第2話 七海さんとラブホテルに行こう

 久しぶりにお互い仕事が定時に終わり、有名ホテルで修業を積んだというシェフが独立して立ち上げたレストランでディナーを存分に楽しんだ。その後彼女は一杯だけお酒を飲みたいと思いカジュアルなバーに七海を誘ったが、彼は首を横に振って彼女を抱き寄せ、自分のうちに来て欲しいと耳元で囁いた。久しぶりに二人きりでゆっくりとした時を過ごしたいのだと言う。彼女は真っ赤になって小さな声で「七海の家に行きます」と返事をした。彼女はもじもじと下を向いていたので知らないが、七海は思い通りに事が運んだことが嬉しくてたまらず頬を緩めていた。

 七海が手にした少し贅沢なワインは特別な日の為にとっておいたものらしい。どうしても今日開けたくなったのだそうだ。今日は記念日では無いし本当になんでもない日なのだが、キッチンでワイングラスを用意しながら「あなたと一緒にいられる日はいつだって特別なんです」などと七海が言うものだから、彼女は再び真っ赤になってクッションに顔を突っ込み足をバタバタさせる。浮わついた台詞をわざとらしく言って彼女を悶えさせるのに七海は最近凝っていた。反応が面白いので揶揄っているのだ。

 大したものが無いと言いつつ七海が出してきたのはオリーブや生ハム、スーパーには売っていなさそうなチーズとクラッカーだった。こういうものを家に常備しているのかと彼女は感心した。自分の家には鯖缶くらいしかないし冷蔵庫に入っているのは一本百円くらいのチューハイと安い発泡酒だ。彼女はぽかんと口を開けて「すごいお洒落だね」と言って七海を見上げた。その顔には「いつものことですが何か?」と書いてあるかのようだった。

 本当は伊地知に彼女のスケジュールを聞きに行ったのだ。彼は(交際しているのだから自分で聞けばいいのでは……)という表情をしながらも彼女の直近の動きを教えてくれた。確かに本人に直接聞けばいいと言う彼の言い分(実際に声には出していないが)はわかる。しかし準備が必要だ。上等のワインもつまみも事前に買い、ワイングラスは揃いのものが無かったので新たに購入した。洗濯物を床に数日放置していたが片付け、久しぶりに掃除機をかけてベッドのシーツを交換して換気も行った。それからいつも飲むのはケース買いしている缶ビールだが野菜室の奥の方へと隠し、冷蔵庫の中の賞味期限が切れ萎びた食材達に申し訳ございませんと謝罪して処分した。代わりにお洒落なボトルのミネラルウォーターやソーダ水を用意し冷やしておく。彼女はよくココアを自販機で買っているので、甘いものを欲しがった時にさっと出せるように昨日ココアの専門店へと買いに行った。彼女を喜ばせたい。その一心で行われた七海の涙ぐましい努力を誰か知ってやってほしい。

 そんな七海の頑張りを知ってか知らずか、彼女は大層喜んでくつろいだ。風呂も終わり、酒も入って気分よくしている彼女を見てみる。先日彼女が泊まりに来た時のために購入した花柄のルームウェアが良く似合っていた。少々恥ずかしい思いをしながらも百貨店の化粧品コーナーへ行き、店員に相談して購入した女性用のスキンケア用品も用意してある。化粧を落とすと少々幼く見え、高専の頃を思い出させた。ハーブティが入ったマグカップを持ってチビチビ飲みながら彼女が言う。

「明日みんなでお泊り会することになったんだ」
「みんな、とは?」
「硝子先輩と歌姫さんと、新田ちゃんも行けるかもって言ってた」
「女子会ですか。楽しそうですね」
「でしょ? だからその日、七海は一人で寂しいと思うけどごめんね」
「別に寂しくない。私の事は放っておいてください」
「拗ねてるの?」
「拗ねてない。一人でも平気なだけです」
「ふーん」

