七海が童貞を脱して何度か身体を重ねた後、名前で呼んで欲しいと言うからその通りにした。更に親密さが増したような気がして私は嬉しかったし、七海は自分で言い出したくせに身を捩って照れながらとても喜んだ。名前は基礎年金番号と同じく我々につけられた記号だと思っていたが、どうやらそうではないらしい。愛しい人から呼ばれると特別な意味を持つ。その日の七海はずっと機嫌がよかった。珍しく鼻歌も聞こえてきたし、いつもに増して距離は近いし、とても嬉しそうにしていたので(可愛いやつめ)などと思いながら私は得意げにしていた。歴代の――といっても二人しかいないし半年もたなかった――男達にも名を呼ばれていたはずなのに、七海の口から発せられるとまるで別の意味を持った言葉であるかのように音が弾んで聞こえる。私も間違いなくこの恋に浮かれていた。
付き合って三ヶ月程度はどんなカップルでも探り合いつつ徐々に仲を深めるだろう。交際するまでほとんど接点の無かった私たちももちろんそうだ。お互い忙しく学生のように簡単に会うことはできないが、週末に食事をしたり会えない時は電話やメッセージを送り合ったり、普通の恋人として交際初期のうきうきと楽しい時期を味わっていた。
土曜日の半日出勤を終えた私はいつものように七海に連絡を入れた。昨日の深夜に貰ったメッセージには任務であることが記載されていたが、一報入れてみると合間に会いに来てくれることがある。短時間だがお茶や食事の時間を共にすることができるかもしれない。一週間声だけの七海だったので久しぶりに会えたらラッキーだ。それが叶わなくても、声だけでも聞くことが出来たら嬉しい。そう思ってスマートフォンのスピーカーに耳をくっつける。出てくれたらいいな。そう期待しながらしばらくコールするが七海は出なかった。留守電に切り替わったところでメッセージを入れずに電話を切った。諦めて一人でランチをして帰ろうと駅へと向かっている途中、着信音が鳴る。慌てて画面を確認すると七海がかけなおしてくれたとわかり、胸を躍らせて通話ボタンをタップした。周囲に誰かいるのかいつものような甘い声ではなく、業務連絡用の喋り方がおかしくて噴き出すのを必死に堪えながら七海の話を聞いた。今午前の任務が終わったところだが昼から別件で東京を出なければならないらしく、駅の近くまで来てくれたら昼食を共にする時間くらいはあると言う。私は二つ返事で了承して駅まで競歩並の速さで歩いた。本当は走り出したい気持ちだったけれど、都会の真ん中で大の大人が喜び勇んで走り回るわけにはいかない。それでも自然と頬が緩むし、足取りは軽くなるし、いつもは幸せそうなカップルを見つけると羨ましくて寂しかったが今日は違う。だって私はこれから最愛の人に会いに行くのだから。
私が駅に到着したとき、七海はスーツケースを傍らに誰かと電話していた。遠くからでもわかるその姿を見つけてにやついてしまう。これからの相談でもしているのだろう。仕事の邪魔をしてはいけないと電話が終わるまで少し離れた場所で待とうと思ったのに、七海は私を見つけるや否や足早に駆け寄り通話したままつむじにそっと口づけた。恥ずかしさもあったが嬉しさもあり、そのまま勢いで抱き着いてしまいたかったが、人の往来があまりにも多く私からは何もできずにもじもじしただけだった。七海の唇が触れた頭頂部を押さえていると、通話相手と現地での合流方法を確認しながら七海は高架下のベーカリーカフェを指差した。指示されるままについていく。歩いているだけで格好がつく人間がこの世に存在するとは。それが私の恋人だとは。一体誰が信じるというのだろう。
