あの壁に浮かんだ見覚えのある染みは、かつて七海の部屋にあったものだ。彼女を想って自分を慰めているときに視界に入る白い壁に、いつからかついていた黄ばみのようなもの。なぜそれが今ここにあって監禁部屋を発生させているのかはわからない。彼女と自分をターゲットにしている誰かがいて、揶揄われているのかもしれない。そんなことができそうな人物はよく知るふざけた先輩くらいしかいないと思うが、どうやらこの件には全く関係ないらしい。別の誰かが意図して七海と彼女を閉じ込めているとしたら、それは誰で、何か目的だというのだ。苛つきを隠すことなく七海が部屋へと侵入する。肩で風を切りながら敷居をまたいだ。ピシャリと大きな音を立てて扉を閉めると、瞬く間に真っ白な部屋が現れる。大きな溜息。鋭い視線。ピリピリ張り詰めた空気に彼女は虚しさを感じた。また同じことを繰り返そうとしている。あんなに拒絶的な七海を未だかつて見たことが無い。もうやめたいと後悔したが、この部屋を出るまでそれはできない。入ったら最後。指示された行動を完遂するまで出られないのだ。
「キスしないと出られない部屋」
七海が横断幕に書かれた文字をゆっくりと読む。それから聞きなれた溜息を吐いた。あいさつに続いてハグがあり、その先はキスだそうだ。いきなりセックスをさせたくせに、今更順を追っていこうとするなど馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
「いちいち声に出さなくてもわかるから。七海、ベッドに座って」
「なぜですか」
不機嫌な顔をさらに歪ませて七海が言う。彼女の言うことをすんなり受け入れる気はないようだ。七海に見下ろされながら彼女は目の端をピクピクさせた。この男の鈍さが腹立たしい。キスをしないと出られない。しかしこのままではキスできない。セックスやハグ同様、自分からするつもりはなさそうな七海の代わりにさっさとしてやろうというのに、身長差があってその唇に届かないからだ。こういうことを女からいちいち言わせないで欲しいと彼女は思った。多方面からモテているくせに、誰かは知らないが恋人もいるくせに、満足な気遣いができない七海に腹を立てた。
「七海が大きすぎるせいで届かないからに決まってるでしょ」
「待ってください。セックスは二人でないとできませんでしたが、キスは一人でもできる」
「どういうこと?」
勿体ぶって説明しないところも腹が立つ。聞かないと何も言わないし、聞いたところで回りくどい答えしか返ってこない。他の者には懇切丁寧に接しているくせに、彼女に対してはいつもこうだった。結局七海は何の説明も無く、部屋に入ってすぐのところで自身の手の甲に口付けた。確かに横断幕にはどこにだとか、だれとだとか、そういう細かい指示は書かれていない。なるほどと彼女は思った。目の前の嫌いな女にキスをするより、自分の手にした方がマシだと言いたいらしい。しかし七海が自分自身にキスをしてしばらく経っても、扉が開く気配はない。
「二人を部屋に入れて何かさせるのが目的なんだから、入った二人でしないといけないんでしょ」
彼女はフンと鼻を鳴らして馬鹿にしたように言った。七海はそんな態度を見てとても憎たらしく感じた。どんな想いでセックスやハグをしたのか、一生わからないだろう。本当は初めてあの部屋に入った時に一生に一度のチャンスかもしれないと思ったことを彼女は知らない。あのまま勢いに任せてずっと好きだったと言ってしまいたかった。もしかしたらこのセックスで何かが変わるかもしれないと淡い期待を抱いていた。しないといけないセックスやハグにかこつけて、自分のものになればいいとさえ思った。そんな姑息な考えが浮かんでしまうほど恋焦がれていても、自分の腕の中に彼女が来ることは決して無い。そんな自分を知られたくないのに、何もわかっていない彼女の態度に腹が立つ。
「一体誰が何の目的で私達にこんなことをさせるんですか。何の意味も無い。馬鹿げてる」
「それでもしないと鍵は開かない。そういう指示でしょ。早く座って」
