仕事は忙しかったが定時に退社でき、爽やかな気持ちでエントランスを出たら美しい夕焼けがオフィス街に広がっていた。私の気持ちとは対照的な空を見上げ、たまには写真でも撮ってみようかとバッグの中身を確認していたとき、私に向かって誰かの影が音も無く近づいてきた。はっとして顔を上げると七海が立っていて、心臓が一瞬鼓動を止めた。途端に冷や汗が出る。どうやら待ち伏せされていたようだ。
「時計を忘れていったでしょう」
「……ああ、ありがとう」
七海が手を差し出すとそこには見覚えのある腕時計があった。考えないようにしていたのに、七海を見ると嫌でも思い出してしまう。あの日に自分がしたことを。
「まだ使ってくれていたんですね。捨てられたかと思った」
「時計が無いと時間がわからないから」
七海の手に触れないよう注意しながら時計を受け取りバッグへと仕舞う。もうこの時計は使わないでおこう。買取にでも出すか、クローゼットの奥に仕舞うか。どちらにせよ手元に置いておくべきではない。目に入る度に思い出してしまう。時間はスマートフォンがあれば十分だし、自分で時計を買ってもいい。今日の夕食はから揚げにしようと朝から鶏肉に下味をつけてきてある。野菜が無いからスーパーに寄らなければならない。海外ドラマにも飽きてきたから、今夜は最近話題の日本映画でも見ようか。全く関係ない事を考えて気を紛らわせようとしているのに、私の一挙手一投足を七海のじっとりと湿った視線が舐めまわす。なぜか犯されているような気持ちになり思わず後ずさりをした。そんな私の動きを逃すことなく頭の先から足の先までを目で追って、何か言いたげに口を動かした。言葉が出るかと思ったのに一旦飲み込んだ七海は、わざわざ眼鏡を外して再度私へと目線を向ける。緑がかった眼には熱がこもっていた。にじり寄る七海を避けるように更に後ずさるが、思うように動けず逃げ出すことができない。
「実用品を贈って良かった。次はここに、指輪を贈ります」
ついには手を取られ、左手の薬指を擦られた。全身に血液を巡らせるため心臓が鼓動を早めているのがわかる。身体は臨戦態勢を取っているのに、頭は真っ白で動けない。
「……もう付き纏わないで」
「いいですね。その調子でお願いします。もっと拒否して遠ざけて欲しい」
私の手に触れたまま恍惚とした表情を浮かべた。怯えている私を見るのが楽しいのだろう。七海が触れた指は、別の命を与えられたみたいに熱くなっている。先ほどまで身体の末端は冷たく震えていたのに、そこだけ火傷したみたいに熱い。薬指と七海の顔を交互に見ていると、気をよくしたのかすりすりと音を立てて、慈しむように指を撫で始めた。それから私の手をそっと握り着いてこいと言わんばかりに引く。簡単に振り払える程度の力だが、私は操り人形のように一歩、また一歩と歩みを進める。ついに七海の胸へとぶつかるといつもの彼の香りがして、下腹部がキュウっと収縮したのがわかった。
七海が腰を落として耳元で囁く。
「もしよければ、今日もアナタと一つになりたいのですが、どうでしょう」
返事を待たれている。ここで行かないと言えば七海は引き下がるだろうか。このまま頷けば、またあの時のように抱いて貰えるのだろうか。
畳みかけるように七海が更に言う。
「気持ちいいことをするだけだから罪の意識を感じる必要はない。利害の一致です。要は、誰でもいい」
「そう……、七海の言う通り……。身体だけ……」
この先は破滅への道かもしれない。安いラブホテルから出た時、別れた男と身体の関係を続けようとしている自分を客観的に見ると正気ではないと思えたはずだ。あの時終わったと思ったのに。もうこんなことは二度としないと誓ったはずなのに。私はまた、間違いを犯そうとしている。一度頷いてしまえば、あとは転がり落ちるだけ。足を踏み外したのではない。自らの意思で進んだのだ。
いかがわしいビル群を抜けて一本道をそれると、街並みは少し変わるがよく似た色をしていた。数々のラブホテルが並ぶ通りを元恋人に手を引かれ歩いている。どこがいいか吟味しているのか七海はなかなか入ろうとしない。どこでもいいからこんな街をうろついているところを誰にも見られたくなかった。誰かに嗤われている気がするのだ。七海を急かすとふっと溜息を吐くように笑って、すぐ隣にあるホテルへと足を向けた。目を細めわずかに口角を上げて、私に決めさせたとでも言いたげな表情をしていた。
部屋に入るなりシャワーを指示されなぜか胸が痛む。もう恋人同士ではないのだから雰囲気を出す必要はないのだろうと思うと悲しかった。仕方がない。私とは身体だけなのだから。もう愛の言葉を聞かせて機嫌を取る必要はない。そういった手順を踏まずとも目的の行為をするだけなのだ。
荷物と上着を掛けてさっさと浴室で汗を流す。何も言わずに交代で七海が入って、すぐに出てきた。下着も着けずガウンの前ははだけたままだ。どうでもいいか。どうせすぐに脱ぐのだから。ベッドに腰掛けていた私に声を掛けることなくそのまま押し倒し、身に着けていたものをすべて剥ぎ取られ丸裸になった。そこからすぐに下半身への愛撫が始まって、わかってはいるのに虚しい気持ちが湧いてくる。何も期待してはいけないし、する立場でもない。部屋に入った時から流れているヒーリングミュージックが虚しく響く。言葉なく始まった性行為を続けながら、からっぽになった心の中をのぞいてみる。本当に何もない。それなりに濡れたことを確認した七海は私を上に乗せて自分で入れさせた。今日は避妊してくれるようで、七海のペニスはいつのまにか人工の薄い皮膜で覆われていた。腰を落とすとすんなりと入っていき、奥に当たって吐息が漏れる。
「キスさせてください」
それとなく口付けを拒んでいたことに気付いたようだ。性器はとっくに繋がっている。それでもキスを許してしまえば、一線を越えてしまう気がする。愛のない行為で止めておきたい。キスは愛し合っている者同士がするものだ。
「だめ、やめて」
「私の上に乗っているくせに。自分でいいところに当てながら言う台詞ではない」
セックスの興奮材料としてするだけならば、してしまってもいいか。七海は私との口付けに何を求めているのだろう。
「ここ、いれるだけ、それだけ……! あ、いく、いきますッ、またっ……」
ただ唇同士を重ねるだけなのに、親密なもの同士しか行えないような気がしていたがそうでは無いのかもしれない。心を明け渡してもよいと思える相手に許すことだと思っていたが、それは間違いなのかもしれない。
「本当に勝手な人だ。私の気持ちはお構い無しに振る舞うアナタの事が憎いはずなのに、どうして会いたくなるんでしょう」
私が拒んだから、七海はキスをしなかった。痕を残すことも、噛みつくこともせず、ただ性欲を満たすため身体に舌を這わせお互いの性器を繋いで擦り合わせる。これは食事や睡眠と同じ、生きるために必要なことだ。だから誰としてもいい。例えそれが自分が振った相手だとしても。