別れた後にちらつく七海が怖い

第1話

「今日の夜、予定はありますか。何も無ければ食事でもと思いまして」
「……何も無いけど七海とは行かない。もう付き纏わないでって言ったよね?」

 私達はかつて交際していた。順調に付き合っていたと思ったのだが、七海の束縛がエスカレートして最後は逃げるようにして別れた。それなのにこの男は、何食わぬ顔をして私の所へとやってくる。別離など無かったかのように。

「やはり駄目ですか。悲しい。アナタに触れられない事がこんなに辛いなんて考えたことも無かった。ずっと一緒にいるものだと思っていたので」

 当然のように伸びてくる手を払うと私を陰気な目つきで見つめる。湿った空気と絡みつくような声が鬱陶しい。

「お疲れさま」
「私と話す事さえも嫌だという事ですね」

 一瞥もくれずにその場を立ち去ったのに、私の背にへばりついた七海の声は何故か嬉しそうで気味が悪い。別れてからも七海に会えばこのように絡まれて疲弊していた。私達はもう終わったのに、未だ以前と変わらぬ態度で近づいてくる。話しかけないでくれと言ったが通じない。七海に会うのが嫌で極力高専には来ないようにしているのに、どうしてかこうやってつかまってしまう。誰かがリークしているかと思ったが、どうやらそれも違うらしい。位置情報共有システムはオフにしているはずだ。盗聴や盗撮をされているのかもしれないと業者に自宅を調べて貰ったが妙なものは見つからなかった。

 始めは適当にあしらっていたが、最近はあまりのしつこさに恐怖を感じ始めていた。

 仕事帰りに寄った本屋で立ち読みをしていると、隣に大きな男が立ったことに気付く。そちらを見なくても誰だかわかる。最近は私の生活圏で待ち伏せされていた。

「こんばんは」
「……」
「今日は本当に偶然ですよ」

 本を手に取り返事さえせずレジへと向かう。後ろから七海がついてきて会計を終えるのを待っている。素通りして自動ドアを抜け自宅とは反対方向へと進んだ。このまま帰ってゆっくり過ごしたかったのに、人混みに紛れて七海を撒くためまた駅へと戻り電車に乗る羽目になるかもしれない。そう考えていた時、真後ろまで来ていた七海が私に声をかけた。

「その調子でお願いします。私に少しの未練も無いとわからせてください。そうでないと諦められない。またアナタが話してくれるのだと、隣に戻ってきてくれるのではないかと、期待してしまいますから」

 七海の方を振り返ると目を細めて口角を上げていた。それは嬉しい時にする表情のはずだ。にやにや笑う七海を睨みつけ冷たい声を意識して言い放つ。

「さよなら」
「挨拶してくれて嬉しいです。さようなら。また会いましょう」

 弾むような声を出して言っている。それは嬉しい時に出る声のはずだ。どうすれば少しの未練も無いことを理解してもらえるのだろう。怒ってみても、冷たくしても、七海はまた何食わぬ顔で私の前に現れる。

 ついてくる足音が無いことを確認して振り返ると、もう七海の姿は無かった。どうやら諦めて立ち去ったようだ。でも私の家も、いつもいくスーパーも、寄り道していくパン屋も、何もかも知られている。もうこの街から引っ越すしかないのかもしれない。

「お元気ですか」

 会社の近くに新しくできたベーカリーカフェで昼食をとっていると同じテーブルの向かいに七海が座った。黙って席を立ち、周囲に目を配る。席を変わろうと思ったが満席だ。店員にテイクアウトバッグを貰って食べかけのホットサンドを詰める。ホットコーヒーの蓋が上手く締められずモタモタしていると、七海の手が私の方へと伸びてきた。反射的に手を引いたらカップを倒してしまった。ほとんど中身が無く、被害が少なかったのが幸いだ。ペーパーナプキンで机をふき取っていると、七海が自分のカップを差し出した。大きなカップの中身は全く減っていない。受け取ることなく、何も言わずトレーを返却し店を出る。額に冷や汗をかいている。早く職場に戻ろう。中にまでは入って来られないはずだ。

 急ぎ足で職場へと向かう私を七海が追ってきた。当然のようにすぐに追いつかれてしまう。オフィス街の真ん中で走り回るわけにもいかず、諦めて立ち止まると七海は私に向かってこう言った。

「無視されてもアナタが愛おしい。一緒に水族館へ行った日のことを覚えていますか。あの日始めてキスをしました。唇ばかり見ていた私に気付いて、アナタからしてくれたんですよ。嬉しかったです」

 七海が何を考えているのかわからない。今の私に何を求めているのだろう。直接危害を加えられているわけではないが、呪霊に攻撃された時のように頭がぐわんぐわんと揺れる。立っていられない。これは恐怖だろうか。返事のない私のことは全く意に介していない様子で七海は話を続けた。

「子どものような恋愛でした。私はアナタしか知りませんから。少し、やり方が間違っていたんだと、本当に後悔しています。傷つけるつもりは無かった。ただ、私だけを見ていて欲しかったんです。それなのにアナタは……」

 七海の声量が徐々に増していく。道行く人が振り返り私達を見た。指先が冷たく凍り付いていき、目の前の世界が歪み始める。誰かに助けを求めなければ。そう思って口を開くが声が出ない。人々は見知らぬカップルの痴話喧嘩に興味など持たない。関わらないでおこうと誰もが通り過ぎていく。まるで私達などはなから見えていないとでもいうように。呪いもこんな気持ちなのかもしれない。なんとか口を動かしてみる。お願い。もうやめて。七海に聞こえただろうか。