何度も見た安物のシングルベッドを指差しながら彼女は七海を睨みつけた。他にどんな方法があるというのだ。知っているなら教えて欲しい。五日間も閉じ込められたのに出られなかったし、結局誰も助けに来なかったではないか。頭の中の七海はいつも彼女を優しく抱きしめてくれる。好きだと言ってぬくもりのあるキスをくれる。愛していると言って抱きしめ、とろけるようなセックスをしてくれる。しかし現実の七海は自ら彼女に近づくことはなく、挨拶もそこそこにハグも手を添えるだけ。セックスは史上最悪に痛かった入れるだけのものだ。本当はあんなことはやりたくなかった。七海としたかった想像上のセックスとは程遠い。ふかふかのベッドでじゃれ合いながら愛を囁き、何度もキスをして肌を重ねる。そんな夢を見ていたのに呆気なく打ち砕かれた。それでもあの時、セックスをしなければ出られなかったし、最後になってもいいから七海を受け入れてみたかった。そう思って決断したのに、今になって死ぬほど後悔している。あんなことをしたせいで余計に遠ざかってしまった。以前よりもっとずっと遠くにいる上に、機嫌は過去最高に悪い。彼女はあの部屋に閉じ込められたのが自分と七海でなければこんなことにならなかっただろうと思い、胸が張り裂けそうな気持ちになった。
「もうこんなことやめたらどうです。嫌だと拒否してこんな部屋放っておけばいい。上の誰かがなんとかするでしょう」
「いいからさっさとしてよ。意気地なし」
「やりたくないからではない。くだらない悪戯にこれ以上付き合う必要はないと言ってる」
「じゃあ二人して死ぬしかない。七海って処女なの? キスの一つや二つでグチグチ言わないで」
顔を歪めてキスを拒む七海を見るのが辛い。それに傷ついていることに気付かれてはいけないと、売り言葉に買い言葉で言い返す。結果、口論になってしまう。いつものことだ。七海が折れて素直に彼女の言い分を聞く方が珍しい。いつも後ろからねちねち嫌味を言われてきた。少しでも怪我をすれば能力不足だ、詰めが甘いと難癖をつけられる。それが二人にとっての当たり前だった。
「こういうことを誰とでも簡単にできるアナタとは違う」
七海の言った一言が彼女の胸を刺す。吐き捨てるように言われたその言葉はあまりにも鋭利だった。まるであらかじめ決められた台本があるかの如く七海の口から流暢に紡がれた台詞を聞いて、最初のセックスの時から、ずっとそう思われていたのだと気付いて彼女は自身の呼吸が急速に乱れていくのを感じた。七海の目に映る自分が途端にふしだらで薄汚れて見える。だからそんな女とはセックスやハグはもちろんのこと、キスなどしたくないというわけだ。もちろん誰とでも簡単にできるなどということは断じてない。七海とだからこそやりたくない。今すぐにでもここから逃げ出したい気持ちになったがそんなことは不可能だ。ここから出るにはキスをする以外選択肢は無いのだから。
「好きな子じゃないとできないって? 随分乙女チックなんだね。そんな見た目で何言ってるの。そっちの国じゃ挨拶みたいなもんでしょ」
心底馬鹿にしたように薄笑いを浮かべる彼女を見て、七海は何度もこの部屋に入ったことは間違いだったと思った。挨拶やハグで済ませようという気はさらさら無く、指示を段階的に格上げし、二人の関係を破綻させることが目的なのだと悟る。恐らく長年の恋煩いを終わらせようと画策している誰かがいる。七海の内に秘めていたはずの想いを知る何者かが、諦めさせようとしているのだ。最後の思い出にセックスを強要するだけでは飽き足らず、修復不可能な亀裂を生じさせるまで許すつもりは無いらしい。あの見覚えのある壁の染みは一体何を意味するのだろう。長年引き摺り続けた想いを告げるつもりなど無い癖に、終わらせようとされると釈然としない。誰かに踊らされるなどたまったものではない。この想いにケリをつけるのは自分自身でありたい。とことんまで嫌われて、二度と名前を呼ばれなくてもいい。そうしないと諦めがつかない。どうか自分以外の誰かと愛し合い、二度と手に入らないと理解させてくれと七海は願った。
「もう喋るな。話にならない。さっさと終わらせてここを出る。いいですね。やりますよ」
