あんな事したんだから、もうなんだってできるでしょ

第2話

 セックスしないと出られない部屋から出てすぐに数名の術師がやってきた。二人が無事であることを確認した後、現場は補助監督に任され事後処理が始まる。先ほどまでは妙な閉鎖空間が存在していたというのに、今はもういつも通りに戻っていた。七海が集まった者たちに説明している間、彼女は家入に半ば無理矢理連れられ医務室へときていた。部屋の中で何が起こったのか聞かれたので、事実のみを述べる。まるでいつも通り呪霊を祓除しましたとでもいうように淡々と説明する彼女の背中を家入の冷たい手が撫でた。低燃費で生きる家入の手は想像通りの温度なのに、慰められているのだとわかりその温かな気持ちに触れてしまうと再び涙が溢れそうになる。泣くべきではないと唇を噛んでぐっと耐えた。悲しみも虚しさも自覚してはいけない。そんなもの最初から無かったことにしないと、これからどうやって七海と喋ればいいのかわからなくなるではないか。

 医務室には内診台もクスコも無い。婦人科的な診察を想定していないからだ。性器からの出血は治まっているし痛みも消えた。何もしてやれなくて悪いなと家入は前置きし、続けてこう言った。

「同期の産婦人科医に紹介状を書くこともできるが、どうする」

 製薬会社のノベルティであるボールペンをくるくる回しながら言う。彼女は診察室の丸椅子に座ったまま家入の手元を見つめていた。婦人科の問診で何と答えればいいのだ。仕事で必要に駆られ同僚の性器を無理矢理挿入した際に出血しました、とでも言えばいいのだろうか。そのうえあの台に乗って足を開き、内診までされたら立ち直れそうにない。

「大丈夫です。大ごとになって七海にバレたら、自分が責任取るとか言い出しかねませんから」
「アイツに責任とらせろ。オマエの十年返してもらえ」

 彼女は七海への気持ちを誰にも明かしたことは無い。それなのに家入の口ぶりから知られているとわかり恥ずかしく感じた。二人が長年もたついていることを多くの関係者は察している。他人から見たらそう見えるのに、本人たちだけが隠し通せていると思っていた。それでも誰一人として七海にも彼女にも何も言わなかったのは、どちらもこれ以上の発展を望んでいないのがわかっていたからだ。ある者は心底呆れると言った。また別の者は可哀想だと言った。家入はどのように考えているのだろう。

「私がやれって言ったのに、横暴すぎます」

 七海は間違いなく今回の件に心を痛めていると彼女は考えていた。ただしそこに恋愛感情は関係ない。相手が誰であったとしても気に病んでいるはずだ。表情には出にくいが、思いやりがあってそれをさらりと行動に移すことができる。相手のことを考えて言葉を選べるし、場面に応じて細かな配慮もできる。七海はそういう人間だった。いくら仕方なかったこととはいえ、お互い望まぬ行為をした挙句に不可抗力だが出血を伴う怪我をさせてしまった事実は変えようがない。間違いなく後悔しているはずだ。でもそれでいいのだと彼女は思った。愛のない最悪なセックスでも、自分を覚えていて欲しい。七海にとってなんでもない存在になることが一番辛い。彼女は心の中で、なんて嫌な女だと自嘲した。そんな彼女を見て家入は微笑みながら言う。

「喜んで飛びつくと思うぞ」
「そんなわけない。それに、今回でやっぱり嫌われてるって、はっきりわかったんです」

 家入の言葉は彼女には届かないようだ。外野から見る二人は明らかに好き合っている。それなのに二人だけが気づいていない。お互いにずっと遠ざけ、避け続けてきたから見えないのだろう。医務室を去る後ろ姿を見て家入は小さな溜め息を吐き、後で飲みに誘ってやろうと考えた。

 彼女が嫌われていると思うには理由がある。あの部屋に入ってしまった直後、彼女は指示通りにセックスをした方が早いかもしれないと考えた。そもそも高専内にこのようなものがあること自体がおかしい。あったとしても早々に見つかるはずだ。それがどういうわけか存在し、強い力で術師二名を拘束している。簡単には解けそうにないし、力で押し切ることも難しいと予想された。それは七海も同じだったようで、とりあえず壁やら扉やらを触ってみたもののそれ以上何かしようとはしなかった。二人で一通り部屋を調べた後、殴ってみたがびくともしない。それから七海は大きなため息を吐いてこう言ったのだ。

