七海は私と同い年だが高専の同期ではない。世の中の呪術師がすべて高専出身者ではなく私のような者も少なくないのだ。それでも何かと高専とは関わりがあり、昔はそこそこ顔を出していたので七海建人という男の存在は知っていた。しかしいつの間にかいなくなり、その存在を忘れかけた頃に出戻ってきていた。折角足を洗うことができたのに、こんな業界に出戻りとは珍しいと人だと思った。彼は私にとってただそれだけの人物だった。
私は呪術師一本で生きている訳ではなく、普段はOLとして会社勤めをしている。呪術師は副業なのだ。これは割と珍しい。理由は単純で私は家系で渋々呪術師をしているが、私自身の能力は親族一同の中でも下から数えた方が早い。その程度の奴はお呼びでないというわけだ。しょぼい呪霊の調査はできるが討伐はできない。ちょっとした封印や結界なんかを呪具に頼ればできるというくらいで、そういった仕事を担う者は私以外にもたくさんいるし、正直、使い勝手が悪い人材だと思う。それに私はこの業界にどっぷり浸かりたくなかった。若くして死ぬ者も多く、上から下まで一般常識とはかけ離れた変人ばかりだからだ。
話を七海に戻そう。どうやら彼はそんな私の存在を不思議に思っていたようで、ある日高専内をぶらついている時に声をかけられた。昔見た繊細そうな線の細い少年はがっしりとした身体と鋭い目付きに変わっていて、名乗らなければそれが七海建人だとわからなかった。しかし七海の方はというと、私の事をよく覚えていて名前も階級もあまり役に立たない私の能力もスラスラと述べた。七海は一般社会からの出戻りであるということを明かし、私の普段の職業を聞いてきた。大手建築会社の下請け企業で誰でもできるような仕事をしているんだと答えると、特に何か言うでもなく頷いただけだった。何か言いたげにしていたので用があるのか聞いてみると、唐突に食事へ誘われた。今夜の予定は空いていたし特に断る理由もなかったので二つ返事で了承した。いざ指定された場所に行くと他に誰か来るのかと思っていたのに二人きりで驚いたが、話してみると意外にも俗っぽいところがあったり、呪術師だけしか知らない人間では分かり合えない一般社会での生活を語ったりして、なんだか心が通じた気になってしまった。そこから徐々に関係が深まり七海から交際を申し込まれたので、彼に対して悪い印象は無かったし恋人もいなかった私はその場で承諾した。七海が私の何を気に入ったのかは、今でも正直よくわからない。私は彼の落ち着いているように見えるがユーモアがあり聞き上手なところを好ましいと思う。興味があることや好きなことは饒舌に語り、その話がまた面白く彼に惹かれた理由の一つだ。始まりはこんな感じでドラマチックでもなんでもない。独り身の男女が意気投合した。それだけだ。ドラマや漫画で見るような展開は全部誰かの作り話で、実際はこんな風になんとなく始まるものなのだ。
いい大人二人が交際を初めて一ヶ月。七海は一向に手を出してくる気配は無かった。キスもまだで、驚くことに手さえ繋がず指一本触れてくることは無い。肩が触れても離れていくし、目を合わせるとそっと視線を外される。こんな男は初めてだったが私もそれほど経験豊富なわけでもないので、デートに誘いはしたがこちらから何かする訳でもなく時が流れた。私がつまらない女で魅力が無いのかな、と少し残念に思ったが自分を変えてまでこの関係を続けようとは思えなかった。それどころか、この恋愛はすぐに終わるだろうとさえ考えていたほどだ。単純に忙しく会う時間がとれなかったというせいもあり、彼を深く知ることもなく、触れることも無く自然消滅するのを待っていた。七海に好意が全くなかったわけでは無い。そもそも私達は合わなかったのだ。諦めてそう思うことで、何もない自分を守ろうとしていたのだろう。だって私には、どこからどう切り取っても取り柄なんてものは無いのだから。