 この男、実は拗ねている。七海は明日も早く上がれそうなので連泊して欲しいと考えていたのだ。そして今、まさにその誘いをしようと思っていた所だった。彼女に先制されてしまったが、先に誘う前で良かった。誘った後に断られたら立ち上がれなかったかもしれない。それでも七海は幸せを感じていた。その言動のすべてを愛おしく思う。彼女が飲んでいるのは安眠効果のあるカモミールのハーブティーだったが、安心して眠るのはまだ早い。その前にやらなければならない事がある。きっと彼女も同じ気持ちであると思いたい。

 身体が密着した部分から徐々に熱が広がっていき、脳内の誰かが(そろそろイケる)と七海の背中を押した。わかっている。今が好機であると。この先に進む合図を彼女も待っているはずだ。空になったマグカップが机に置かれた。そして彼女が小さく息を吐いて七海の肩にもたれ掛かる。そっと肩を抱いてやると潤んだ瞳で七海を見つめた。二人がキスを交わしお互いの気持ちを確かめ合ってしばらくした時、七海は彼女を抱きかかえて寝室へと消えた。そして扉は静かに閉まった。
 次の日、二人は幸せな気持ちで目が覚めた。昨夜のとろけるような雰囲気そのままに朝の挨拶を交わす。七海は現場へ直接行き、彼女は高専へ行ってその後女子会なのだという。その次の日は二人とも休みなのでまた一緒にいられると微笑み合い駅で別れた。




 この時七海は知らなかったのだ。

 お泊り女子会がどこで行われるのかを。

 彼女がオトナ女子達の毒牙にかかろうとしていたことを……。



***



 お泊り女子会明けの朝。七海は家で本を読みながら、今か今かと彼女の帰宅を待っていた。今日は二人でどこかに出かけたいと考えている。博物館や美術館といった場所を彼女は好むだろうか。または買い物やランチに行く方が良いか。それともこのまま家で二人、どこにも出かけず寝室で一日中愛し合って過ごすという手もある。そんなことを考えていたら玄関のドアに鍵が差し込まれる音がした。彼女が帰って来たのだとわかる。途端にうきうきと喜び始める自分を戒めながら玄関へと向かうと、そこにはピカピカと笑顔を弾ませた彼女がいた。

「ただいまー! すっごく楽しくて全然眠れなかった!」

 興奮気味に靴を脱ぐと七海へ向かって満面の笑みを向けた。相当楽しかったらしいとわかり、七海はまたこみ上げる愛おしさに胸が苦しくなった。可愛すぎるのだこの恋人は。今すぐに抱きしめたい。そんな思いをぐっと堪え平静を装って声をかける。浮かれている事を知られたくない。まるで自分ばかりが恋焦がれているようではないか。

「おかえり。私は一人寂しく深夜まで酒を飲んでいましたが、あなたが楽しそうで良かったです」

 バタバタと家の中に入ってくる彼女の後ろを着いていく。ソファにぽすんと座ったと思ったら、七海に向けてスマートフォンの画像を見せた。

「これ見て! 硝子先輩が勢いでボタン押したら買ったことになっちゃって、みんなで大笑いした! こんなものの自販機があるんだね!」

 そこには信じられないものが映っており、七海は絶句した。ピンク色の安っぽいローターと量産型のバイブだった。何か言いたいが声が出ない。そんな七海の反応を気にすることなく彼女が続ける。

「こっちはね、お風呂に滑り台があって、バスタブに薔薇がいっぱい浮いてたんだよ!」

 露天風呂に螺旋階段が付いており、無意味な滑り台が設置されたその先には大輪の薔薇が多数浮かんだ浴槽が見える。その前にはアンダーブーブが見えるきわどい水着を着た彼女が無邪気に笑いポーズをとって映っていた。これは一体誰が撮影したというのだろう。

「……あなた、この場所の意味わかってるんですか? それにこの道具、相当如何わしいものですが、一体どこで何を――」
「みんなで大きなお風呂に入ってすっごく気持ちよかった! セレブになったみたい!」