「応援を待ちましょう」

 その一言でセックスするつもりは無いとわかり、がっかりした自分に彼女は呆れた。こんなつまらない呪いに捕まった上に七海とセックスできるかもしれないと淡い期待を抱いた直後、あっさりと打ち砕かれたのだ。つまり事故でも仕事でもやりたくない。七海にとって自分がそういう相手なのだとわかり悲しかった。嘘のセックスでもよかった。人生でたった一度だけでもいい。ずっと想いを寄せている相手と肌を重ねることが出来たなら、その思い出だけでこれから先も生きていけそうだと思っていたのに。七海の提案に同意するしかない。「セックスしようよ」だなんて口が裂けても言えなかった。しかしそんな考えはおくびにも出さず、彼女は「そうだね」と返事をして質素なダイニングチェアに腰掛けた。七海の返事はなかった。

 彼女が医務室を出て現場へ戻る。七海を再び視界に入れたとき、以前と同じ態度が取れるように気を引き締めた。トイレで見た顔はあの部屋に入る前と変わらないことは確認済みだ。もう好かれたいとは思えなかった。あの部屋のおかげでわずかに残った未練さえも露と消えたのだから。

「認識に齟齬が無いか確認してください」

 彼女に気付いた七海がそう言ってコピー用紙を一枚彼女へと差し出した。この短時間で報告書を仕上げたらしい。彼女は一歩踏み出してその中身を覗き込む。すると近寄るなとでもいうように、七海は一歩引いて紙を手渡した。いつもと同じ、しかし他の者と接する時には見られない態度だ。そんな七海の様子に安心を感じると同時に寂しくもあった。あんな事があっても二人は何も変わらない。お互いに一歩踏み込めば相手は引いていく。それならばと引いたところで追われることは無く、距離はどんどんと遠くなる。気づいた時には遠い存在になってしまった。

「廊下で立ち話する内容じゃないから、あっちでやろう。こんなの誰かに聞かれたらセクハラで訴えられちゃうよ」

 ハハハと笑い「最近厳しいんだから」と付け加える彼女の言い分を聞いて七海ははっとした。いくら業務上必要だったとはいえ、望まない性行為をさせられた事実を廊下で話したいわけが無い。普段通りにしなければと思うあまり、彼女の気持ちを全く無視していると気付く。業務上仕方がないと言っていたものの傷ついているだろう。好きでもない男に無理矢理性行為を強要されたのだ。強姦も同然だ。七海は自分の行いのうかつさに、頭を抱えて叫びたかった。それでも乱れた心の内を誰にも悟られるわけにはいかず、いつもと同じ声を意識して出す。

「それもそうですね。法務部にチクられる」

 七海がそう言うと彼女はまた笑って歩きはじめた。配慮が不足していたと謝るべきだとはわかっている。しかしこれ以上一歩たりとも近づかれてはいけない。自分の事を心底嫌いになって、もっと遠ざかってもらわねばならないのだから。そうでないと決壊してしまいそうだった。七海の先を行く彼女の後ろ姿を見つめながら追う。何日も着ている服は皺だらけだ。あの下に想像よりも柔らかくみずみずしい肌が隠されている。顔や首筋よりも白い大腿が目に焼き付いて離れない。苦しみながら七海を受け入れ早く終わってくれと言う彼女は、普段からは想像できないほど感情を露わにしていた。医務室で何を話したのだろう。いつもより歩くのが遅いがまだ痛むのかもしれない。彼女の表情すべてが嘘に見えてしまう。今日の事を誰かに話すのだろうか。今までのすべてを後悔しています。許してください。アナタの特別になりたかった。それだけなんです。七海が謝れば彼女はなんと言うだろう。そんなことできるはずはない。してはいけない。これ以上関わるべきではない。七海は今までの全てを自分の中に仕舞いこみ、これからは彼女の尊厳と名誉の為に自分がこの問題の矢面に立ち、死ぬまで秘密を守り通す覚悟を決めた。

 誰もいない茶室の扉を開け、靴を脱ぐ。部屋の中からは湿気を含んだ畳の匂いがした。後ろ手で引き戸を閉めると鍵のかかる小さな音がして、畳敷きだった部屋は先ほど出てきたばかりの白い壁と古い扉のワンルームへと変わっていく。

「えぇっ。また⁉」
「クソッ。やられた」

 あっという間にセックスしないと出られない部屋が出現し、再び二人を閉じ込める。彼女は扉をどんどんと叩き、七海は壁を殴りつけた。やはりびくともしない。





 壁男です。まさか出ていってすぐにまた二人きりになる閉鎖空間に入ってくるとは思わず、扉子さんとの作戦会議も内装工事も完了していません。先ほど同様セックスしないと出られない部屋のままです。出るための行動についてはまだ書き換えが間に合いますが、もうこのままでいいでしょう。二回目のセックスをしろ。やれ。さあ。早く。
 扉子です。そうはさせないわ。壁男さんは若い頃の七海建人の呪力で産まれたから性衝動に支配されがちなのよね。私は違う。今日こそは告白するぞと毎日決意して扉を開けていたあの子の純粋な恋心からできたの。手を繋げたのなら次はキスに進むべきだと思う。でもそれは、あの二人にはまだ早い。まずは挨拶ね。そうでしょう、壁男さん。





