傷心に酔った私がしたことリスト。涙が枯れるまで泣きはらし、七海から貰ったプレゼントを眺めて処分した。失恋ソングを聞きまくり、一人でカラオケに行って歌いまくった。飲みに誘われれば二つ返事で着いていきベロベロになるまで酒を煽った。そんな私を見かねて誘われた合コンでは連絡先を交換して週末はデートに明け暮れた。一人で旅行に行っては限定品のボールペンを買って集めた。
そんなわけで私は、本業と副業をこなしながらスケジュールを埋めることに必死だった。一人になりたくない。それなのに、何をしていても七海の事を思い出してしまう。あの日七海が言ったことを何度も反芻しながら、旅先で見た美しい景色や美味しい料理を七海と楽しみたかったと思うのだ。それはもう自傷行為に他ならないのにやめることができない。首まで泥沼に浸かりながら周囲を見てみる。世界はきらきらと輝いて楽しみや喜びで溢れている。私の知らない人々はそれらを当然のように受け入れ過ごしているのに、私は身動きが取れずに底なし沼でもがき続ける。もうじき泥土が口元を覆い、鼻を塞いで息が出来なくなるだろう。その日を待ち望んでいる。ゆっくり死に向かう自分を見つめながら、それでもまだ、七海は今、誰とどこで何をしているのかな、などと考える。完璧な彼につけたささやかな傷を想像し、笑いながら最期を迎えたい。それは私がやったんだと、誰に聞かせるでもなく呟くのだ。
別れの挨拶をした日を境に七海は私を見つけても声をかけることは無くなった。なんの感情も持っていないような無表情で会釈されるだけだ。しつこく話しかけてきた時とガラリと変わってしまった彼の態度がまた、恐ろしかった。私は彼を傷つけてしまったのだろうか。恋愛を知らなかった彼を変えてしまったのは私なのだろうか。彼の愛情は確かに存在した。少し行き過ぎてしまう事もあったが、七海が伝え方を間違えただけだと思う。それとも、私の受け取り方がひねくれていたのかもしれない。やり直せるとしたらどうするだろう。あの時に戻ったら私は何というだろう。
――本当にこれで良かったのだろうか。
しばらく経ったある日。風の噂で七海が年下の補助監督と付き合い始めたと聞いた。私も数回任務を共にしたが可愛らしく守ってあげたくなるような女性らしい人物だ。たまに抜けはあるものの、指導には素直に従い同じ間違いは二度としない。よく気がつくいて親しみやすく、間違いなくいい人だ。良かったのだろう。これで。七海も今回は間違えないはずだ。彼女の事を大切にしてあげて欲しい。それから二人で末永く幸せになって。
――でも、どうしてか胸が痛い。
「最近浮かない顔をしていますね」
「……風邪が治りきらないだけ」
一か月ぶりに顔を出した高専で七海に会った。とても清々しい表情をしている。私とは違うその爽やかさが苦しくてまっすぐ前を向くことが出来ない。
「ご存知かもしれませんが、交際している女性がいます」
「……おめでとう」
書類を広げ署名し続ける私の隣に腰掛けた七海が言った言葉を聞き取れなかったわけでは無い。この机は四人掛けで向かいにも席があるのに、わざわざ私の隣に来て座った。そして告げられた内容は彼女ができた、だ。一体どういうつもりなのか理解しかねる。どう考えても私の反応を伺っている七海を横目でそっと見ると目が合ってしまった。途端に身体の動きが麻痺して上手く動かせなくなる。涙が流れそうだが必死にこらえ、過剰反応してはいけないと気を引き締めて再び目の前の書類に視線を戻す。たまりにたまった承認のサインを次々と済ませていく様子をじっと見られている。私の反応を確かめるように覗き込む七海の顔が不機嫌そうに歪んだ。反応が鈍い私に何か思うところがあるらしい。
「アナタはどうですか。彼氏の一人や二人いるんでしょう」
聞こえなかったで済ませるつもりは無いとでも言いたげに珍しく声を張って七海が言う。
「一人もいないし、いなくていい。もう放っておいて。彼女が待ってるんでしょ」