「声を荒げてすみません。もうやめます。さようなら」

 そう言って七海は、初めて自ら去っていった。これでようやく終わったんだ。

 久しぶりに高専へ出向いた私は、その扉の向こうの気配を察して一瞬立ちすくんだ。七海がいる。怖い。そう思ったと同時に身体が動かなくなった。心臓がバクバクと音を立てているし、一気に喉もカラカラだ。このままここを立ち去るべきだが、自分から漏れ出た緊張感は既に周りに滲み出ており、どう考えても扉の向こうの人物にまで伝わっている。私の存在に気付いているはずの七海は、一体何を考えているのだろう。己の発したピリピリと肌を刺すような感覚は手に取るようにわかるのに、七海からは何の変化も感じられず、以前のように取り乱したりすることはないのだとわかってなぜか少し悲しい気持ちになった。本当に自分勝手な思考回路をしていると思う。逃げるように別れた時はほっとしたくせに、追ってこないとわかったら寂しさを感じるなんて。

 じわりと手に汗をかいてきた時、音もなく目の前の扉が開いた。やはりそこに立っていたのは七海で、その長身から私を静かに見下ろした。表情は無い。薄いグリーンのグラスに私の間抜け面が映っていてすぐにでも逃げ出したい気分になるが、蛇に睨まれた蛙の如く身動き出来ない。何か言わなければ。簡単な挨拶でもいい。声をかけた方がいいと思うのに、何も言葉が浮かんでこないし声も出ない。

「お疲れ様です。久しぶりですね」

 そんな私とは裏腹に、七海は何食わぬ顔で誰にでもするような簡単な挨拶をしてきた。声色は平坦で何の感情もこもっていない。冷や汗をかきながら外面だけは整えて、なんとか声帯を震わせて声を絞り出す。

「久しぶり」

 七海は返事を聞いて小さく頷くと、固まって動けない私の脇をすり抜けて遠ざかってしまった。果たして今の私の挨拶は、同僚との適切な距離を保てていただろうか。彼の革靴の音が聞こえなくなったら一気に全身の力が抜けてその場にへたり込んでしまう。何か言われるかもしれないとか、何かされるかもしれないとか、そんな心配ばかりしていたのに拍子抜けだ。七海の顔は以前のような執着を貼り付けた表情ではなく、その他大勢へと接するときのそれだった。時が経ち私たちの関係がより希薄になって、このままフェードアウトできたらいいのに。

 それから何度か偶然顔を合わせることはあったものの、軽い挨拶を交わすだけの日々が続いた。そもそも私は他の術師に比べて高専へ出向くことは無いし、七海の自宅と私の家は物理的な距離があったから街でバッタリなどということもない。七海と付き合う前の日常が戻ってきつつある。これでよかった。お互いの価値観が違ったのだ。言い聞かせるように何度も反芻する。おかしいと思うが、別れてしばらく経つのに思い出すのは七海の事ばかりだった。もう忘れたいのに忘れられない。会いたくないのにどう過ごしているのか想像してしまう。深層心理では彼に未練があるのではないかと考えないわけでは無いが、どうも違う気がする。突然何もなかった頃に戻った七海が怖い。いつか平穏に暮らせる日がくるのだろうか。

 それからまた時が経ち私達がほとんどただの同僚に戻ってしばらくした時のこと。七海から久しぶりに携帯へ連絡があった。番号を消そうか着信拒否しようか迷った挙句、仕事の連絡もあるのだからと言い訳をして残していたその名前が画面に表示されている。すぐに既読になるとまずいと思い、そのメッセージの内容だけを通知欄から見てみる。私が以前担当した任務の話だった。なるほど仕事の話かと安心して七海とのチャットルームを開く。最期のメッセージは約四カ月前の『連絡してください』だっ、それに続く内容はこうだ。

『以前アナタが担当した案件について確認したいことがあります』

 続いて少し長めの現状が記載されており、その内容に驚いた私はすぐに『何かありましたか』と短文で返信した。あれは大した仕事ではなかったはずだが、何がどうなったか現在その地に山ほど呪霊が湧いてとんでもないことになっているらしい。安物の呪符を使った覚えは無いが、誰かの悪戯か経年劣化で封印が弱まったのかもしれない。三年ほど前の話だったし報告書に記載した以外の事は私もよく覚えておらず『資料を見て欲しい』と返したのに、七海は私の職場付近のカフェを指定してきた。短時間ならまあいいかと思い、『仕事が終わったら行けそうだ』とだけ返信してそれ以上端末を見るのはやめた。間もなく定時になるが、あと少し片づけなければならないことがある。別に誰がやってもいい仕事だったが、私がやってはいけないという事も無い。それに、もう恋人同士でも何でも無いのに定時ダッシュで早々に待ち合わせ場所に行くのがなんだか少し変だと思った。

 七海から何の変哲もない業務連絡がきた時の自分の感情を言葉で表すことは難しい。二人で会うという選択をしたのはなぜだろう。ようやく私たちはもう終わったと思ってくれたんだという安堵からかもしれない。また以前のように同僚として過ごせるだろうという希望かもしれない。それとも、彼は変わってやり直せるのではないかという期待だろうか。

 月日が経って気持ちが緩んでいたのか、そのメッセージに軽い気持ちで返信してしまった事を今は後悔している。いや、違う。返事を返すだけならまだ良かった。プライベートで会ってしまったのは完全に自分に非があると言わざるを得ない。別れた時のあの態度を考えると、彼が以前と同じ気持ちで私を見ているはずは無いということなどわかっていたはずだ。いつの間にか記憶が風化していっていたのだと今更ながらに実感する。でももう遅い。来てしまった。

 今、七海が私の上に乗っかって笑ってる。果たしてこの行為に愛はあるのだろうか。