スマホをチェックされる

第11話

 金曜日の飲み会から連泊した私が迎えた日曜日の朝。朝食の片づけを終えた七海が思い出したかのように言った。

「携帯を出して、見せてください」

 そういえば先日よろけた時に助けてくれた同期の連絡先を消せと言われていたことを思い出す。アカウントは知っているが特にやりとりしておらず、消されたからといって不都合はない。それに彼は既婚者ではじめから個人的に連絡するつもりなどないが、それでも納得できないらしい。

「ここまで信用無いんだ……」
「何も無ければ出せるはずでしょう」
「何も無いから、どうぞご自由に」

 ロックさえかけていない私の端末を手に取り、メッセージアプリを開いて一人一人確認している。そんな七海をぼんやりと見つめながら、私たちはこれからどうなってしまうのだろうと思った。それがなぜか、いけないことを考えていると感じてしまい罪の意識に苛まれる。私は七海に何か悪い事をしているのだろうか。七海を怒らせるようなことをしているから、こんなことになっているのかもしれない。私が大人しくしていれば、七海は無駄な嫉妬をしなくてすむのではないか。

「これは誰ですか」

 とある人物のトークルームを指差して七海がたずねた。彼女の好きな俳優のオフショットをアイコンにしているせいで男性と勘違いしているのかもしれない。

「会社の後輩の女の子」
「頻繁に飲みに行ってるんですね」

 会話履歴をスクロールしながら七海は言う。確かに週末になると食事に出かけていた。帰る方向が一緒だし、彼女は美食家で紹介してくれる店にハズレは無い。お互い独身かつ一人暮らしなので気兼ねなく誘えるし、会話も気楽だった。彼女が教えてくれた店に七海を誘ったこともあったし、その時話題に出した人物なので悪い印象はないはずだ。

「そんなに長居しないよ。夕食ついでに一杯飲むだけ」
「先週うちに来るのが遅かったのは彼女のせいなんですね」
「先に約束してたから」
「私は十日以上会ってなかった。この後輩とは毎日仕事で顔を合わせているのに」
「ご飯だけ食べてすぐにその後、建人の家に行った」
「私もアナタと食事がしたかった」

 目を細め責めるような口調で七海は言う。退勤だ花金だと大いにはしゃいで食事へ繰り出した自分を思い出し、なぜかみっともなく感じてしまった。じっとりとした視線に晒され続けると、先約を優先させる私に非があるのかもしれないと考えてしまう。

「土曜日も日曜日も、ずっと一緒に居たのに……」
「私の一番はアナタです。でも、そちらは私ではない。それが納得できない」
「先の約束を優先させるでしょ」
「私は何よりもアナタを優先させてる。自分よりも。恋人なんだからそれが当然でしょう」

 恋人と会社の後輩を天秤にかけたとき、一般的にはどちらに傾くのだろう。私は数少ない友人の一人として彼女を大切に思っている。恋人との約束を先にしていたのであれば七海を優先したかもしれない。しかし先週末は会えるかどうかもわからず、連絡が来たのは彼女との食事中だった。それでも途中で切り上げてすぐに向かわなければいけないのだろうか。確かに七海は何があっても約束の時間を守る。遅れそうなときは必ず連絡があるし、先約があると断られたことはなかった。もしも七海が私を優先するために他の約束を後回しにしているとすれば、私は嬉しくもなんともない。この感覚が正常ではないとすれば、七海の言う通り、恋人を何よりも優先するのが世間では当たり前なのかもしれない。そこらじゅうにカップルや夫婦が溢れている。彼らはどこで出会い、どんな約束をして、どういった未来を描いているのだろう。私と七海の未来はどんな色をしているのだろう。

「これは」
「誰だろ……。名前もアイコンも変わっちゃうとわからない」
「男でしょう。消してください」
「誰かもわからないからいいけどさ……」

 ぽかんとしている私をよそに、七海は上から順にこれは誰だ、男か、女かと確認していった。名前を読み上げる七海の声が遠くに感じる。誰か別の人に起こっている出来事のように、傍から見つめる私の姿があった。明日の命の保証などない世界で生きる七海が不安になるのも無理はない。だって今日このまま「また明日」と別れても、七海にその明日が訪れないことだってあるのだから。私は一般社会と呪術師を掛け持ちしてはいるが、危険な仕事はほとんど回ってこないし日中の仕事の方がウエイトは高い。七海の束縛はやはり愛の証なんだと思う。彼の愛情表現なんだ。

 名前を読み上げる七海の声が止んだ。もうリストには誰もいないらしい。案外すぐに終わってしまったなと思った。そもそも友人は少ない方だ。それに大人になっても連絡を取り続ける人数は年々減っていき、会社の付き合いが多くなるのだから仕方がない。私にはもう、七海しかいないのかもしれない。