何人かの男とデートはしたが七海以上の者などいるはずもなく、味のない食事と感情の動かない遊びをしただけだ。笑顔で別れても次の約束はしないし、連絡先も消してしまった。七海は私の答えを聞いて小さく息を漏らしたが、笑っているのか呆れているのかわからなかった。どちらにせよもう私とは何の関係も無いのだ。それなのに七海は私を見つめ続けている。どうも熱っぽく感じて気味が悪い。舐めまわすようにじっとりと這う視線が勘違いであってほしい。
「今日、彼女を抱こうと思っています。実はまだキスさえしていない」
「そんな事、どうして私に言うの!?」
立ち去ろう向けた背中にぶつかる言葉にとどめを刺された。どうやら私の息の根を止める為にやってきたらしい。反射的に出た言葉は明らかに怒気を孕んでいて、自分から出たものとは思えなかった。私に憤る権利なんて無い。それに腹が立つ意味もわからない。
「私を想って、落ち込んでいるのかと。だから最近元気が無い。違いますか」
「そんなわけないでしょ。自惚れないで!」
血液が砂になったみたいだ。頭の中からサラサラという音が聞こえる。私は人の形を保っているだろうか。
「そうだといいなという、私の願望でしたか。残念です。これでアナタ以外も知ることになる。どんな気持ちなんでしょうね」
「私と別れてから遊んでたんでしょ。あっちへ行ってよ」
声が上ずっているのがわかる。七海の顔を見ることができない。
「あれは実験みたいなものだと言ったでしょう。恋人として抱くのはあの子が二人目になります。アナタが私の初めてで、二人目はあの子。そういうことです」
「だから何……」
得体の知れない恐怖を感じる。今更になって私をどうしたいのだ。
「ただの報告ですよ。それでは彼女を待たせていますので。お疲れ様です」
「何なの……」
手が震えている。泣くかもしれない。私が泣いたら七海は何というだろう。
「もう別れているのだからアナタには関係ない事でしょうが、聞いて欲しかったんです」
「聞かせないでよ、そんなこと……」
涙が溢れてきた。止まらない。見られたらお終いだと思うのに、見つかりたい気もする。泣いている私を慰めてくれるだろうか。それとも突き放して笑うのだろうか。
「それもそうですね。何故こんな事を言ってしまったんでしょう。反応が知りたかったんだと思います。でも想像と違いました。祝福してくれるのかと。アナタは不思議だ。ずっとわからない」
「わかる必要なんて無い。もう終わったんだから」
なんとか涙を引っ込めることに成功したものの、床にぽたぽたと落ちた雫を誤魔化すことはできない。七海の声が明るくなったのがわかる。私が泣いているのを見て喜んでいるようだ。その感情の出所を教えて欲しい。こんな私を見てなんと思っているというのだ。
「ではどうして泣いているんですか。その涙にはなんの意味があるんでしょう。何か特別な感情が私にあるのでは」
「七海がわからない……」
コツコツと足音が近づいて来た。このまま目の前のドアを開けて逃げ出すこともできる。動かない自分の足を見つめてみると、量産された安物の靴にまで水滴が落ちていた。人はどんな時に泣くのだろう。感情が高ぶった時に泣くのだと思う。七海がわからないのではない。私は自分がわからない。振った男に抱かれに行って、終わりを告げられたら傷心する。七海の言う通り自分勝手甚だしい。彼を都合よく利用しようとしている。本当に彼の事が嫌ならばすぐにでもこの場を立ち去ることができるのに、歩みを止めて会話を望んでいる。七海が何を言うのか聞きたい。私の事をどう思っているのか知りたい。
「私と同じですね。私もアナタがわからない。もっと分かり合いたかった。アナタの事を知ろうと努力したつもりが、かえって傷つけ追い詰めてしまった。でも大丈夫です。次はそんなことが無いように注意しています」
「じゃあ早く彼女のところに行きなよ」
本当は置いて行かないで欲しいと思っているのに、口からは全く別の言葉を吐きだした。もしも私がここで、行かないでと泣いたら七海は何というだろう。
「泣いているアナタを置いていけない。私が泣かせてしまったんですから」
「七海のせいで泣いてるんじゃない」
息遣いさえ聞こえそうなこの距離で振り返り、その胸に抱き着くことができたらどんな顔をするだろう。既に恋人がいる男に縋るなんて最低だとわかっているのに、置いていくことが出来ないという七海の言葉に期待してしまう。