電話を終えた七海は小さな溜め息を一つ吐いてから私の目を見ると表情を緩めて「すみません」と謝った。私は「全然」とだけ答え彼の空いている腕にくっついてみる。温かいを通り越して熱い、いつもの七海だ。布を隔てて触れているにも関わらず、筋肉質で血管が浮き出た腕や無駄なものが全くついていない筋肉質な肉体を想像して、汗ばんで湿った肌を思い出してしまう。今日はこれ以上触れられない事が残念でならない。いつものように愛されたい。次会えるのはいつだろう。まだ会ったばかりだというのに七海が欲しくなるし、次の約束のことまで考えてしまう。時期的にまもなく排卵日である私の身体は、子孫を残すつもりなど無いくせに男に抱かれる事を望んでいる。これは本能だ。優秀な雄を求める動物的な欲求がそうさせる。顔に出してはいけないと自戒しながら七海の隣を歩く。こんなことを考えているなんて知られたくない。彼の前ではかわいい女でいたいからだ。
「今日は時間に余裕が無くてすみません。でも会えてよかった」
「会えて嬉しいけど、すぐ行っちゃうなんて寂しいな」
私たちは焼きたてのパンと美味しいコーヒーを楽しみ簡単な近況報告をした。私の本職は相変わらずだが、呪術師の仕事はというと最近は比較的余裕があった。もとより私は窓に毛が生えた程度の仕事しかしていないので、七海のような術師と違って頭数に入れられていない。一方七海は遠方でこじれた任務の後を引きぐ事が多いらしく、ここ二週間は各地を飛び回っているのだという。思うように時間が作れないとぼやき、私の手を取って指をなぞるように撫でた。そんなことされてしまったら忘れかけていた劣情がむくむくとわき上がり、堪えきれなくなるではないか。
隣に座る七海が私の耳元でそっと囁く。
「いやらしい顔をしてる」
七海は口角を上げて意地悪に笑った。まさか気づかれていたなんて。その一言で火が付いてしまい、お腹の奥の方が熱をもち、お尻の穴の方まで切なくなった。今の私は余程惚けた顔をしているのだろう。それさえも刺激となって私の背筋を粟立たせた。こんな感覚は知らない。今までの恋愛はなんだったのかと最近思う。好きになったり好かれたりしたことはあったけれど、こんなにも荒々しく恋慕するのは初めてだ。
「私の仕事が不規則なのでスケジュールを共有したいんです」
真っ赤になって俯く私の指をテーブルの下で弄びながら七海が言った。スマートフォンの画面を提示してとあるアプリを入れて欲しいと言う。スケジュール共有がされるもので七海の画面を覗くとポツポツと遠方の地名が入力されているのが見えた。
「全部日帰り?」
「そうするように努力しています。アナタに会いたいので」
真顔でさらりと言ってのけながら私が画面を覗き込む姿勢をいい事に、更にこちらへ身体を寄せてテーブルの下で足を密着させた。オープンな空間で行われる秘密の行為に胸の鼓動は無意識に速くなり呼吸が乱れていくのを自覚してしまう。私たちの様子に勘付いている者はいるだろうか。
「位置情報も共有してください。すぐに待ち合わせ場所に行けるので便利でしょう」
迷子になった時にも役立つはずだと七海は言って悪戯っぽく笑った。この歳で迷子になどなるはずは無いと反論したかったが、すっかり欲情した私はその視線にさえも情事の彼を思い起こして身体を震わせてしまう。いつの間にか私の端末を操作し位置情報共有をオンにした七海は時計を見て「残念ですが時間です」とため息交じりに呟き、トレーを返却口へと返すため席を立った。
そのまま二人で駅へと向かう。土曜の昼過ぎは多くの人でごった返している。見知らぬ人々の波をかき分け雑踏を進んでいく。もうすぐ別れがくるのだ。ずっと会えないわけでは無い。そんなことはわかっているが、秘められた欲望に火がつけられた今、次から次へとやってくる感情の波に飲み込まれてしまいそうだ。ついに新幹線の乗り場へと続くコンコースへと到着してしまう。その片隅で七海の手を取り呟いた。
「お願い。早く帰ってきて……」
「帰ったら真っ先に会いに行くから待っていてください」
