が愛おしい。上品なグラスに注がれたシャンパンを傾けると、いつもより血色の良い唇が金色の液体に触れた。ダークブルーのミディアムドレス。控えめなパールのイヤリングとお揃いのネックレス。細い手首に輝くゴールドの腕時計は仕事中につけているのを見たことが無い。スマートフォンを覗き込み、にこにこ笑いながら話している相手を自分に置き換えて、七海は空想のデートを楽しんだ。自分の頭の中の会話に意識を向けると、次第に周りの音が遠ざかっていく。彼女の声しか聴きたくない。
「ピンクのカラードレスもいいなあ。色白だからよく似合ってるねえ」
『ワインレッドはどうですか。きっとアナタによく似合う』
心の中で答えてみる。当然だが返事はない。
「ウェディングブーケも素敵だったんですよ。私のときもこんな色にしたいなあ。って、彼氏いませんけど……」
代わりに後輩が彼女に答えた。それに対して彼女はアハハと笑って、もう一度シャンパングラスに口を付けた。それから後輩と彼女が結婚式の話をしているのをぼんやり聞いていた。もちろん彼女の発言しか覚えていない。どうやら彼女はかなり具体的に自分の結婚式をイメージしているようだった。誰か決まった相手がいてそんな話が出ているのかもしれない。これ以上そのことが決定的になる前に話を聞くのを止めたいのに、七海はその場を離れることができないでいた。レースのロングスリーブから透ける彼女の柔らかそうな二の腕から目が離せず、緩く巻かれた髪が揺れるたび呼吸が止まりそうになる。二人が一杯だけの約束のシャンパンを飲み終えたとき、二次会は終わって解散となった。七海が「送りましょうか」と声を掛けようかもたもた迷っていると、彼女は後輩たちとさっさと帰ってしまった。七海は彼女から漂ってきた香水の匂いを思い出し、イルミネーションが煌めく夜の街を一人で歩いて帰った。この期に及んで彼女を誘おうとした自分の意思の弱さに腹を立てながら。
去年の秋の終わり、いや、冬の始まりあたりの出来事だ。彼女はもうこんなこと忘れてしまっているだろう。
虚空をぼんやりと見つめながら七海が呟く。
「恋人はいますか」
突拍子もない質問に彼女は驚いて目を丸くした。しかし七海はというと、いつもに増して声に抑揚が無い。刺すような視線も今はしおれて力を失っている。珍しく覇気の無い七海を見て、彼女はやはり気持ちを伝えてはいけないと思った。おかしな部屋に振り回されて疲弊している。これ以上困らせたくない。
「そんなのいないし、いらないよ。未練になるもん」
お互いにこの世界で生き続ける限り、呪いを視認して祓う力があり続ける限り、それを望んではいけない。いつどうなるかは誰にもわからないが、ろくな死に方をしないことだけは確定している。そんな時、遺された相手に辛い思いをさせたくない。この世界に心残りがあってはならない。恋人はいないし、作るつもりは無い。これは七海が出戻りしてきたときの歓迎会で本人の口から直接聞いたことだった。一般社会はどうだった、彼女はいるのか、などと質問攻めにあう七海がめんどくさそうに答えていた光景を彼女は昨日のことのように思い出す。七海が戻って少し浮かれた気持ちがしぼんでしまったあの一言。一気に身体から熱が引いていくようなあの感じ。辛さや悲しみとは違う。自分に愛想を尽かしたような気分になった。しかし長い期間をこの想いと共に生きてきたので今更無かったことにはできそうになく、せめて誰にも気付かれず、誰にも打ち明けずに静かに置いておこうとあのときに決めた。
それなのに、今になってぐちゃぐちゃに掻き乱されている。
彼女は未だぼんやりしたままだ。何か考え事をしているようだが、それを聞くことはできなかった。彼女は恋人などいないし、いらないと言う。それならばなぜあの時、結婚を羨ましいと言ったのだろう。それに七海は見てしまったのだ。
「先日、偶然ですが男性と二人で食事をしているところを見かけました。アナタは、フォトスタジオのパンフレットを持っていた」
