「水曜日休みだっけ?」
ソファで本を読む七海に無理矢理もたれかかりながら風呂上がりの彼女が問う。濡れた髪をくっつけてくるので七海の肩口は濡れていた。何度も押し返したが動かないのでわざとらしく本を閉じ、深々と溜息を吐いた。この人は私が何を言っても聞かないから諦めています、という体をとっているこの男、本当はまんざらでもない。
「そうですね。呼び出されなければ、ですが」
めんどくさそうに答えているが内心(デートか?)とわくわくしている。彼の表情をよく見て欲しい。少し口角があがってきているのがわかるだろうか。
肩からずるずると七海の大腿へ頭を移動させ寝転んだ彼女が下から七海を見上げながら言う。
「何か予定ある?」
七海はにやつき始めた口元をぐっと結んだ。浮かれていることを知られてはいけない。いや、いけなくもないのだが、恥ずかしい。彼女の一挙手一投足に一喜一憂する自分を隠したい。
「誰にも起こされず昼まで寝たいなというくらいです」
「……そっか」
濡れた髪を撫でながら七海は返事をした。彼女は少し残念そうにしている。本当は予定など無い。昼まで寝たいというのは本音だが、休日であろうと会社員時代から染み付いてしまった六時起きが続いている。単純に学生の時のように、寝続ける体力というものが年々衰えてきているのかもしれないが。
「何か?」
「疲れてるんだったら、いいよ。新田ちゃん誘うから」
目を閉じたまま彼女が答えた。まずい折角のデートが流れるかもしれない。そう思った七海は「どこか行きたいんですか?」と聞いてみた。これで挽回できるだろうか。
「いちご狩りの予約してたのに友達が仕事になったって言うから、七海はどうかなって思っただけ」
ある意味デートの誘いだったが、七海が思い描いていた内容とは少々違った。キャンセルになった友人の代わりらしい。七海と行くつもりではなかったし嫌なら更に他の人物を誘うつもりでいるが、誰も予定が合いそうにないので仕方なくお前で手を打つということなのだろうか。七海の浮かれた気持ちが一気に冷めていく。
「友達の代わりに付いてこい、と」
「七海はいちご狩りに行ってみたいなって思う?」
嫌味たっぷりな返事に彼女ははっとしたのか、目を開けて申し訳なさそうな顔をした。七海は目を細め口を真っ直ぐに結んで彼女をじっと見つめている。彼女への返事をわざとらしく渋り、たっぷり数分の間をとって言う。
「行ったことは無いですが、まあ、興味が無いわけではない」
「気乗りしないなら断っていいよ」
どうやら七海は少々機嫌を損ねているらしいと彼女は気づく。誘い方がまずかったかもしれない。七海は苺なんて喜んで食べなさそうだと思ったし、きっと女子やカップルばかりで恥ずかしがるだろうと考えたから軽いジャブから始めたつもりだった。嫌かもしれないから断りやすくなるように言ったつもりが、それがきっと、気に食わないのだろう。
「行きたくないとは一言も言ってない」
「昼まで寝たいとか友達の代わりとか言ってるじゃん」
「アナタが素直に誘えばいいのに、回りくどい言い方をするから」
まるで子どものように唇を尖らせてそっぽを向いた。本をテーブルに投げ置いて腕も組んでいる。彼女はのそのそと七海の太ももから頭を起こすと背けられた顔の方へと回って深々と腰を九十度に曲げてこう言った。
「七海さんといちご狩りに行きたいから付いて来てくださいお願いします」
「いいですよ。行きましょう」
「もォー! 超めんどくさい男!」
彼女が脱力して七海に体重をかけて抱き着くと、彼は易々とその身体を抱きかかえてぎゅうぎゅうと抱きしめる。
「最初から私と一緒に行きたいと言えばよかっただけです。さっさと髪を乾かして」
