第6話

「うわぁ、指がちぎれなくて良かったですねぇ」
「派手に切りましたねー」

 呑気な後輩の声が初療室の一番端から聞こえてくる。土木作業中に手を滑らせたそうで、右手人差し指の付け根に刃物が当たりざっくりと切れている。幸い神経は無事なようだ。若手の外科医と一年目の看護師が縫合をしながら話している声が聞こえてきた。あの先生、ちょっと雑なんだよなあ。それに後輩よ、清潔不潔の区別はできているか。「痛そぉですねぇ」じゃない。明日の外科の外来予約はとって、創部の保護についてきちんと説明して。それと、そのおじさんについている呪いとは絶対に目を合わせないように注意して。その人多分相当悪いことしてる。怨念パワーが凄い。

「食道静脈瘤からかなり出血してますね。お酒の飲み過ぎですよー」

 指がちぎれそうな男の隣の部屋では、消化器内科医がポータブル内視鏡を操作しながら何が呟いていた。鎮静剤が相当効いているようで、患者本人に説明しても聞こえていないのに。でもその患者に憑いてる呪いはしっかりうなずいていた。ブツブツと恨み言を言いながら。

「ご主人は! もう! 亡くなってます!!」

 絶え間なく心肺蘇生を繰り返すが蘇生しない超高齢者の妻に大声で説明するも高度の難聴で全く通じず、ER中に医師の声が響き渡る。補聴器を忘れないで欲しいが、先生もそんなに大きな声で死んでいることを何度も言わないでほしい。看護師と救急隊員が交互に胸骨圧迫をする隣で、医師がコピー用紙に乱雑な字で夫の死亡を伝えると、妻は首を横に振り泣き崩れた。いつまで心マを繰り返すのだろう。肋骨は既にボキボキに折れている。これ以上彼の身体を傷つけたくない。ほら見てよ。子どもみたいな呪いの集合体も泣き始めたじゃない。

 今日は救急が派手に盛り上がり、セットで現れた呪霊もてんこ盛りで大忙しだった。患者対応も大変だったが、呪霊が視界にちらついて鬱陶しい。もともと病院は集まりやすい場所のようだが、今日みたいにはっきり視認できて尚且つ何かを訴えかけてくるタイプが多いと正直、かなり疲れる。いつもはただそこにいるだけなので害は無いに等しいのに、我々の言動に反応を示すタイプがいると途端に緊張感が増す。私に祓える力があればいいのだが、羽虫を振り払うかのごとく避けることしかできない。呪力の無い人間からは見えないことだけは良かった。そこらじゅうにウヨウヨいたけれど、私以外の誰も気がついていなかったから。

 コーヒーを飲むだけの休憩に入り、やっと座れると一息つく。限られた時間を有効に活用するため、チョコレートを三個、ポイポイと口へ放り込みスマートフォンの電源スイッチを押すと、友人のグループチャットが合コンで盛り上がっていた。非常に気になるが今は無視だ。SMSで七海に連絡をいれよう。この辺りは彼の担当のエリアらしく、当院で起きたことは直接連絡するよう言われている。メッセージを入れてコーヒーを飲み、一息ついても返信は無かった。今のところ大事になっていないので別にいい。後で確認してくれさえすれば。休憩室から出ると後輩が入院患者を病棟へ搬送するところへ出くわした。トイレに行く際に転倒し、右大腿骨頚部骨折のため明日オペ予定の高齢男性だ。きっと彼は自分の状況を理解できていない。しきりに大腿部の固定装具を外そうとしている。幼虫みたいな呪いも一緒に入院するようだ。アレの分は入院コストに含まれるのか。後で事務に確認しなければ。なんてね。

 ここは生と死がいつも隣り合わせ。入院生活も患者にとって楽しいものとは言いがたい。病気で弱った心と身体からは陰気なエネルギーが出るのだろう。もちろん産科で新しく産まれる命もあるが、圧倒的に死に近い人々の方が多かった。そんな場所に呪いが発生したり、集まったりすることは正しいことのようにさえ思える。ただ最近は異様に数が増えていて、あっちもこっちもドロドロぐちゃぐちゃの呪いだらけ。自分一人では対応しきれないと感じている。今日なんて、働き始めて以来の大盛況だった。個々がなにかする訳ではなくただそこに在るだけだとか、何か言うだけだとか、一つ一つは大したことは無いのだが、とにかく数が多すぎる。何もしてこなくても、そこに呪いが居るというだけで集中できない。先輩から「お前たまにポンコツになるよな」と言われるが、耳元で叫び続けられたり、目の前でウロウロされると仕事にならないのだ。やっぱり自分に祓う力があればよかった。でも七海曰く、私程度では無理らしい。まあ、悔しいが言う通りだと思う。このままやり過ごすしかないだろう。視える私がこの仕事を選んだことは、失敗だったかもしれない。

 夜勤からの長い長い残業を終え、吐血した患者から飛んできた血液が付いたペラペラのスクラブを洗濯袋に突っ込んだ。呪いから出た残穢もべったりだ。不思議と洗濯から返ってきた服には、呪いの痕跡が残っていない。呪いも洗濯洗剤には弱いのだろうか。そう考えるとなんだか可愛げがあるな、なんてくだらないことを考えながら従業員専用の出入り口の扉を開けた。また救急車がサイレンを鳴らしながら病院へ入ってきた。運転手一人しか前に乗っていないので、重傷者だろう。外に出ると太陽がまぶしい。もうすぐ昼食の時間になりそうだった。お腹が空いたし、喉もかわいた。