 ゆっくりと横断幕に書かれた文字が変わり彼女がそれを読み上げる。

「挨拶しないと出られない部屋、だって」

 言い終わった次の瞬間、七海の鉈が布地を切り裂いた。もちろん何の意味もなく、七対三に分断された横断幕が床にはらりと落ちただけだ。

「かなりハードルを下げてきた。何が目的なんだ」
「感心してる場合じゃないでしょ。挨拶しよう。扉が開くかも」

 ドアノブに触れながら彼女が言う。押したり引いたりしてみても、やはり鍵はかかっているようだ。彼女がにっこりと笑って振り向き七海に向かって手を振った。

「こんにちは」
「……こんにちは」

 それは今日より前の日にも何度も見た「おつかれー」と言いながらすれ違う時と同じ表情だった。七海の返事もまた、いつもと変わらない。誰にでもするような挨拶をされて虚しい気持ちになるのに、それがなければ不安になる。声がいつもより小さいとき、体調がすぐれないのではないかと心配した。うつむいているとき、嫌なことがあったのではないかと同情した。嬉しそうに弾む声のとき、自分ではない誰かと楽しんだのではないかと嫉妬した。やはり二人は何も変わらない。下半身を曝け出し性器をくっつけた後だというのに、全く何も起こらなかったかのように生きていく。そうしないといけない。七海も彼女もこの恋を相手に悟られぬよう、墓まで持っていくと決めているからだ。

――カチャリ。

 呆気なく扉が開き二人は点になった目を見合わせた。彼女が先に表情を崩し悪戯っぽくはにかむ。七海は視線をはずしてふっと息を漏らす。十年前からずっと同じ。二人は変わらない。変わるつもりは無い。
 外に出ると入る前と同じ空間が広がっていた。振り返っても茶室があるだけだ。普段誰が使っているのか知らないが、彼女は何度かこの中で昼寝をしたことがあった。誰も来ないことは知っている。監禁の呪いがどのように発動するのかは不明だが、〝部屋に入る〟ことが条件の一つであるのは間違いない。セックスから挨拶にまで指示が格下げされた理由はわからないが、攻撃性は皆無でただ中の二人が指示された行動をとるまで閉じ込めるだけ。この呪いは誰かに何かをさせたがっている。無秩序に発生しているわけでは無く明らかな意思をもった何者かの仕業に違いないが、それが誰なのかはっきりしない。ターゲットは誰で、どうしたいのか。

「もう一回入ってみていい?」

 彼女の提案に七海は少々面食らったが何か考えがあるようだと思い頷いた。

「挨拶程度で済めばいいんですが」
「あんな事したんだから、もうなんだってできるでしょ」

 天を仰ぎアハハと声を出して笑っている姿を見て七海は一層虚しい気持ちになった。酷い事をされたと責められた方がまだマシだ。あんなことをしたのに何でもない様子を見せつけられ続け、本当に彼女にとって自分は取るに足らない存在だと言われているようだ。もう諦めたはずなのに胸が痛む。いっそこのままあの部屋に独り、閉じ込められたままでもいいかもしれない。誰にも見つかることなく真っ白な部屋の中で骨になる自分を想像して、七海は自らを嘲り笑う。

 彼女が音もなく引き戸をあけた。外から見る室内は何の変哲もない茶室だ。何の気配も感じないし、もちろん誰もいない。彼女が先に室内へと侵入し振り返った。唇を尖らせ目を丸くしながら手招きしている。七海はその誘いに乗って白木造りの敷居をまたいだ。しかし何も起こらない。ドアを閉める必要があるようだ。彼女が七海に目配せをして小さく頷いた。それを合図に背中合わせとなり、七海が引手に手をかける。開けたとき同様慎重に扉が閉まると、すぐに鍵が掛かって三度真っ白な部屋へと変わった。彼女はなるほど思った通りだと何度も頷き、したり顔をした。