「何も無いってわかったでしょ」
「そうですね。まずは安心しました」
「もうこういうことはやめてね」
「すみません。アナタの一番になりたい。私ばかりが好きなのではないかと不安になる」
「そんなこと無い。建人が好きだよ」
「……嬉しいです」

 緊張した面持ちだった七海がはにかんで笑ったその顔を見て心からほっとした。誤解が解けた安心感だろう。これから先も七海と共に過ごしていくためには、彼そのままの気持ちを受け入れなければならない。自分を優先するか、七海を優先するか決めなければならない。私がぬくぬくと布団で眠っているときも、七海は死を覚悟して目に見えぬ巨悪に立ち向かわねばならないのだから。そうでないと、彼の隣に並ぶ資格などないだろう。

「本当に心配してるような事なんて何も無いから」

 そう。本当に何もない。

「アナタには別の仕事があるし、そこで何かあるのではと思ってしまう」
「何も無いよ。忙しくて遊んでる暇なんて無いもん」

 私にはもう、七海しかない。きっと、それでいい。愛する人から愛されるためには、自分の全てを捧げなければならない。七海が望むことをしてあげたい。そうすれば私も愛される。彼の愛を永遠に独り占めしたい。そのためには、私も永遠に彼だけのものにならなくては。そうでないと釣り合わない。私が七海と一緒にいるためには、そうするしかない。誰かそうだと言って。

 私が七海の肩に頭を乗せると、そっと肩を抱いて何か囁いた。幾度となく聞いたはずそれを、今はなぜか聞き取れない。視界が霞んでいる。頭もぼんやりして、考えがまとまらない。七海の言い分は現実的だろうか。少しずつ何かがずれ始めている気がする。私は一体、何のために生きているのだろう。七海がまた何か言っている。彼の「アイシテル」は、私を縛るおまじないのようだ。

「私の知らない世界で過ごすのはやめてほしい」

 七海の世界と私の世界。同じ場所で同じ時を過ごしているのに交わることは無い。普通の人とは違うものを写す同じ目を持っているのに、見えているものは違うのだろうか。

「仕事辞めろってこと?」
「……辞めてほしいと言ったら、辞めるんですか」

 七海の目の色がゆっくりと変わっていく。ふさぎ込んだようにうつむいていた顔を持ち上げ、私の方へと迫ってきた。有無を言わさぬ圧力を漂わせ、無言で決断を迫っている。仕事がアイデンティティではないが、私の世界を形作るものの一部であることは間違いない。それさえ失ってしまったら、私という個人は一体何者になるのだろう。

「呪術師一本でやっていけるほど実力無いから無理だよ」
「等級が低くても給料は悪くないはずです」
「……今の生活が気に入ってるの」

 仕事を辞めて七海にすべてを捧げるべきかもしれない。でもそれでは私が私でなくなってしまう。

「一人くらい養えます」
「……建人くらいになればそうだろうけどさ」

 私が生きる場所は七海のそばにしかないとしたら、今まで築いてきた居場所はどうなってしまうのだろう。

「金の事なら心配いりません」
「そんなすぐに決められないよ。今までの生活だってあるし」

 私を私たらしめるものとは一体なんだろう。人。仕事。生活。好きな本や音楽。私を構築するものはアミノ酸だけではないはずだ。最後の最期、誰しもが旅立ちの時には一人になる。しかし、その道中で誰かと共に在ってもいい。一人でいるだけでは得られない喜びや知りえない感情をもたらすからだ。でもそれは私と貴方が一つになるわけじゃない。そう思ってきたのに。七海が七海であるために私が必要なのかもしれない。自分の在り方を人に求めることが間違っているとは言い切れない。私の空っぽな部分を埋めてくれたのは七海だった。何者にもなれない私に存在意義を与えてくれた。

 結局私たち二人はこの時、はっきりした答えを出せなかった。納得いかないような返事をしていたが、私のスマートフォンをほとんど空っぽにしたことに満足したのかこれ以上の追及は無かった。朝から晩まで七海の家で過ごしたが、食事とトイレの時間以外ずっと七海は私についてまわった。私がその気になる方法をすべて心得ているらしく、幾度となく求められ、我に返った時にはお互いの体液でべとべとだ。月曜の朝にいつも通り会社に着くまで「アイシテル」を繰り返された私は、数えるほどになった連絡先を見ても疑問に思わなくなった。何度も同じことを繰り返している。その度に別れや終わりが目の前までくるのに、七海がそれを無理矢理なかったことにしてしまう。私は私で、ほとぼりが冷めれば考えるのが億劫になり問題から目を背けて心地よく楽な方へと流されていく。このままきっと、七海とずっと一緒にいるんだと思う。そう信じて疑わなくなっていた。

 それなのに、どうしてこんなことになってしまったんだろう。