彼女の頬を鷲掴みにして見下ろす。反抗的な視線を浴びせられているのに、愚かにも唇に触れられる事実を喜んでいる自分を七海は心の中で嗤った。この呪いを祓うまであと何度かは部屋への入退室を繰り返すだろう。それでも彼女に焦がれながら触れるのはこれが最後になる。恋する気持ちは捨て置いて、あとは彼女の言う通り、職務を全うするのみだ。
二人の視線がぶつかったまま唇が重なった。綺麗な目だなと二人は思った。睨み合いながら交わした口付けが二人の最後の思い出だ。これから先、誰とどうなってもこの日の事を思い出すだろう。
鍵の開く音が静かな室内に響く。
「ハハ。できるじゃん。頑張ったね? 建人クン」
七海に捕まれた頬が痛い。思いきりやりやがったと心の中で悪態をついてみるが、ずきずきした拍動性の感覚は痛みだけではない。こんなになっても尚、触れられたところが熱を持つ。これで終わりだと決めたはずなのに期待が首をもたげてくる。それが本当にわずらわしい。もう終わらせて欲しい。そう願って口元を袖で拭き取った。
「人生最悪のキスでした。アナタも早く忘れた方がいい」
「同感だよ全く。なんでこんなことしなくちゃいけないの……」
同じように唇を拭っている七海を見つめる。それでいい。七海がそうしてくれたから、今日これで終わりにできる。もう楽になっていいんだ、誰も望んでいないんだと、その僅かな残り火を彼女はそっと消した。
「……鍵、開きましたよ」
「わかってる。先行って。ちょっと調べてから行く」
震える声で答える彼女を七海は正面から見ることができなかった。泣き出しそうに聞こえたからだ。それでも自分の行いで彼女の感情が左右された可能性が少しでもあることが嬉しいと思ってしまった。嫌悪と忌避には慣れていたが、悲嘆を感じたことはなかったからだ。ここにきて彼女から初めての感情を向けられ続け、七海は喜びに似ているが酷く切ない心境を味わった。これは一体何だというのだ。もう何も望んではいけないというのに。
「いつも嘘ばかり吐く。泣くほど嫌なら強がるな」
「泣いてない。人生最悪のキスを噛みしめてるところ」
「私はもう忘れました。出ますよ」
無理矢理部屋から押し出そうと背中を押すと、青白い手が七海を払いのけた。まるで氷のように冷たい指先はじっとりと濡れていた。冷や汗をかいているのだろうか。それともやはり彼女は泣いていて、涙を拭ったのかもしれない。
「触らないでよ……」
「これは作業で、事故で、業務上必要な事です。アナタがそう言った」
先ほどとは一変して弱々しい声を出す彼女が愛おしい。もっと傷つけて泣かせてしまいたい。そうしたら七海に縋るだろうか。許して欲しいと泣いて胸の中に飛び込んでくるかもしれない。もちろんそんなことはありえないとわかっている。それでも想像するだけなら許されてもいいだろう。頭の中は誰にも分からないのだから。今日、今、この瞬間、二人の未来は潰えたのだ。今日のキスはお互い忘れられないものになった。最良よりも最悪の方が記憶の奥底に根付いて、ふとした瞬間に何度でも思い出す。心を痛めた彼女を慰める役目は自分でないのが残念だと七海は思ったが、その存在が消えてしまうまで繰り返し再生される人生最悪のキスを残せただけでも良しとしよう。
「七海って本当に、私にすごく、意地悪だ」
先ほどの弱り切った声とは打って変わって激しい怒りを宿した音が七海の鼓膜を叩く。これでいい。これが聞きたかった。もう二度と和解することは無い。無関心になられるよりも軽蔑された方がいい。彼女の視界に七海が入る度、今日の出来事を思い出すはずだから。
「お互い様でしょう。どう思われようともうどうでもいい。こんなことは早く終わらせるべきです」
「そうだね。七海の言う通りだよ。この呪いをさっさと祓って、なにもかも終わりにする」
彼女は嘘くさい笑顔を浮かべて部屋を出た。七海がその後を追って部屋を出たらまた元の茶室に戻っていた。中に入ると強力な縛りを課しているのか呪力のほころびは全く見えないのに、何度か入退室を繰り返した今、認知できなかった監禁部屋の存在をぼんやりと感じる。再び二人を招き入れようと口を開けて待っている。今度は何をさせようというのだろう。何でもいい。これから先、どんなことをさせられても、もう変わることは無い。
