今日は有休を取って高専にきている。私が長年担当している案件についての年次報告書をまとめなければならず、手元に資料が無くやむを得ず来たのだ。途中で五条さんに見つかり視察へ生徒を同行させて欲しいと頼まれ、後ほど学生と共に現場へ行くことになっている。私から学ぶことなど何もないと思うが、珍しいものだから見せてやってくれと言われて断り切れずに請け負ってしまった。誰も来なさそうな休憩室にパソコンを持ち込んで作業をしていると、扉の開く音が聞こえた。
「お疲れ様です」
聞き覚えのある声が聞こえて振り向くと想像通りの人物が立っていた。
「来てたんだ」
「どうしても顔を出さないといけない要件で。平日のこんな時間に珍しいですね」
「今日は有給取ってこっちの案件の為に来たの」
ちょうど休憩しようと思っていたところにやってきた七海の手には二つのカップが持たれていて、コーヒーの良い香りがふわりと漂う。高専に来るまでにあるコーヒーショップで購入されたものだ。どうぞ、と渡されたそれを受け取って一口飲む。誰かに買ってくるつもりだったのか紙袋の中にはサンドイッチとドーナツも入っていた。どちらがいいか私に尋ね、昼食は持ってきていたのでドーナツを指差す。私がいることを誰かに聞いたのかもしれないと考えたが、そういえば七海と位置情報共有をしていたことを思い出す。知っていたのだ。私がここにいることを。
「一言言ってくれたら朝送ったのに」
「来ると思わなくて」
「予定を共有してくれたら気づきました。忘れていましたか? 次からは教えてください」
そう言って七海は私の隣の席に腰掛けた。パソコンの画面に表示された内容を目で追っている。年次報告といっても毎年同じことを繰り返しているだけで特別な何か変わったことがあるわけでは無い。いつ巡視に行ってどういった様子だったかということをまとめるだけだ。この案件も誰がやってもいいようなものなのだが、代々うちの家が担当してきたというだけで私がやらされている。今日の報告も本当は週末に纏めてやるはずだったのに、七海と過ごす時間を優先しすぎていたのでどんどん後回しになり、ついには平日の本職を休んでまでやる羽目になったのだ。有休を取るのに適当な言い訳をして上司に嫌な顔をされるのが面倒くさいのでなるべく平日は休みたくなかった。
「もう行かなきゃ」
今日はこれから教員と学生と共に現地へと出向くと七海に伝えると、私たち以外誰もいないのをいい事に髪を一束すくって口付けた。そのまま首筋へ鼻を埋めスゥスゥと音をたてて私の話を無視した。放っておくと更に身を乗り出して私を抱きかかえようとするので、両手を突き出して七海を阻止する。不服そうな顔をしながら渋々離れていったと思ったのに、荷物をまとめて部屋を出ようと立ちあがったら抱きしめられてしまった。こんな風に捕まってしまうと、また、我慢できなくなる。勘のいい人間がそこら中にいるのに、乱れた気持ちを悟られたくない。なんとか抜け出そうと必死に押し返すがびくともしない。私が力ではかなわないのをいいことに、七海は離そうとしない。
「帰りは送ります」
「時間が合ったらでいいから。また連絡する」
しばらくすると満足したのか、こめかみに音をたててキスをしてから離れていった。苦しかったと言ってみたが、「それが何か?」とでも言いたげに顔にクエスチョンマークを浮かべて白を切るので七海の胸をポコポコと叩いてみるが全く気にも留めていない。都合の悪い事は聞こえない耳を持っているようだ。
二人で部屋を出ると見知らぬ男子学生とすれ違い会釈された。七海は誰だか知っているようだが、私は知らない。休憩室で何をしていたのだろう、だなんて思われてしまったかもしれない。何一つやましいことなどないが、なぜか咎められたような気持ちになって下を向く。きっと私が、あのまま七海に抱かれたかったなんてことを考えていたから、あんな反応をしてしまったんだと思う。
私にとっては幼少期から触れてきた事例だったが学生にとっては珍しいものだったらしく、皆真面目に話を聞いてくれた。あの五条悟が教職についているので高専の教員とはどんな仕事なのかと思っていたが、未来ある若者に教えるということは、存外悪い気はしない。そんなことを考えながら高専へと戻り学生寮へ帰っていく子どもたちの背中を見守った。私は高専卒では無いので皆がどういった生活を送っているのか知らないが、寮生活というのもなんだか楽しそうである。
日はとっくに沈み、辺りは帳が降りたように暗い。終わったと七海に連絡を入れると、すぐに電話がかかってきた。
『遅すぎる。何をやっていたんですか』
「説明が長引いちゃった」
『それは教員の仕事です。アナタがやる事ではない。私はずっと待っていたのに』
「待たせてごめんね。五条さんに頼まれたし、みんな興味持ってくれてたから――」
もういいです、とブツリと電話が切られた。待たせたことで機嫌を損ねるような男ではないので珍しい。きっと別の理由があるはずだ。ずっと待っていたという台詞から恐らく高専内にいるのだろう。七海を探そうと灯りの付いている校舎へと向かう。今日の任務には男子学生がいたが、さすがに子どもには嫉妬しないと思う。五条さんの名前を出したからかもしれない。彼は女をとっかえひっかえしているらしいけれど、関係者の中で五条悟に食われたなどという話は聞いたことが無い。そこの線引きはさすがの彼もわかっているようだ。それに私なんかを相手にしなくてもモデルでも女優でも選び放題なはずだ。とすると、補助監督の彼かもしれない。しかし一体どこで見ていたというのだろう。いや、見ていたわけでは無いかもしれない。七海の不機嫌は私が原因じゃない可能性だってある。単純にずっと待たされて疲れているだけかもしれない。そうであって欲しい。