なんとかスケジュールを調整してデートの定番である水族館に二人で出掛けたある日。ペンギンの展示で偶然同じところを指差し、図らずとも手が触れ合ってしまった時のことだ。七海は慌てて深々と謝ってきたので、付き合っているのだから手くらい繋ぎたいと誘ってみた。普段の私なら言わなかったと思うが、周りには親密そうなカップルや仲睦まじい家族連ればかりで、薄暗く幻想的な雰囲気にのまれていたのだろう。私の言葉を聞いた七海は途端に真っ赤になってオタオタし始め、俯いて黙り込んだ。想像していた反応ではなかったが、私はそれで何となく察してしまった。この男、もしかしてとんでもなく奥手なのではないかと。
「実は、女性と交際するのは、アナタが初めてです。引きましたか……」
七海はきまり悪そうに口元を手で押え視線を泳がせながら小さな声で話した。突然の告白に反応できず呆気に取られていると、大きな手で眼鏡を押さえて震える声を出す。
「手を繋いだことさえない。でも、アナタがいいのなら、繋ぎたいです」
目の前には茹でダコのようになった色男と天から降り注ぐ氷塊を口を開けて見つめるペンギンがいた。いかにもカタそうだとは思っていたがここまでとは想像に及ばず一瞬言葉を失ったものの、恥ずかしがってそっぽを向いたままの七海の手をとり握ってみる。皮が分厚いしっかりとした紛れもない男の手だ。汗ばんで湿っているのにとても冷たかった。よほど緊張しているのだろう。七海は私の顔を見ずに繋がれた手をじっと見ていた。ペンギンの展示は明るい。氷の世界で背景が真っ白だから、照明を反射して他の場所より七海の姿がよく見えた。首筋まで赤くしてなんて初心な人なんだろうと思った。
「七海と手、繋ぎたい」
「うっ……。嬉しいです」
「あっちも見よう」
照れながらもしっかりと指を絡めてくる七海が可愛らしくて仕方ないが、ここで笑って茶化すべきではないとわかっていたので彼の大きな手を握り返す。人の流れに乗ってこのまま進もうと手を引いたのに七海はその場に立ち止まってしまい動かない。七海がぎゅっと手に力を入れるのが分かった。
「正直に言うと、全く魚どころではない」
「座る?」
「いえ、手を離したくないので、このまま行きましょう」
恥じらいながらも自分の気持ちはストレートに伝えてくるところがいじらしい。突然歩き出した七海に手を引かれ次の水槽へと移る。薄暗い通路を進む時、更に私たちの距離は縮まった。暗くて危ないからという口実の元、七海が私を引き寄せたからだ。
「危ないので離れないでください」
「うん。離れないよ」
恋人同士だから距離を詰めるための理由などいらないのに彼にとっては必要なのだろう。
色とりどりの熱帯魚が優雅に泳ぐ展示を抜けると、そこには巨大な水槽が広がっていた。サメやエイなどの大型の魚が展示されているフロアの一角にあるベンチ付近に座ろうとした時、七海が私の手を引き制止した。振り返ると後から来た赤ちゃんと幼児を連れた家族に席を譲るためらしいとわかった。こういったことをさらりとやってのけるスマートさはあるくせに、私の手を繋ぐ為にはとてつもない勇気が必要だったのだと思うと胸が締め付けられるように切なくなる。可愛い奴め、とにんまりと笑っていると七海は不思議そうに目を細めて私の顔を覗き込んだ。意外にも表情豊かな男である。