二人同時に部屋へと侵入すると横断幕には「裸にならないと出られない部屋」と書かれていた。施錠されたことを確認した七海と彼女は背中合わせになって服を全て脱いだ。すぐに鍵が開いて服を着る。
「お互い背中合わせでも開くとは作り込みが甘い」
「評価しはじめちゃったよこの人」
そう。これは業務上必要なことだ。呪いを祓うために必要な儀式のようなもので、服を脱ぐことを恥ずかしがる理由はない。着衣を整えた二人が外へ出て振り返ると、監禁部屋は茶室に戻り切れていなかった。壊れたテレビのようにノイズが走り、結界が曖昧になっている。無限に繰り返されるわけでは無く終わりがあるとわかり、ほっとしたような、名残惜しいような、なんともいえない感情が湧き上がる。それに気づいたが、もうそんな気持ちに意味は無いんだと心の中で言い聞かせて飲み込んだ。
もう一度、今度は七海が先頭になって部屋に入る。次は〝二人で風呂に入らないと出られない部屋〟らしいが、下に小さな字で注意書きが付け加えられていた。彼女がそれを読み上げる。
「※衣類は脱ぎ、互いの身体を洗いっこすること、だって」
カーテンだけで仕切られたバスルームに向かって歩きながら上着を脱いだ。先に七海が椅子に腰かけ、彼女がその広い背中を安物のタオルで擦る。いくつかの傷跡が見え、二人の仕事が世間一般の者には理解されないであろうことを突き付けてくる。こんな世界で出会わなければ幸せな家庭を築いていたかもしれないと彼女は考えてしまい悲しんだ。すぐに不毛な空想はやめようと取り消して交代し、七海へ背中を向ける。七海がタオルで背中をそっと撫でると小さな金属音が鳴って扉が開いたとわかった。
「背中を流すだけで開くとは、やはり細かい指示はできないようです」
「もういいからさっさと終わらせるよ」
カーテン越しにバスタオルで身体を拭きながら分析する七海に彼女が言った。これは仕事だ。必要な作業で、業務上致し方のないことだ。何度も繰り返し言い聞かせながら二人は部屋を後にした。
壁男です。正直に申し上げますと大変追い詰められています。この二人、全く進展しません。それどころか以前よりも険悪になっている気さえします。どうすればいいのかわかりません。どうして我々のように素直になれないのか。気持ちをそのまま伝えるだけでいいのに、なぜそれができないのでしょう。十年以上同じことを繰り返しています。セックスでも駄目。ハグもキスも無意味だとしたら後は一体何が残されているというんですか。もう私達にはどうしようもないのかもしれません。でも諦めたくない。二人の未来を幸せにしたい。そのために私達が生まれたんですから。
次が最後になるのだろうか。もう茶室へと戻ることなく監禁部屋は在り続ける。挨拶を交わして、抱き合い、唇を重ね、身体を清めた。その次は再びセックスかもしれないと二人は考えていた。もしもまたセックスをしなければならないと指示されても、今なら躊躇せずにできる気がする。この流れでセックスをして、きっと監禁部屋は解呪されるはずだ。覚悟なんてものはとうに捨てている。今の二人を突き動かすものは意地しかない。
二人そろって部屋へと入る。景色は変わらない。横断幕に書かれていた文字が薄れ、新たな指示が浮かび上がった。そこには〝愛してると言わないと出られない部屋〟と書いてあり、予想外のことに二人は言葉を失った。
そんなこと言えるわけが無い。今まで何度も気持ちを告げることを思いとどまってきた。口に出したら最後、取り消すことはできない。例えそれが無理矢理強要された台詞であったとしても自らの口から出て相手へと届く。それを聞かれてしまったら。それを言われてしまったら。それでもこの空間から脱出するために言わなければならないというのだから、理不尽極まりない。
二人は入り口に立ち尽くして横断幕を眺め続けた。どちらが先に口を開くのだろう。
「七海。愛してる」