 浴槽に水着を着た女性たちが並んでカメラを見つめているセルフィーを見せられる。入浴剤が入れられているのか濃いピンク色の湯だったが、女性たちの水着姿を図らずとも見てしまい七海は目を背けた。一瞬ちらりと見えただけだが、彼女の水着が一番きわどい気がする。

「セレブはこんなところへ行かない。どこで何をしていたのか聞いています」
「あ、この水着は新田ちゃんが選んでくれたの。今度一緒に海へ行こうね!」

 いや気にするところはそこじゃないだろうと七海は突っ込みたかった。それにそんな過激な水着を着て海へ連れて行くわけがない。他人に彼女の下乳を見せたくないし、全体的に布面積が狭すぎる。これはもう家で使うしかない。狼狽える七海に構うことなく彼女は嬉しそうに更に話を続ける。

「夜はオシャレなディナーが出てきてデザートもついてるし、硝子先輩はスチームの美顔器独り占めしてた!」
「だからどこで何してた」

 顔を顰めて睨みつけてみるが彼女の視線はスマートフォンに向いたままだった。画面を指でなぞると次々と楽しそうに笑う女子達とパーティーの様子が映っている。彼女がとある動画を再生すると、外国産を思わせる色彩豊かなケーキをみんなで囲んでクラッカーを鳴らし、シャンパンの入ったグラスを掲げてキャアキャアと黄色い声を上げていた。どうやら本当に女子会のようだが、場所が場所だけに七海の心中は穏やかでない。なぜそこに行ったのだ。何のために。そしてそのオモチャ、水着。どう考えてもおかしい。一体何をしていたというのだろう。

「起きたらモーニングもあって、デパコスレンタル使ってメイクして帰ってきたの! すっごく楽しかった! また行きたいな!」
「話聞いてますか?」

 嬉し気に話す彼女とは裏腹に七海はむっつりした顔を向けた。それにようやく気付いた彼女は顔を上げてきょとんとした表情を浮かべる。

「聞いてるよ。ラブホ女子会するって言ったよね?」
「言ってないし聞いていない。それにこの玩具、誰が持って帰ったんですか」
「硝子先輩が歌姫さんの鞄に無理矢理捻じ込んで、今頃京都にあると思う。どうやって処分するんだろうね?」

 クスクスと彼女は思い出し笑いをしながら再びスマートフォンの画像をスクロールして眺める。一応、意味はわかっているらしい。それもそうか。成人女性でラブホテルもアダルトグッズも何も知らない、見たことが無いという方がおかしいかもしれない。しかし、七海と彼女はラブホテルになど行ったことは無いのにその存在と意味を詳しく知っているというのも謎だった。一体、どこで知ったのだろう。もしかして誰かと行ったことがあるのかもしれない。過去に自分ではない男と? それともこの女子会が初めてだったのだろうか。恐る恐る聞いてみる。

「ラブホって……。女同士で何をするんですか?」
「パーティーだよ。最近流行ってるって聞いて、みんなで盛り上がってその場で予約したの」

 あまりにあっけらかんと答える彼女に七海は拍子抜けした。

「何をする場所か知ってて行ったんですか? 私とは行ったことが無いのに?」
「七海とは行かなくてもお互いの家があるでしょ」

 その通りだったし、ラブホテルが何をする場所かも知っていた。当たり前か。その部分だけ避けて成人することは困難だろう。普通に生きていれば誰かに教えられて知る。それだけのことだ。七海は無理矢理自分を納得させた。それに、確かに場所には困っていない。それでも自分の恋人が自分ではない誰かとラブホテルに行ったとはしゃぎながら報告する姿を見たい者はいるだろうか。いや、いない。大体ラブホテルに行きたければ自分を誘えばいいのに。おかしい。一度は飲み込んだはずだが、七海は心の中でぶつくさ文句を言いながら彼女を見つめる。それはいつもの仏頂面だったが、彼女は何となく七海の言いたい事がわかったので少しだけ申し訳無い気持ちになった。本当に、ほんの少しだけ。だって何もやましい事はしていない。普段誰かの家や居酒屋でやる事をラブホテルで行っただけなのだから。それでも「ごめん」と一言謝ってみようかなと彼女の頭に浮かんだ時、七海が不機嫌さを隠すような甘い声を出して言う。