それからゆっくりと時間をかけて展示を見て回った。後から来た人々は私たち二人を追い越して先へ先へと進んでいく。大変真面目なこの男は各展示の解説パネルを上から下まで興味深そうに読み、その内容を私に嚙み砕いていちいち解説してくれるのだ。「ここでしか展示されていません」だとか「主食は貝類だそうです」だとか、恐らくほとんどの人が魚の名前を見るだけで終えているであろうその説明を細部まで読み語ってくれる。私はそんな彼の横顔を見ながら、なんてきれいな造形だろうと考えていた。あまりの美しさに七海の懇切丁寧な魚講座は頭に入って来ないのだ。彼は水槽とパネルを交互には見ていたがこちらを全く向かない。俗っぽい私の考えになんて気づかないままでいて欲しい。だって今の私は、さっきの七海に負けず劣らず真っ赤になってしまっているから。
進むにつれて徐々に近い距離感に慣れてきたのか、私が寄りかかると肩を抱いたり腰に手を回したりするようになった。女性に対してこんなことをするのは初めてだといちいち言い訳しつつも、妙に筋がいいなと感心した。それからこの七海建人という男は何をやっても格好がつくものだなとも思った。パネルを読む真剣な表情。眼鏡を上げる仕草。岩陰に隠れたウツボを必死になって探す姿さえ様になる。加えて高身長・高学歴・高収入。所謂3Kの優良物件じゃないかと思って七海を見上げていると、不躾な視線に気づいたのかしばらくぶりに私の方を向いた。その表情は「人生で初めて恋を知りました」とでもいうようなのぼせた顔をしていたものだから、こちらの方が恥ずかしくなって反射的に視線を逸らして俯いてしまう。突然、胸がキュンと切なくなって、甘酸っぱい気持ちが湧き上がり七海に寄りかかり目を閉じた。3Kだのなんだのという卑しい考えは直ぐに掻き消えて私の頭の中もお花畑になったのだ。この時、私は七海に恋をしたのだと思う。
水族館を出ると燃えるように美しい夕日が広がっていた。近くの公園を歩きながらまだ一緒にいる口実を探していると、七海は近くのベンチを指さした。手を引かれるままそこに座る。遠くには海が見えた。波は静かで穏やかだ。夕日が落ちてとろけそうな水面をぼんやり見つめていると、七海が名残惜しそうに手を撫でるので彼の肩に頭を乗せてみた。そのまま肩を抱いて欲しかったのに、大きな手は彼の膝の上に戻ってしまい残念に思う。もう少し一緒にいたいな。そう言おうと思った時、ホクホクと満足げに頬を緩ませながら七海が口を開く。
「今日は楽しかったです」
距離が縮んだデートの後。海と夕日。人がまばらな公園。ここから一歩踏み込むチャンスだらけだというのに、どうやら七海はこのまま帰るつもりらしい。まだ一緒にいたい。そう願っているのは私だけではないと思いたいが、この男はどういった反応をするのだろう。
「もう帰るの?」
「えっ、いや、はい。日が落ちて来ましたし……」
少々あざといかと思ったがわざとらしく聞いてみると、七海はなんと本当に帰るつもりだったらしく、途端にオタオタし始めた。私たちはいい大人だ。これからディナー、そしてその後はホテルでもいいと思う。手を繋ぐことさえ無かった私たちの距離はここまで縮まった。七海はこの先に進みたいと考えないのだろうか。私はこれからの展開について下心しかないというのに。
「ご飯食べて帰ろうよ。いいでしょ」
「遅くなりますよ。明日仕事なんでしょう」
眉尻を下げて困った表情を浮かべた七海が言う。目が泳いでいる。七海もこの先の事を考えていないわけでは無いだろう。私にどう思われているか不安なのかもしれない。それとも、この後の事を考えて混乱しているのかも。明日は月曜日でもちろん仕事だ。それでも、今日はこのまま帰りたくない。
「七海はもう帰りたいの? 疲れた?」
「そんなわけない! ……すみません。あまり長時間拘束すると負担になるかと……」
少し大きな声を出してしまった七海は自分の声量に驚いて目を見開いた後、とってつけたように慌てて謝り小さな声でぼそぼそ弁明を始めた。
ああ本当に、なんて可愛らしいんだろう。