先陣を切ったのはやはり彼女の方だった。先ほどとは違い落ち着いた声だ。それが叶うことのない恋への諦めからくるのか、秘めたる心境を吐露した安心からくるのかは本人にも分らなかった。口に出してしまえば呆気ない。愛の言葉を述べたことで彼女は憑き物が落ちたように楽になった。どうやっても無かったことにできない七海への恋心を消し去る必要は無いのだ。言わないと決めたのは自分だから、これから先もきっと秘密にし続けるだろう。それでも、好きでいてもいい。嫌いになどなれるはずはない。苦い思い出ばかりの青春時代、生死を賭けた現場を共に走り抜けた。七海が去った時、もう生真面目な男が傷つかなくていいと寂しさよりも安堵した。七海が出戻った時、馬鹿だなと思うと同時に頼もしかった。彼女の感じたことは嘘ではない。それを否定せずそのまま受け入れて生きていこうと決め、大きく深呼吸をした。
言葉などただの音の集まりにすぎない。誰がどう言おうと同じだ。そう思っていたのに、七海の耳に届いた彼女の発声で聞く「愛してる」は今まで聞いた言葉の中で最も美しく聞こえた。それに意味は無いと理解しているのに、もう一度聞かせて欲しいと願い、彼女の横顔を見る。視線に気づいた彼女は七海を見上げてふっと身体の力を抜いて緩く笑った。その表情が切なく見えて衝動的に抱きしめてしまいそうになり、どうやっても消えない自分の想いが可哀想だと思った。
「アナタの事を世界で一番愛しています」
本当のことだ。本当は、彼女の事を世界で一番愛している。彼女の助けになりたい。同じ食事をとって一緒に眠り、同じ朝を迎えたかった。こんな世界でなければ結婚を申し込み家族になりたい。死ぬまで共に在って欲しい。他の誰のものにもならず、自分の恋人になって欲しかった。しかしそれは叶わぬ夢だ。この世界で生き続ける限り甘い夢を見ることはできない。それに彼女にはどうやらかなり親密な相手がいるようだ。七海の入る余地はない。もうこの感情を捨てたり忘れたりしなくていい。それをそのまま受け入れて、死ぬまで抱いて離さない。彼女と同じ時代を生きたことを喜び、密かに幸せを願う。もう七海が彼女のことで傷つくことは無いだろう。彼女を愛したままでいい。例えそれを伝えることは無くても、心の中で永遠に想い続けていきたい。
七海が言い終わったとき、鍵が開くはずだった。しかし、なぜか開く気配はない。
「あれ? 開かない。何か間違ったのかな。愛してるって言ったよね」
ドアノブをガチャガチャ回して彼女が不思議そうな顔をする。彼女が再び口にした「愛してる」を聞いて七海はハッとした。言っていない。七海は「愛してる」とは言っていないのだ。
「……愛してる」
――カチャリ。
「あっ。開いた」
七海が言い直すと扉は開いた。誰かが大声で笑っているような気がするが、ここには七海と彼女しかいない。
「クソッ!」
真っ赤になっている七海を彼女は不思議そうに眺めた。サングラスを上げるふりをして手で顔を覆っている。あれではただの愛の告白だ。一杯食わされたと七海は悔しがり唇を噛んだ。それを見て彼女はケラケラと笑った。
「結界がかなり緩んでる感じがする」
「ここまできたらもう少しで祓えるでしょう」
そして二人はようやく気付いた。この部屋の目的は、相手を想う気持ちを捨てさせるためではなかった。墓まで持っていくつもりの秘密を告げさせようとしている。誰が。どうして。何のために。
扉子です。やっぱり最初のセックスが悪かったようね。私たちの作戦ミスだわ。あの二人に必要なものは肉体の接触なんかじゃない。心の触れ合いだったのよ。セックスしてもキスしても、全く一歩も進まないなんてどうかしてる。でも見てよ。愛してると言わせたら、途端に綻びが見え始めたわ。あと一押しで何かが変わる気がする。あの二人が気持ちを明かさなくても、ほんの少しでも前を向けたら、もうそれでいいと思わない? どうせ死ぬときは一人よ。私達も、もう長くない。最後にわだかまりが解けた笑顔の二人を見ることができたら、悔いはない。そうでしょう、壁男さん。
「これで最後になりますように」
彼女が呟きながら入室した。そこには最早部屋としての形さえ保てず、何もない白い空間が無限に広がっていた。二人が振り返ると入ってきた扉と染みの付いた壁があり、その上に真っ白の横断幕がかかっていた。