「私が他の女のところへ行くのが嫌なんでしょう。違いますか」
「違う……」
そうだと言ったら許してくれるだろうか。あの日逃げた事を白紙に戻せるのだろうか。
「泣く理由がそれしか無い」
「なんで、今さら……。そんなわけない」
そうだと言いたい。貴方の愛を受け止め切れず、逃げた私を許して欲しい。
「ずっと悲しそうで見ていられない。いつもアナタの視線を感じる。本当は私と別れた事を後悔している。そうでしょう」
七海が一歩進んで私を後ろから抱きしめた。かつてと同じ温もりを感じる。
「嫌だ、違う、離して」
引っ込めた涙が再び溢れ、頬を伝い服を濡らす。出会った時と同じ穏やかな匂いもした。
「私が他の女のところへ行くのが嫌だと言ってください」
「は、はなれて……。うぅ……、なんで……」
七海が他の女と付き合って、キスやセックスをするなんて許せない。七海は私の事がずっと好きだと言っていた。彼の愛を独占するのは私なんだ。そんな思いがじわじわ浮かび、すぐに私の中を満たして一杯になった。私は七海との交際を後悔している。もっと良い関係を築きたかった。あんな別れ方をせずに話し合えばよかった。七海を受け入れて言うことを聞いていれば良かったのだ。束縛は彼の愛の深さと同等だ。だって七海の抱擁はこんなにも温もりに満ち溢れている。
「私の事がまだ好きだと言ってください。今更だとか、もう遅いとか、そんなことは思いません。全部わかっていますから。さあ。言って」
「私は、建人の事が、まだ好き、なのかな……」
自信なさげな声がドアにぶつかり私の元へと返ってくる。自分から出たとは思えないほどの弱々しい声だ。
「そうですよ」
「そう、だと思う?」
「間違い無い。アナタの事をずっと見てましたから」
「そうかもしれない……まだ、建人の事が、好きなのかも……」
私は七海の事がずっと好きなのだ。七海を失って以来、心の中に穴が空いたように虚しかった。そこを埋められるのは七海しかいない。どうして今まで意地を張って遠ざけてしまったのだろう。
「だから?」
「私以外の女のところへ行かないで……」
腹の底から絞るように出した言葉を聞いた七海が、私を振り返らせた。その瞬間、目の前の風景が色づき始める。殺風景な部屋だったはずなのに、そこらじゅう美しく光り輝いている。春の野のように爽やかな風が吹き湿った空気を一新させた。夏の海のようにきらめいているのは私が愛している人だ。七海とくっついた身体は秋の夜のように落ち着きを取り戻し、彼の体温は冬のベッドの中のように温かさに溢れている。得も言われぬ多幸感が脳内を駆け巡り細胞一つ一つにいきわたる。七海と別れてから過ごした世界は白黒で作られていて音も温度も消えていたのに、私の世界は再び色を取り戻した。
「わかった。愛してる。さあ、家に帰りますよ。今日はアナタの好きな物を食べましょう。明日は早く帰ってきますから待っていてください」
「建人は、私のこと、怒ってないの」
ぐずぐずしながら見上げる私の顔は涙で汚れてぐちゃぐちゃだ。それでも私を見下ろす七海の瞳は慈愛に満ちていて、濡れた頬を優しく撫でた。少しかさついた指先から感じるのは只々愛情しかなく、私の全てを受け入れてくれているのだと感じる。
「全く。でもあしらわれたり無視されたりして寂しかった。もうあんなことはしないでください。話し合いで解決しましょう」
「これで……いいのかな」
私の頭を撫でながら七海が言う。髪に指を絡ませ、つむじに口付けを落とした。少しこそばゆく感じて肩をすくめると、七海が「ふふふ」と息を漏らした。私に欠けていたのは思いやりだったのかもしれない。七海はいつも私の事を一番に考えていてくれたのに、私は自分の事ばかりを優先してしまった。
「何か間違いがありますか。私はアナタの事がずっと好きで忘れられない。別れたくなかった。でも私のせいで傷つけたのだから仕方がないと思いながらも、過去の男になりたくなくて努力しました。そうしたらアナタがまた振り向いてくれた。そうでしょう」