途端に七海は上機嫌になり彼女の頭を犬にするようにガシガシと撫でたと思えば無理矢理立たせて、洗面所へと押し込んだ。まあこれも照れ隠しなのだろうと彼女は微笑ましい気持ちになった。本当に、面倒で可愛い恋人である。
水曜日の午前十時。予約の時間ぴったりに二人は苺農園のビニールハウスに着いた。辺り一面にほんのりと甘い香りが広がっている。写真映えするカフェも併設されており、ファミリーよりは学生グループやカップルで既にハウスの中は賑わっていた。
「もう甘い匂いがする!」
受付を済ませた彼女が駆け足で七海の元へ戻って来た。嬉しそうに目を細めにこやかに微笑む姿を見て七海の鼓動が早くなる。先日買ったというパステルカラーのスプリングコートが良く似合っている。ここは三十分食べ放題で四品種が食べ比べられるらしく、凄い人気でなかなかネット予約が取れなかったんだと彼女が七海の隣で得意げに言っていた。にこにこ笑いながらそのまま自然に腕を組まれ、七海の心臓はドキッと跳ねた。二人きりの時ならまだしも、彼女は外でもスキンシップが多い。付き合い始めて二か月程が経つが友人のような関係の方がはるかに長く、この距離感に未だに緊張してしまうのだ。彼女はどうだろうとその表情を見ると緊張感の欠片も無く頬を緩めて七海の腕を引っ張りながら進んでいく。自分は未だに慣れないのに彼女の方はそうでもないのだと思うとなんだか恥ずかしくなって俯いたまま、彼女に誘導され着いていった。
「うわあ! いい匂い」
ハウスの中は外よりもぽかぽかと暖かく、いちごの甘くて濃い匂いがいっぱいに広がっていた。嬉しすぎてその場でくるくる回って見せる彼女のあまりのはしゃぎように七海は口元を覆って笑った。こういった子どもっぽい所があるが、まあ、何をしていても可愛いのだ。どれから食べようかと七海を見上げる彼女の唇は春らしいリップが塗られていて、普段仕事の時に見るメイクと違い今日は随分と華やかだ。苺の赤よりもそのふっくらした唇の赤を貪りたい衝動に駆られるがぐっと堪える。いつの間にか組んでいた腕から彼女がいなくなっており、一番端のレーンから七海を手招きしていた。
真剣な表情で苺を吟味する彼女に七海が言う。
「ヘタの緑がみずみずしく、ツブが黄色ではなく赤く、果実が全体的に赤いのが完熟です。それから大きくて先端が平らなものが尖っているものよりも甘い」
入る前は「友人の代打で渋々着いて来た者です」という表情をしていたくせに随分下調べしているではないか。得意げな顔をして美味しい苺の見分け方を語る七海を見上げて、彼女は愛おしい気持ちが込み上げてきた。素直じゃないくせに、なんて可愛らしい恋人なんだろう、と。
「ねえ、七海って、実はいちご狩りすっごく楽しみだった?」
「楽しみでなかったといえば噓になる」
眼鏡を上げるふりをして大きな手で顔を覆い隠す七海を見て彼女は声を上げて笑った。
「素直じゃないのって、どっちだろうね」
「さっさと食べますよ三十分しかないんですからはいこれ食べごろです」
やけに早口の七海が苺を摘み取って彼女のカップへと入れた。大きな身体を折って真剣に選ぶ七海のその頬は真っ赤に染まっている。
本当は楽しみで仕方が無かったのだ。前日に美味しい苺の見分け方と品種による違いを果物屋に聞きに行ったし、先日買った服を着てくるだろうと予想して七海も春服を新たに買い揃えた。車内で喉が渇いただのお腹が空いただの言いだしても困らないように車には彼女のが好みそうな飲料や菓子も用意してある。彼女は苺の後はノープランのようだったが、近隣に国営の自然公園があるのでそこへ行かないかと誘うつもりだ。今ならネモフィラが満開でとても美しい光景が見られるだろう。
「楽しいね」