「私も行ってみたかった。あなたと、ラブホテルに」

 この男、完全に拗ねている。それがわかった彼女はおかしくて吹き出してしまいそうだったが何とか堪えた。二日前のデートは完璧な演出で凄くかっこよかったし、深く愛された実感があった。それが今はこの有り様だ。

「だからわざわざ行く必要無いって」
「女同士で行く必要も無い」

 間髪入れず七海が言う。なぜか責めるような視線を送られ彼女は少しむっとした。別に女同士でも男同士でも行ったっていいし、パーティーをしてもいい。

「映画見たりカラオケしたり、夜更かししてお喋りしながら騒いでも誰にも迷惑掛からないから楽しいの」
「セックスをするために行く場所です。あなた声が大きいから隣の家の人に迷惑ですし今から私と行きましょう」
「えぇー……。さっきラブホから帰ってきたところだし眠いから嫌だよ……」

 勢いよく立ち上がった七海が彼女の手を取り立ち上がらせようと試みるが、反対に手を引っ張られてソファに引きずり込まれてしまった。押し潰さないように姿勢を整えている七海の頬を彼女は両手で挟み、御機嫌取りのキスをしてみた。一応は素直に応じたもののすぐに七海の唇は離れていき、先ほど同様目を細めて言う。

「ベッドがあるから寝ることもできる」
「違う目的で使うためのベッドでしょ?」
「本来の使い方をすればいいだけです。女同士では行くくせに、どうして私とは行けないんですか?」
「だから、今そこから帰って来たんだってば……」
「もう一度行ってはいけないという決まりはない」

 最早不機嫌さを隠すことなく露わにして早口で告げる七海の姿に彼女はだんだんと呆れてきた。こちらの都合は関係ないらしい。七海がしようとしていることは女子会とは全く違うのに、何を言っても聞き分けのない駄々っ子のようだと彼女は思った。

「眠いから嫌!」
「現地で寝てください。行きますよ」

 絶対に行かないとソファの肘掛けに齧りついてみるが、七海はいとも簡単に彼女を立たせてその背中をぐいぐいと玄関まで押した。

 「もう! 押さないでよ」

 結局七海に押し負けて帰って来て十分も経たぬ間に再びラブホテルへ行くはめになるらしい。彼女はわざとゆっくり靴を履いてみる。文句を言われるかと思ったが、七海は真剣な表情で端末を操作していたので何も言わなかった。横から画面を覗き込んでみると、東京都内のラブホテルを検索しているところだった。バレたらちょっと恥ずかしいであろうところを見られているにも関わらず、七海は平然としながら言う。

「露天風呂、サウナ、岩盤浴、プール、プラネタリウム、SM。どれがいいですか。早く選んで」
「うーん。水着は昨日着たからプールはいいかな」
「ではSMですねわかりました行きましょう」
「岩盤浴! 岩盤浴にしよう!」

 彼女が玄関ドアから出て行こうとする七海を慌てて引き止めると、ピタリと制止して思い出したかのように呟く。

「あんな旧式の粗悪品ではなく、もっとマシな玩具も買った方がいい」
「……なんで詳しいの?」
「いいから早く。そのまま出られるでしょう」

 七海は彼女のバッグを奪うように取り、そのまま駐車場目掛けて歩き出す。大股でのしのし歩いていくので彼女は走りながらその後を追う。エレベーターの前でようやく追いついた時、彼女は七海に問いかけた。

「拗ねてる?」
「断じて拗ねてない。こんなことくらいで拗ねるわけがない」

 口ではそう言うものの、彼女の手をぎゅうぎゅう強く握って引っ張った。口調も身振り手振りもすべてがぷりぷりとしていてあからさまに拗ねているとわかるのに、誤魔化そうとしているらしい。彼女はその様があまりに可笑しくて、七海に見つからないようにそっと後ろを向いて口元を押え笑った。