彼女は苦笑した。恋人なんていないし、いらないと答えた後に、男といたではないかと指摘する七海に咎められたような気がしたからだ。しかし七海に見られてやましいことなどない。なぜなら。
「あれね、弟。今度結婚するの。式は挙げないって言うから、お金出すから写真だけでも撮ったらって勧めてただけ」
「……おめでとうございます。弟がいるなんて、初めて聞きましたよ」
少し申し訳なさそうに眉を下げる彼女を見て七海は逃げ出したかった。先ほどの発言で気持ちが露呈したかもしれないと思ったからだ。それと同時に、心の底から安堵した。彼女には結婚を考えている恋人などいなかった。一瞬で気持ちが緩み身体の力が抜けそうになった七海だが、すぐに〝なんでもない〟を装って彼女の弟の結婚を祝福する言葉を述べる。絶望的な気持ちに打ちひしがれていたはずなのに、瞬間的に歓喜が腹の底から湧き上がってきた。彼女のこととなると感情を制御できない自分が腹立たしい。諦めると決めたら掬い取られ、嫌われてもいいと思ったら期待を持たせるようなことが起こる。何か大きな力に弄ばれているに違いない。七海は辺りを見回した。何度も出入りしたあの部屋は今や見る影も無い。少しでも刺激すれば消滅しそうなほど揺らいでいる。上も下も右も左も無く、ただ広がる真っ白な空間。時折ノイズが走る様子を見るに、もう長くはもたないのだろう。
「一般人だから迷惑かけたくなくて誰にも話してない。奥さん妊娠してるんだ。可愛いよ、すごく。幸せそうで私も嬉しい」
にこにこしながら彼女が言う。気の抜けた表情で笑う姿を久しぶりに見た。どうやら彼女の方も数日前から張り詰めていたものが切れたらしい。彼女は七海を下から見上げ「これ見て」と言ってごそごそとポケットの中を探ったと思えば、電波の入らないスマートフォンを取り出し画像ファイルをさかのぼり始めた。七海は見るとも見ないとも返事をしていないのに、目の前に差し出されたのは彼女に目元がそっくりな男性がクラシカルなウェディングドレスを着た華奢な女性と写っている写真だった。背景はどこかの公園だろうか。紅葉をバックにうっとりと見つめ合う二人は彼女の言う通り本当に幸せそうだ。相手の女性は妊娠しているらしい。結婚して子を成すことが自分たちの年代ではごく自然なことなのかもしれない。彼女が画面をスワイプすると今度は花畑の中で手を取り合う二人の写真があった。男と女が出会って恋に落ちれば皆、必然的にそうなるのだという無言の圧力を感じて七海は息の詰まるような思いがした。彼女はどう思っているのだろう。結婚や出産を望んでいるのだろうか。
そんなはずはない。違うと言ってくれ。そうでなければまた希望を抱いてしまう。何度捨てても戻ってくるこの呪われた想いを完膚なきまでに叩きのめして欲しい。そんな願いを籠めて七海は同意を求めた。
「我々には一生縁のない話です」
「そうだね。無責任に結婚なんてできない。彼氏もいなけりゃ友達とも疎遠。ほんと、因果な商売だよ。もう辞めちゃおっかな。ねえ。七海は辞めてどうだった?」
彼女は弟とその妻になる女性が手を繋いでいる写真を見ながら言った。その横顔はなぜか寂しそうにも見える。
「どうもこうも、どこで何をやっていようが労働はクソだ」
「このまま続けてても一緒ってことか。告白ってどういう意味なのかな。秘密の暴露ってこと?」
「……我々はお互いに嘘を吐いている。それを正直に言えということでしょう」
今からする告白を一体誰が聞いているのかはわからない。秘密の暴露をしたと誰がどのように判定するのだろう。今までは指定された行為を実行に移したかどうかは一目瞭然だった。しかし目には見えないし聞こえもしない心の中に隠している秘密を打ち明けたことを証明する術はない。いくらでも嘘を吐くことができる。この部屋を作った人物は知っているのだろうか。二人の秘密を。だとすればそれは、自分たち以外にいないはずだ。
誰がどこで聞いているのだと七海は再び周囲を見回した。
何もない。
あるのは只、二人だけ。
俯いた彼女が小さな声で呟く。
「恋人はいらない。結婚しない」
