あのまま流されて何度も抱かれ、私の身体は傷だらけだ。七海が噛んだり吸い付いたりしていたるところに痕を残された。彼は珍しく自分にも痕をつけて欲しいと私に肌を吸わせて、噛ませ、爪を立てさせた。もっと強くしないと残らないと言われて何度もやり直したら、七海の身体にもたくさんの痕が残った。いつか消えてしまうであろうそれを満足気に撫でながら、七海は「お揃いですね」と言って私の喉元をやわやわと食んだ。そしていかに私を大切に思っているか、最優先にしているかをこんこんと言い聞かせ、いつものように胸の中に閉じ込めたまま朝まで離してくれなかった。
私が好きなものを作ると言ってキッチンで何やら作業している七海を見ながら、私はもうこれ以上一緒にいる事は出来ないと考えていた。幾度となく同じことを繰り返し、その度に丸め込まれてきた。セックスで溶かされ、ベッドの中で抱きしめられながら甘い言葉を次々に吐き出して私を惑わせる。始めのうちは疑い深く聞いていたとしても、ふやけた頭に混ざっていくのは甘言ばかりだ。そうなるとシロップ漬けにされた私の脳はもう自分では判断できなくなる。最後には七海の言う通りかもしれない、そうに違いないと思い込んでしまうのだ。
七海は今回、痕をつけることでその独占欲を示したかったんだと思う。私にも痕をつけさせることで共犯にした。行動を監視して数々の決め事で束縛し、身体を傷つけて所有権を表す。見えない何かで縛り上げ、もう離れられないと思わせたかったのだろう。でもそれは今の私には逆効果だ。その痛みと身体に残った痕跡が目に入ると、砂糖まみれになった頭の中が洗い流されたようにクリアになっていく。私たちはこのままで駄目になる。お互いに依存している。離れなければいけないのだと気付いてしまった。
食事の片づけを終えた時、七海は出かけようと私を誘った。どちらともとれる適当な返事をしたら、不審に思ったのか私を強く抱き締めて、また「アイシテル」と言った。何度も聞いたその言葉に惑わされ、その度に決断を先送りにしてきた。七海の愛に溺れている間は夢の中にいるように心地がいい。彼にすべてをゆだねて寄り掛かっていると何も考える必要などない。でも、もう駄目なんだ。このままでは自分を見失ってしまう。
決意したのに手が震える。すんなり納得してくれるようには思えない。でも言わないと。お互いに自立すべきだ。こんな関係は間違っている。
「別れよう」
なんとか言葉を喉から絞り出し七海の胸をそっと押すと、意外にも簡単に離れていった。
「突然なんですか。意味がわからない」
「束縛がひどい。建人が怖い」
「束縛ではなく約束なんですが。何度言ってもアナタが守らないから――」
「お願い。別れて」
責めるような口調になってくる七海をじっと見つめ言葉を遮ると彼は一瞬、口を噤んだ。私の決意が伝わったのだろう。珍しく動揺している。瞳が左右に揺れ、視線を外したからだ。いつもは真っ直ぐに見つめられ、「いいですか」から始まって長々と愛を語り、朦朧としてきたところでベッドへ連れて行かれるのだ。そうして説き伏せられてきた。今日はさせない。このままの二人に明るい未来はない。
「別れません。アナタの事が好きですから」
何かを飲み込むように喉を鳴らして七海が言う。このまま簡単に別れてくれるとは思っていない。納得させることもできないと思う。それでもわかってほしいと願いを籠めて震える唇から言葉を紡いでいく。
「私の事が好きだというのなら、信じて欲しかった」
「今までの事はすみません。私の知らないアナタの存在が耐えられなかった。もう一度チャンスをください。直して欲しいと言われたところは全て直しますし――」
「何度も同じ話をしてきたけど、健人は変わらなかったよ」
「それはアナタもそうでしょう! やめて欲しいと言った事をやめてくれない」
私たちは同じことを繰り返してきた。今日から変わらなくては。鞄を手に取り玄関へと向かう。扉が目に入って、このまま本当に終わりなんだと思った。
「建人の言い分は現実的じゃない」
「あまりに一方的すぎる。こんなこと認められない」
「……今までありがとう」
玄関で靴を履き、七海の方を向いた。泣きそうな顔だ。でもその場から動こうとしない。
七海も本当はもう駄目だって、わかってたんじゃないかな。だっていつもなら腕を掴んで止めるでしょう。私はこのままどうしたいのかな。止めて欲しいわけじゃないのに、玄関を開けて一歩を踏み出せない。私がもっとうまく立ち回れたら、こんな事にはならなかったのかな。
自虐的な思考がじわじわと湧いてきた。思い直してはいけない。勢いに任せてでもこのまま飛び出すべきだ。
「うちに戻りましょう。ゆっくり落ち着いて話せばアナタも――」
「建人もわかってるはず。私達、もう続けられない」
「そんな事ない。今までだって何度もやり直してきたじゃないですか」
「さようなら」
別れの挨拶をして扉を開けるとそこにはいつもの廊下があって、私は一人で扉を閉めて歩いた。後ろから私を呼ぶ声が聞こえたが、それは一度だけだった。絶対に追いかけてくると思っていたのに、七海は来なかった。涙が溜まっている。零れ落ちそうだ。別れがつらいのかと思ったけれど、予想が外れたから悲しいんだと思う。
私は今、一人で七海のマンションのエントランスに立っている。待つ必要は無いとわかっているのにエレベーターを確認してしまった。動く気配はない。七海は今、家の中で一人、何を考えているのだろう。私は初めて一人で七海の家を後にする。もうこれで終わりだと覚悟を決めたはずなのに足が動かない。呆気なく終わってしまった七海との関係は、うまく清算できただろうか。彼は今、どんな顔をして一人の家にいるのだろう。
なんとか一歩を踏み出して外に出たら、抜けるような青空が広がっていた。私は見慣れたいつもの道を一人ぼっちで歩いている。七海と別れたらすっきりするものだと思っていたのに、想像とは全く違って霧の中を歩いているような気持ちになっている。
七海の家から駅に向かう途中、ついに目からぼろぼろと涙が零れた。それは別れの悲しみとは少し違う、不思議な感覚だった。緊張が解けて安心したせいかもしれない。それとも、追われなかった悔しさだろうか。いずれにせよ私たちは終わりを迎えた。自由を得たはずなのにどこか落ち着かない。これからどんな生活が待っているのだろう。何かが欠けてしまった気がするけれど、その傷は時間しか解決し得ないのだろう。