別れ際、寂しさのあまり涙が滲み、改札の奥へと消えていく七海の背中を見つめ私は泣いた。今生の別れではあるまいとわかっているのに、昂った気持ちが抑えきれずに溢れてしまった。街行く人々は私の事など気にも留めていませんと知らん顔で通り過ぎていく。誰かが慰めてくれるわけでは無い。もちろん七海はいないし、こんな時にすぐ連絡できて駆けつけてくれそうな友人も思い当たらない。この感情を自分でなんとかするしかないのだ。恥ずかしいような、身の置き所がないようなむずむずとした感覚を身体のあちこちに感じてその場に座り込んでしまいたかったが、中高生じゃあるまいしそんなことできるわけがない。なんとか体裁を取り繕ってよろめきながら帰路につく。七海に会わなければよかった。彼に会わなければ、こんな身を焼かれるような痛みを知らずにすんだのに。
何の変哲もない、いつもの自分の家。シャワーを終えて早々と寝室へと向かう。七海がくれたルームライトだけを点けてベッドへ横になる。滅多にこんなことはしないのに、寂しさに耐え切れず最後に抱かれた日の事を思い出しながら自身の秘密へと手を伸ばした。風呂上がりのせいかじっとり湿って生温かかい。不慣れな手つきで恐る恐る触れてみるとそこには柔らかい粘膜があった。指先で触れるとネチネチと音を立てるものの、彼に触られた時のようにはなかなか濡れてこない。七海の事を考えてみる。いつもどうされているだろう。目を閉じると耳や首筋、胸を彼の唇と舌でなぞられ震えあがっている私が見える。彼のベッドの清潔なシーツを二人で乱し、苦しいのにキスを止めることができずに呼吸を荒げながら貪り合う。熱く大きな手が私を掴んで引き寄せ、腰を押し付け合って果てる。出した後なかなか抜いてくれず、彼のものが私の中でビクンビクンと抽送し精液を奥へと押し込むように動く感覚を覚えさせられるのだ。津波のように押し寄せる快感に身を任せて痙攣し、失神しそうになった私を抱きしめる汗ばんだ身体。なんて淫らなんだろう。自分の身体なのに中へ何かを入れるのが怖く、クリトリスを指の腹で何度も擦って刺激した。頭の先からつま先まで痺れるような感覚の後に腰がぶるぶると震え、呆気なく絶頂に達する。膣からはどろどろとした粘液が垂れて慌ててティッシュを引き出してあてがって拭うと、どろどろの白い粘液が分泌されているのがわかった。シーツを汚してしまうと思い途中でバスタオルを取りに行って敷いておく。止まらない。もっと欲しい。奥を掻き混ぜて、思いきり突き上げて貰いたい。腕を掴まれベッドに押さえつけられている自分を想像すると気絶しそうだ。早く帰ってきて。貴方に滅茶苦茶に抱かれたい。壊れるくらい、思いっきり。いっぱい痕を残して二度と貴方の事が忘れられないようにして。
その晩私は七海の事を想って何度も自慰を繰り返し、疲れ果てて裸のまま眠った。
元々性への興味は薄い方だったと思う。嫌いではないが好きでもない。恋人がいればしなければならない行為。私にとってセックスとはそういうものだったはずだ。他人の事情を知る機会など無いのでセックスや自慰の頻度が一般的にどの程度なのかは知らない。それでもネットの広告やマッチングアプリ、アダルト動画に裏アカウント。世の中にはそういった情報が溢れているのだから、人々はこの行為に興味津々なんだろう。だから今日の事は特におかしくないと自分に言い聞かせた。そういう気持ちが昂って抑えがたい日もあるだろう。以前は誰かを強く想うことも、恋だの愛だのに足をすくわれることもなかった。彼に出会って全てが変わってしまった。
あの日から数か月前まではキスさえできずに赤面していた七海をリードして得意げになっていたのは私だったのに、この時にはもう完全に彼に溺れていた。会いたくて涙する日が来るなんて想像したことさえなかったし、側に居るだけで触れて欲しくて我慢できなくなるなんて知らなかった。
それなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。