退勤時間に待ち伏せされる

第8話

 会社の定時を過ぎたら即座にタイムカードを押す。ロッカーで通勤用の無個性な服へと着替えて誰よりも早く社屋を出ると、見知った顔があった。私を見つけると僅かに表情を緩め、こちらへ向かって歩き始める。

「あれ、建人。どうしたの」
「たまたま近くを通ったので、もう退社時刻かと思い待っていました」
「そうなんだ。今日はうちに来る?」
「行きたいのですが、急遽これから遠方へ出張なのでどうしても会いたかった」
「それは残念。私は本屋に寄って帰るつもり」

 特に何か決まった買い物があるわけではない。早い時間に上がれた日は本屋をぶらぶらするのが好きなのだ。七海は新幹線の中で読む本を探すと言ってついてきた。自分の本はさっさと選び、私の後ろをついて回っている。節約レシピ本を物色する私の隣で七海は世界各国のスープの本を眺めていた。

「あ、先輩お疲れ様です。奇遇ですね」

 後ろからはつらつとした声が聞こえ振り返ると、二つ下の後輩が親しみやすい笑顔を浮かべて立っていた。私と目が合うと軽く会釈し、手にしている営業のハウツー本をちらりと見せた。今年度から営業課へ異動した彼は誰がどう見てもぴったりだというのに、人事発令を見て「無理だできない」と大騒ぎしていたことを思い出す。そんな彼も今では次期エースの一人として名高い人物と専らの噂だ。

「もしかして彼氏サンですか?」

 目を細めて少々のからかいを含んだ声を出し、口を尖らせて言った。私がその通りだと答えると「先輩も隅に置けないですね!」と白い歯を出して笑った。七海は彼をじっと見つめ「はじめまして」と挨拶してから名乗り、会釈をした。まるで名刺交換でも始まりそうな雰囲気に笑っていると、七海はむっとして少し口角を下げた。人懐っこく裏表のない性格で先輩面のし甲斐がある彼は、にこにこと愛嬌を振りまきながら私と七海を交互に見て「僕も早く彼女が欲しいです」と言った。先日大きな契約を取ってきたという話を聞いたので「頑張ってるね」と言うと笑顔を弾けさせ私のおかげだという。特に彼の功績に貢献した覚えはないが、後方支援があってこそだと私の所属する部署のスタッフを褒め、「それではまた会社で」と爽やかに去っていった。なんでもない私の仕事を褒められ悪い気はしない。世渡り上手な彼のようになれれば少しは楽しい仕事なのかもしれないと考えながら、持っていた本を棚へ戻す。同じタイミングで七海も本を返した手つきが少々乱暴に感じたので、その横顔を恐る恐る覗き見る。

「ずいぶん仲がいいんですね」

 予想通りの言葉が出てきたことにあまり驚きはしなかった。彼が現れた時点で七海が発する空気が冷えていくのを感じていたからだ。きっとまたやきもちを焼いているのだと思うが、疑われるようなことは断じてない。最初は可愛らしいと思っていた七海の嫉妬もここのところ度が過ぎる事があり、最近では少々げんなりしている。一体私のような人間に誰が興味を持つというのだ。どこからどう見ても平凡以下で特技も無けりゃこれといった長所も無い。七海に執着されるような女ではないのに、彼は私の何がいいというのだろう。自分で言っていて悲しくなるが、紛れもない事実だった。七海にはもっとふさわしい人がいるのではないかと思ってしまう。

「建人が思ってるようなことなんて、何もないよ」
「男の嫉妬は見苦しいと思いますが、アナタを独占したいと思ってしまう。これから離れ離れになるというのに、別れ際に見る姿が他の男と楽しそうに喋っているところだなんて耐えられません」

 早口でそう言うと七海は私の手を引っ張って本屋を後にした。またどこかへ連れて行かれてしまうのかとぼんやり考えながら、七海の背中をながめる。今からどこへ連れ込もうというのだ。これから遠方へ行くというのに。

「すぐ帰ってくるんだよね? 待ってる」
「余裕なんですね。会えなくて寂しいと思うのは私だけですか」

 今日はどうやらいつもと違うらしい。落ち着けと言い聞かせてなんとか装った態度が逆効果だったようだ。ぐいぐいと腕を引っ張り大股で歩いていく七海に仕方なくついて行く。しばらく歩くと辺鄙な場所にあるコインロッカーの奥へと追いやられ、大きな手に頬を掴まれた。七海の嫉妬心が爆発した時、めちゃくちゃに抱かれるのが常だ。時には痛みを伴うこともあり、そんな七海を最近では少し怖いと思う。動揺しているところを勘づかれてはいけない。私が怯えると何か後ろめたい事があるのではないかと勘ぐって、余計に過熱するからだ。大人しくしていたら治まるはずだと自分に言い聞かせ、目を閉じて動かずにいると七海の大きな溜息が降ってきて抱きすくめられた。

「わかっているのに、苦しい。困らせたくないのに、無理を言ってしまう。すみません。どこにも行かないで」
「どこにも行かない。建人が帰ってくるのを待ってる」

 強い力で私を胸の中に仕舞いこみ七海はしばらく動かない。つむじに何度も口付けをしている。私は時間が経つのをじっと待った。ついに誰かの足音が聞こえてきた時、七海はさっと身体を離した。

 二日後に戻ってきた七海はいつも通りで、いい香りの紅茶を淹れてくれお土産の焼き菓子を食べながら二人でのんびり映画を見て過ごした。おやつを食べ過ぎた私は夕食を食べられず、七海はブツブツ文句を言いながら自分の分だけパスタを作った。それがあまりにも美味しそうだったので一口貰うとやっぱり食べたくなって、私の分も作ってもらったんだっけ。お菓子もパスタも食べ過ぎた私のぽっこりと出たお腹を撫でながら得意げにしている七海がなんだかおかしかったけれど、幸せだった。

 それなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。