彼女の笑顔が自分へと向けられる度、初めて恋を知ったまだ幼かった青春の日々の記憶が蘇ってくる。あの時は彼女から目を背けて相槌を打つのが精いっぱいだった。今はどうだろう。
「そうですね。アナタといて楽しくないと思ったことは一度もありません」
さすがにすぐさまそっぽを向くことは無くなったが、口から突いて出る言葉はあの時考えていた事と大差ない。まあ何か言えるようになっただけマシだと思うことにする。
「素直に楽しいって言ってくれてもいいのに」
彼女が口を尖らせて拗ねている。気分を害してしまったかもしれないと七海は焦った。横顔を恐々見てみると、少し寂しそうな顔をしていた。やりすぎたと七海は更に焦る。
「実は、今日が楽しみすぎて昨夜よく眠れていない。眠いです。食べ終わったらどこかで少し休憩しましょう」
「それってほんとに休憩?」
楽しみだという本心を伝えることはできたが、勢いで口走った内容があまりに欲望に塗れていて七海は脳内で再び頭を抱えて首を振る。そうじゃないのに言ってしまう。自分の照れ隠しで傷つけたくないのに全く彼女の言う通り、素直でないのはどちらの方だろう。
「本当の本当に休憩です。看板にもそう書いてある」
「どうだか……」
納得いかないという表情で彼女は次の苺を選び始めた。真っ赤に熟した果実を手にとってハサミで切り落す。よく見ると彼女の爪の色は普段と違い、ピンク色に塗られて煌めいていた。控えめなカラーだが今日の為に施されたものだとわかって七海は嬉しかった。彼女もまた、今日の日を楽しみにしていたのだ。
「この後も忙しいんですからさっさと食べてほら次これどうぞ」
七海が摘み取った苺を彼女の口元へと運ぶ。
「自分で選ぶのが面白いんじゃないの」
ぼやきながらも口を開け、先端に齧りつくと果汁が唇を濡らした。健康的な薄紅色の舌の先が唇を舐めとる様を見て七海は生唾を飲んだ。半分になった苺を七海が自分の口へと放り込む。甘酸っぱくて爽やかな芳香が鼻に抜けていく。まるで初恋の味のようだ。七海はそう思ったと同時に自分の思考がとてつもなく恋の熱に浮かされているとわかって悶絶した。彼女に惹かれたあの日からずっと今日まで変わらずある己の気持ちをなぞってみる。なんともむず痒い。七海は彼女にずっと長い間恋をしている。交際が始まってもその時の気持ちを引きずったまま、恋人同士に切り替えることが出来ないでいた。
「私の分はアナタが選んでください。どちらの苺がより良いものか勝負です」
「なんなの、もう!」
彼女はどうだろう。口をもぐもぐさせながら次の苺を選別していてその表情からはあまり何も考えていなさそうに見えるが……。いや違う。彼女の顔も頬も真っ赤に染まっていた。照れているのだとわかって七海は安堵した。彼女もまた、七海にずっと恋をしているのだから。二人は学生時代のあの日の気持ちを持ち越したまま素直になれず、大人になってもモタモタしている。それでも気持ちが通じ合った時からは確実に前進しているのだ。ゆっくり、二人のペースで。
「ほら、どっちが甘いですか。私にも食べさせて」
選別が終わってとっておきを彼女が七海の口元へと運ぶ。七海が今まで食べた苺の中で一番甘く、良い香りがした。七海の齧った残りをもぐもぐ食べながら彼女はウンウン唸っている。
「七海の方が、甘い、かな」
悩んだ彼女は悔しそうに七海に軍配を上げた。苺は先端へ行くほど甘い。彼女は知っているだろうか。
時刻は十時半。
こんなに苺を食べたのだしランチは適当でもいいだろう。
二人で休んだ後で見る、夕方のネモフィラも綺麗に違いない。
それからどこかで夕食を食べて、今日も自分の家に彼女を連れて帰る算段をしながら七海は車を高速道路沿いに向かって走らせた。