心もとない外灯を頼りに校舎へと向かっていると、前方から七海が歩いてくるのが見えた。大股で近づいてくる彼は、予想通りきっと機嫌はあまりよろしくない。
「遅くなってごめん」
言い終わるのと同時に手首を掴まれ引きずるように連れて行かれる。向かっている先は駐車場ではない。
「遅くなるのはまあいいです。それよりも補助監督の彼と喋りすぎでは」
こちらを向かずに暗闇に向かって語気を強めて七海が言う。嫌な方の予想が当たって私は一気に憂鬱な気持ちになった。そんなつもりは毛ほども無いのに、七海は私が異性と話すことを極端に嫌がる。それがたとえ仕事であっても、業務連絡だとしても。
「ただの世間話だよ。それに、学生もいたし私だけ黙ってるの変でしょ」
「男と距離が近すぎると前にも言いましたね」
「世の中に男と女しかいないのに、会話しないと仕事にならないよ」
「言い訳は聞きたくない。やめて欲しいと言った事をなぜするんですか」
「だって、本当に何もない」
「当たり前です。何かあってたまるか」
道の脇に映える雑草に吐き捨てるように言う。私を引っ張る手を緩めることなく電気の消えた倉庫の壁へ押し付けた。周囲は真っ暗でひと気は無い。草木が風に吹かれてカサカサと音を立て、遠くから虫の音が聞こえる。暗闇で私を見下ろす七海の目は尖り、唇は歪んでいた。この場を切り抜ける為に謝るべきかもしれない。雨宿りの時はそれで事なきを得たが、今回は以前よりもさらに激しい怒りを感じて言葉が出てこない。何かすべきだと思案するが良い考えなど浮かぶはずもなく、誤魔化したいわけではないのに七海から目を逸らした。そんな私の仕草を見て更に腹を立てたのか、きつく掴まれていた手首を振り払うように手放され、かわりに唇を噛まれた。じゃれ合うようなものではなく、食いちぎらんばかりに力を入れるので痛みと恐怖で身動きが取れない。意図せずぽろぽろと涙をこぼすと、七海は節くれだった指を押し付けるように涙を拭い奥歯をギリギリと噛みしめる。激しい怒りを堪えているのだ。涙を流す私にさえ立腹しているのかもしれない。倉庫の屋根には大きな蜘蛛の巣がはられ、頼りない電灯には羽虫がバタバタと集っていた。こんなところへ連れて来て、このままどこかへ埋められるかもしれない。そう考えてしまうほど、今日の七海は怖い。息をひそめて落ち着けと自分に言い聞かせる。そんな私を七海は何も言わずにじっと見つめた。最近彼が何を考えているのかわからない。
「すみません。手荒な真似を。でも今日という今日は許せない」
言い終わる前に七海の手がカットソーの裾から入ってきた。いつもとは違う冷たい指が肌に触れてぴくりと震えてしまう。乱暴にブラジャーを押し上げ荒々しい手つきで胸を揉みしだかれ、誰もいないと解っているのに辺りを見回してしまった。そんな反応さえ気に食わないのか七海の舌うちが聞こえた。
「ちょ、やめて、こんなところで」
「昼間から欲しがりの顔をしていたくせに」
七海の舌が唇に触れると反射的に迎え入れてしまい、そのまま口の中を嬲られる。上あごの溝を繰り返しなぞられ、身体は少しずつその気になってしまう。ここは七海に教えられた場所だ。更に背筋を撫で、腰に触れ、首筋を吸う。七海に知り尽くされた身体は与えられる刺激に耐えかねていよいよ服従しはじめる。
「ちがっ……。やぁ、やめて、だめッ……」
「誰にも渡したくない。どうすればわかってもらえるんですか」
「も、わかってるっ……ん、おねがい、だめ」
「ちょっと触られただけですぐそんな声を出して、信じられるわけが無い」
「建人が、やらしく、触るからァ……。建人だけ。信じて」
「言い訳は後で聞きます。他の誰にもそんな姿を見せないで。わかりましたか」
「わかりましたぁ……。も、しない……」
野外で盛るなんて動物のようだと最初こそ嫌悪したくせに、いざやめられると少し残念に思ってしまう自分がいた。私の身体は一体どうなってしまったのだろう。七海に触れられるとぼんやりして何も考えられなくなる。快感を得たくて身を任せてしまう。こんなこといけないと頭ではわかっているが我慢できない。こんな人間じゃなかったのに。
七海の自宅へ連れて行かれた後、今日は優しく抱いてくれた。怖い七海と優しい七海。どちらも本物だと思うけれど、あまりの落差に付いていけなくなる時がある。一緒にシャワーを浴びて、食事をして、同じベッドで朝まで眠る。一夜明けるといつもの七海がそこにいて、再び私が溶けるまで愛された。考えてはいけない。清潔なリネンに包まって、ただ彼の愛に溺れていればいい。
私を好きでいてくれてありがとう。私も七海を愛してるよ。世界にただ二人だけになっても、ずっと貴方と一緒にいたい。
それなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。