七海の身体がそっと離れていく。もう一度顔を見上げると、私を見て微笑んだ。ポケットからいい匂いのするハンカチを取り出し、ガラス細工の人形でも扱うような繊細な手つきで涙を優しく拭われる。メイクが落ちているだろうなと考えていると、七海の口付けが瞼に落とされた。そんなこと気にしなくていいと言われたようでじんわりと心が温もっていく。そのまま私の身なりを整え、今度は額にキスをした。ゆっくりと扉が開かれ、部屋の外へと誘導される。いつもの古びた高専の廊下に出たはずなのに、来た時とはまるで違う。陰気な空気が漂っていてお化け屋敷のようだと思っていたが、それは私のせいだったらしい。今は木洩れ日がちらつき古美術のような美しさを醸し出している。この世界は主観で出来ているのだ。自分が変われば見え方も変わる。
「振り向いて……、私が……」
「アナタも別れてから気付いたんですよね。やはり自分を一番愛してくれるのは私だということに。だから私に新しい恋人が出来たと聞いて落ち込んで、涙が出たんですよ」
腰を抱かれたまま歩みを進めると、後ろからパタパタと小さな足音が聞こえた。廊下の角を曲がったところでその音は突然止んだ。
「誰か来る……。足音が……」
若い女性の驚いた悲鳴に近い声が聞こえる。立ち止まり振り向こうとする私を制止した七海は、その場で私を強く抱きしめた。一体誰が来たというのだろう。
「私達は恋人同士なんだと皆にわからせてやらないといけませんね。もうどこにも行かせないし、誰にも手出しさせない。みんなに知らしめてやるんです」
「やめて、誰なの。だめ」
七海の腕の力が強まり、ますます身動きがとれなくなった。私の頭頂部に唇をくっつけて小声で話す。脳内へ直接響かせるかのように。
「彼女も恋人の実験だったので、本当はアナタだけですから。安心してください」
「や、離して……! 話し合うって、さっき……。誰……?」
抱き合う私達を見たせいか足音が遠ざかっていく。来た時とは違い走り去ったようだ。一体誰だったのだろう。声のトーンと足音の軽さから女性であることは間違いない。驚いたということは、私達の関係を知らない人物かもしれない。そもそも七海との関係を公にしていなかったので驚愕するのも無理はないが、それにしても先ほどの声は悲しみを孕んでいたように感じる。今の七海の口振りにも違和感が残る。もしかして、交際を始めたという補助監督かもしれない。
「前よりももっと大切にします。アナタの嫌がる事は絶対にしません。神に誓います」
私の眼を覗き込む七海の眼に嘘は無い。
「でも、私――」
「もう何も言わないで。アナタのことは全てわかってまいす。今日は休んだ方がいい。うちに帰ろう。アナタは私がいないとだめなんですから」
私の事を全てわかって、全部を愛してくれる人と出会うことができた。一生かかっても出会えない人もいることを考えると、私はとんでもなく幸運なのかもしれない。
「建人の家に、帰る……。ずっと眠れなくて、私、建人がいないと、だめなの……?」
「そうです。私がいないとだめなんです。やっとわかってくれましたか。私にはアナタが必要ですし、アナタも私が必要なんです。互いに想いあっている」
聞き分けのない子どもに言い聞かせるような落ち着いた声がしみこんでいく。そうだ。私には七海が必要だった。別れて、また繋がって、手放されて気が付いたのだ。もう二度と戻れないと思っていたのに七海は私を許すどころか最初から受け入れてくれていた。
「今週末、二人で住む家を見に行きましょう。一緒に住んだらもう会えなくて寂しいなんてことはありませんよ」
「そう……。一緒に、ずっと……うぅっ」
このまま一緒に住んで幸せな日々を送るのだ。朝は早起きしてご飯を作ってあげたい。昼はお弁当を持ち歩くのは大変だろうけれど、サンドイッチなら邪魔にならないかな。料理は七海の方が上手いから、夜はお願いしちゃおうか。七海は身体が大きいからお風呂は広い方がいい。週末は庭の手入れをしながらのんびり過ごして、夜は近所のレストランに食べに行こう。大きな犬を飼ってみたい。二人の時間が落ち着いたら子どもは二人は欲しいかな。
「嬉しくて泣いてるんですね。前よりも、もっともっと大切にします」
「これで、良かった……」
「そうです。またアナタと一緒にいられる。愛してる」
七海建人の“アイシテル”は私を縛るおまじない。もうどこにも行かないよ。あなたの愛で私を縛って。