「七海さん、コレ」
「蠅頭」

 げんなりした表情で頭の上を指さすと、七海が眉間の皺を深くして一言呟いた。夜が明けたあたりから私の頭上に居座っている、羽の生えたネズミのような呪い。振り落とそうとしたり引っ張ってみたり試みたけれど、がっちりくっついて離れようとしない。夜勤が始まってすぐに来た熱傷患者に憑いていた呪いとうっかり数秒間見つめあった結果、気に入られてしまったのだ。そこから仕事を共にしている。よく見ると、可愛いかもしれない。

「くっついてきて離れないんです。触ると生あたたかくて、ヌメッとしてる……」
「祓いましょう」

 面倒事を持ち込むなと言いたげな七海の視線が若干痛い。いやでもこれは、不可抗力。他のスタッフに憑かなかっただけマシだと思って欲しい。七海の圧に気付いた蠅頭は消されることを察したのか、子犬みたいな鳴き声を出して私にすり寄ってくる。ぬるくて、ぬめぬめ。なんだか産まれたての赤ちゃんみたい……。

「夜勤中ずっと一緒で、なんだか愛着湧いちゃって。飼っちゃだめですか」
「いいわけないでしょう。じっとしてください」
「ちゃんとお世話するから! 散歩にも連れて行くしエサもあげます!」
「馬鹿なこと言ってないでこっちへ来て」

 私が逃げようとポーズをとると、七海はやれやれ顔で距離を詰めてくる。渋々頭を七海の方へ差し出すと、深々と溜息を吐いた。それから指を弾くと、蠅頭は「フミャ……」と小さな声を出して消えた。なんだか可哀想なことをした気になってしまう。

「呪いってデコピンで祓えるんですね」
「貴女には無理です」

 軽くなった自分の頭を触ってみると、もう温もりもヌメリも無くなっていた。ボサボサの髪にヘアゴムの痕がついていることを今更恥ずかしく思う。夜勤の日はすっぴんだし、帰って寝るだけだからゆるいパンツとだるだるのTシャツだ。目の下の隈もすごいだろうし、足もむくんでいる。それに比べて七海はどうだろう。こっそりと七海を見てみる。いつも通りきっちりスーツを着ている。けれど、今日はなんだか、いつもみたいなピリッとした空気が無い。変なサングラスの下の目はよく見えないが、なんだかぼんやりしているみたい。元気がない人を元気づけるにはどうしたらいいだろう。そうだ。美味しいものを食べればいいんだ。今からご飯行きましょうと私が言い終わったと同時に七海は言う。

「勘弁してください。ここ三日まともに寝てないんです」

 腕時計を見て、盛大に溜息を吐き、お疲れ様ですと言って踵を返す。いやいやちょっと待って。夜勤明け残業後とは思えぬ速さで七海の前へと回り込み、腕を広げて制止する。無視して脇をすり抜ける七海をさらに追い越して、また前で出てみる。それでも表情を変えず避けようとするから、ストップと言いながら彼の胸を押すと、さすがとでも言うべきか結構な重量感というか反発力というか、ボリュームのある肉体を感じて感動した。

「私も夜勤と残業続きで寝てません。人のお金で美味しいもの食べないと生きていけない! それに、七海さんが連れて行ってくれるお店はハズレが無くってみんなにも評判いいんですよ。行きましょう」
「はあ。奢るとは言ってませんが」
「そうは言っても、奢ってくれるのが七海さんですよね。さすがモテる男は違う。美味しいお店も知ってるし気遣いもさり気ない。顔もカッコイイしマッチョだし最高ですよね!」
「わざとらしく褒めても今日は奢りませんよ」
「まあそう言わずに!」

 七海との付き合いが始まってなんとなく押しに弱いんだろうなと思っていたけれど、私の読み通りだったようだ。無理矢理背中を押して歩かせれば、もう行かないとは言わなくなった。仕方なく行きます感を醸し出しながらも、大人しく私に押されてくれている。胃に優しいものが食べたいと呟いてみたら、豆腐と湯葉の美味しい店があるという。渋すぎる選択だけど、連勤で疲れ切った身体には悪くない。お互いに緊張がほぐれたところで、もう少し探りをいれてみる。

「まさかの豆腐チョイスが老年期って感じですけど、七海さんっておいくつですか」
「二十七です」
「えー! 嘘でしょ!? 三十八くらいかと思ってた! 同い年? 本当に?」
「……今日は帰りましょう」

 もともとあまり良くない目つきを皿に鋭くした七海がピタリと歩みを止める。先ほどまで軽々押せたのに、今はびくともしない。思ったままの言葉が頭から直接口に出てきてしまったが、それほど驚いたということにしてほしい。どう見ても三十代後半だと思っていた。呪術師という職業は大変忙しいと聞く。なんだかいつも疲れているし、眉間に皺が寄っているし、二十代男性が着る服の生地じゃないし、変なメガネだし、そのせいで実年齢より上に見えてしまうに違いない。

「いやいやちょっと! 正直者なんです私。裏表が無いから悪気は無くって。七海さんってすごい落ち着いてて大人の男性って感じだったから」
「正直者とか裏表が無いとか、自分で言う人間の胡散臭さご存知ですか?」

 今日だけでも一生分、七海の溜息を聞いた。まあ口では帰るとか言いながらも、結局再び私に押されて車のドアロックを解除してくれている。勝手知ったる七海の車。さっと素早く助手席に乗ってシートベルトを締める。ここは勢いで押し切るしかない。

「知らなーい。でも同い年ならタメ口ワリカンでいいよ。じゃ、車出して! レッツゴー!」 
「その図々しさは最早才能ですね」

 疲れ切った肌に刺さる太陽光。重くて仕方がない身体。呆れたように笑う七海の横顔。呪いが視えることに初めて感謝の気持ちを抱いたかもしれない。