「部屋に入って扉を閉めるっていうのがトリガーっぽい」
「そのようですね」

 七海が横断幕を見上げた。徐々に文字が浮かび上がる。さて、今度は何をさせようというのだ。

「ハグしないと出られない部屋、か」

 言い終わるが早いか、彼女が七海の腰に手を回して抱き着いた。すぐそばに彼女の頭があり、シャンプーの香りに混じって皮脂が酸化した臭いもする。それに彼女の命を強烈に感じてしまった。生きているのだ。臭いがある。更に腰に当たる彼女の腕から体温が伝わり鳥肌が立った。彼女のどこにも七海から触れたことは無い。髪の毛一本でさえも。それは彼女も同様だったのに、セックスをしてからためらいは無いらしい。七海が固まっていると彼女の腕に力が入り二人の身体は更に密着した。胸元で吸って吐いてと静かに呼吸している彼女の胸の中に自分の匂いが吸い込まれていることを想像して、七海は倒れてしまいそうだった。今、彼女の肺では七海の空気から酸素を取り出して血流に乗せる作業が行われている。心臓から全身へと巡り、自分の一部が彼女の糧となるのだ。しばらく待っても鍵が開く気配はない。わかっている。抱き返さなければならないと。そうすれば外に出られるだろう。しかし事故だの仕事だのを理由にして彼女の温もりをまだ感じていたい。これが七海の人生で最後の彼女との接触になるからだ。離れたら二度と戻ることは無い彼女の身体と本当は一つになりたい。肌と肌を重ね、体液を交換し合う。他の誰でもない。彼女とそうしたい。あと少し。あと一秒。このまま時が止まればいいのに。そんなこすい考えを隠して動かない男の事を、彼女は何と感じているのだろうか。

 勢いをつけて抱き着いたものの、彼女はまた泣いてしまいそうだった。広い胸に筋肉質な体幹。自分とはまるで違う男の身体だ。今まで自分以外の誰かを抱擁することもあっただろう。他の女も自分と同じように七海の身体に男を感じたはずだ。まるで間欠泉が噴き出すように得も言われぬ高揚感が勢いよくあふれだす。七海の恋人が羨ましい。事故を口実にしなくても抱きしめて貰えるのだから。あの部屋で使った石鹸に似た香りが鼻腔をくすぐる。彼女も同じものを使ったのに違う匂いがした。七海の体臭が混じっているのだろう。息をしなければ生きていけないのだから、このまま呼吸することは何ら問題ない。彼女は自分自身と見たこともない七海の恋人へ心の中で言い訳をした。分厚い腰回りへ更に強く腕を回すが七海の反応はない。言葉もない。身じろぎさえしない。それはそうだろう。嫌いな女に抱き着かれて嬉しいわけなど無いのだから。

「あのさ、七海も腕まわしてくれない? じゃないときっと開かないよ」

 なんとか気持ちを落ち着かせ、彼女はいつものようにおどけて言う。七海は「これくらいで勘弁してください」と言いながら彼女の背中にそっと腕をそえた。七海は簡単に女性に抱き着くなどモラルに反するという意味で言ったつもりだ。しかし、彼の心の奥底では違う声が聞こえるだろう。自分を嫌って遠ざけて欲しい。もうこれ以上乱されたくない。封印を開けないでくれ、と。

 七海の腕には全く力は入っておらず布同士が触れ合っただけだが、それでも扉からは小さな金属音が聞こえた。

「よし、開いたね」

 彼女が離れていくと途端に身体の前がすうすうとして寂しくなる。

「……少しは躊躇したらどうです。一応、女性なんですから」

 七海はいつもの憎まれ口を述べた後、さすがに酷すぎたと思ったが取り消すことはできなかった。また傷つけてしまった。この世の誰よりも異性として意識しているくせに、その他大勢の最後方のような扱いをしなければ、愛が煮え滾る胸の内を隠し通すことができないのだ。

「七海って硬いんだね。前衛だから?」

 彼女も傷ついた顔を見せたことは無い。同僚として気安い関係である方が七海を想って恋焦がれるよりも心の死に近いというのに。

 彼女が先に部屋を出る。続いて七海が出た。するとすぐに部屋は茶室へと戻り、呪力も残穢も残っていない。やはり二人の予想通り、部屋に入って扉を閉めることが契機となり監禁の呪いが術式を発動させ部屋が発生する。攻撃性は乏しく指示された行動を行うまで出られない。行動が完遂されれば鍵は空き、入った人物が全員出ると監禁部屋の術式は解除される。再度なるほどと頷き、彼女は茶室を去ろうと歩き始めた。

「もう入らないんですか」
「ネタはあがってるのに入る必要無いでしょ。別の人に任せよう」

 そう言って後ろ手をひらひらと振った。しばらくして代わりの術師が来たが、部屋は発生しなかった。人を入れ替えたり七海と彼女も共に入ったりしても、いつもの茶室があるだけだ。二人は顔を見合わせた。

「……特定の人物でないと反応しない可能性がある」

 七海は斜め下に視線を落として大きなため息を吐いた。

「最低。犯人見つけたらただじゃおかない」

 彼女が嫌そうな声を出して言った。しかし、あの部屋のドアノブには見覚えがある。なぜここにあるのかわからないが、その見覚えのあるドアノブがこの呪いの鍵であることは間違いない。彼女は自分がこの問題を片付けるべきだと言い、室内へと単独で侵入した。扉を閉めても何も起こらず、わかっていたものの肩を落とす。この部屋の術式発動条件にはもう一つ重要な要因がある。


 彼女の予想が正しければ、恐らくそれは、七海だろう。