これが彼女の〝告白〟だろうか。言い終わって数秒後、彼女は首を横に振る。それを見て七海は身の毛がよだつ思いをした。その先を聞きたくない。何も言わないで欲しいと願い、彼女が次の言葉を発する前に七海が口を開いた。
「本当は、恋人になって欲しい人がいる。その人と共に生きたいと願っています。……まあ、到底叶わぬ夢ですが」
この告白は真実だ。七海の目の前にいる人物にずっと恋焦がれている。こんな仕事をしていなければ好きだと告げていただろう。しかしできない理由がある。何はともあれ枷となるのは間違いない。だから七海は絶対に言わないと決めていた。それに彼女には嫌われているのは明白だ。この恋が成就することなど無いことはわかっている。
「七海の気持ちわかるよ。本当は寂しい。私も、ずっと好きな人に好きだって言われたい。……嫌われてるけど」
隣に立つ男が高専を出たとき諦めたはずだった。出戻って来たとき一生伝えないと決意したはずだった。それなのに声を聞くたびに、姿を見かけるたびに愛おしい気持ちが込み上げてきた。何度も押し返して閉じ込めたはずなのに、七海の存在を感じるとすぐにぶり返してくる想いをもういい加減に捨てなくてはならない。この部屋に入って渋々やったキスやセックスは最低だったが思い出にはなるだろう。どうあがいても一緒になることは無いのなら死ぬ間際に今日の日の事を思い出すくらい許されてもいい。七海からの嫌悪を感じるたびに消えてしまいたい気持ちになったが、これからはそれさえもあってはならない。今日ですべてを終わらせる。
何度も聞いた小さな金属音が鳴った。七海にも聞こえただろうか。
「お互い苦労しますね」
「もういい加減諦めたいんだけどね。判定基準がわかんないけど鍵は開いたよ。もう出よう」
彼女が扉に手を賭けると鍵はかかっていなかった。先ほどの会話が真実を告白したとみなされたようだ。誰がどう判定しているのかはやはりわからなかった。二人以外の気配も無い。真っ白な空間が閉じかけているのがわかる。扉に向かって力が収束しているのを感じるからだ。このまま突っ立っていては押し潰されるかもしれない。
この部屋は何だったのだろう。仲違いさせることが目的かと思いきや、積年の想いを白日の下に晒そうとしているようにも感じた。結局、部屋の創造主の思い通りにならずもう消えようとしている。部屋に入る前と入った後、二人の考えが大きく変わったとは言えない。やはりこの片思いを告げるつもりは無いと思っているし、告げてはいけないということもわかっている。それでも手を繋いだ温もりが忘れられない。唇の柔らかさをもう一度確かめたい。抱き合ったときに嗅いだ匂いを分けて欲しい。酷く傷つけてしまったセックスをやり直したい。これ以上いけないとわかっているのに、愛の告白が口をついて飛び出しそうになる。言ってしまったらどんな顔をするだろう。馬鹿だと言ってこの想いを跡形もなく消し去って欲しい。この恋が叶うはずなどないと解りたい。
「ここを出たら、告白してみませんか」
扉を開けようと力を込めた彼女の背中に向かって七海が声をかけた。優しく穏やかな音がした。
「当たって砕けろってヤツ? 砕け散ったら七海が骨拾ってくれる?」
「いいですよ。海に撒き終わるまで責任を持ちます」
壁男です。どうやら七海建人がついに腹を括ったようですね。あまりの頑固さに生みの親ながら呆れましたが、ようやくなんとかなりました。あの晴れやかな表情を見てください。この部屋を出たら彼女に想いを告げるでしょう。これでハッピーエンドです。
扉子です。長かったけどついにここまで来ることができたわ。でも私達もう限界ね。最後を見届けることができないかもしれない。せめて二人の思いが通じるところまで存在していたかったけど無理みたい。私の残りの力をあげるから、壁男さん、お一人でどうぞ。
歯を見せて笑った彼女が「後は頼むね」と言って扉を開けた。すると風船の空気が抜けるように二人は外の世界に押し出されてしまった。振り返って部屋の中を見ると陰気な茶室がそこにあった。もうほとんど監禁部屋の存在を感じない。わずかに残った残穢さえ少しずつ弱くなっている。この様子ではじきに消滅するだろう。