「私たちは大人だから、大丈夫」
先程離れてしまった七海の手を追いかけて重ねる。またひやりと冷たくなっていて彼の緊張が手に取るようにわかった。七海は反対の手でスマートフォンを取り出して何やら検索し始める。
「では、どこかで食事を――」
「こっち向いて」
「はい? なんでしょう、か」
七海がこちらを向いた時、周囲に誰もいないことをいいことにその唇にキスをしてみる。
「うっ……」
唇同士がほんの僅かに触れた瞬間、七海は小さな呻き声をあげた。そのままもう少しだけ距離を縮めると、七海と私はついに零距離に近づいた。乾燥しているかと思った彼の唇は思ったよりもふっくらしていて温かい。七海はきっと目を開けていたのだろうと思うとまた胸の奥がキュッと疼く。硬直したまま微動だにしない七海から唇を離したのに、そのまま固まって動かなくなっている。顔が向いているのは私の方だが焦点は合わず、瞳孔も口も開いたままだ。少し性急すぎたかもしれない。彼のペースに合わせた方がよかった。
「ごめんね。嫌だったかな」
「そんな! 嫌なわけない!」
意識を彼方にやっていた七海が慌てて声を張る。再び自分の声の大きさに驚いた七海は真っ赤になって口元を押さえわなわなと震えた。十代の男女が初めてするような唇が触れるだけの口付けだったのにこの反応だ。とてもじゃないが今日このままホテルへ、などという展開は期待できそうも無い。
「かっこ悪いですね私は。キスさえ自分からできない。こんな男、嫌いになりましたか。もう別れると言われても今なら納得できます」
悲壮感を漂わせて頭を抱えながら七海が言う。彼にとってこのキスは、とんでもなく衝撃的な出来事だったらしい。
「なるわけないよ。びっくりさせてごめん」
別れるだの何だの言い出すとは思わず、私は慌てて謝った。すると七海は首を横に振って謝らないで欲しいと言い、項垂れつつもこちらへちらりと視線を送る。夕日は海へと沈み、辺りは薄暗くなり始めた。
「……今度は、私からしてもいいですか」
「聞かなくてもいいのに」
「それは抑制がきかなくなりそうなので、しばらくは許可を求めます」
「いいよ」
下唇を緩く噛みながら緊張した面持ちの七海がゆっくりと近づいてくる。私の肩を掴む手にぐっと力が入り眉間に皺が寄った。私も七海も目を閉じればいいのにそのまま見つめ合ってしまった。いよいよというところで私が瞼を下ろすと、七海の唇が一瞬私に触れてすぐに離れていった。顔を背けて小さな溜め息を吐くと、伺うようにこちらへ視線だけ寄こす。その顔をずっと見ていたいけど、きっとすごく恥ずかしがるだろうからやめておくことにする。
まるで中学生の初恋のような甘酸っぱい口付けをした私たちはしばらく公園でぼんやりと過ごした。七海はあの後何度か許可を求めて私に口付けた。幸い住宅地からも水族館からも少し離れた夕暮れ時の公園にはほとんど人が居なかったから、私たちは思う存分身体を寄せ合った。自分たちの世界に入り込み周りなど見えなかったので、もしかしたら誰かに見られていたかもしれないが。私たちを見た者がいたとしたら、とんでもないバカップルがいると思ったことだろう。
ついに陽が落ちて暗くなってきた時、七海の腹の虫が盛大に鳴ったのでファーストキスごっこは切り上げ、私の自宅付近にあるカジュアルなレストランでイタリアンを食べてから帰ったのだった。そのまま持ち帰られるかうちに来ても良かったのに、七海は私を家まで送り届けると玄関先で別れのキスをしてから、そのまま帰って行ったのだ。彼のあまりの誠実さに驚きつつも、とことん奥手で大変真面目な男だと妙に感心した。
それなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。