第5話

 今日のERは比較的穏やかだった。いつもはひっきりなしに鳴る救急搬送用のPHSも静かだし、ベッドで苦しむ患者もいない。こんな夜があってもいいだろう。皆それぞれ抱えている仕事に取り組んでいた。私もそろそろ新卒向けの学習会資料の作成をしなくてはならないと思い、パソコンを開いたその時――。

「先輩、今日は落ち着いてますね」
「あーっ! それ言っちゃダメなやつ!」

 次の瞬間、救急隊直通ラインが鳴り響く。ほら、言わんこっちゃない。六十代男性、昨日から腰痛があり、突然の強い背部痛が出現、救急車内収容後から意識レベル低下と血圧低下。状態はかなり悪そうだ。大動脈解離だろうか。五分で入るらしい。一気に慌ただしくなり緊張が走る。心臓血管外科との連携を。すぐオペかステント留置になるだろう。この仕事は面白い。身体中の神経が敏感になり、少しの変化も逃すまいと目を光らせる。チームワークが大切だ。みんなで協力し診断と治療にあたる。忙しさは苦ではない。命を取り留めた患者が元気になって退院する姿は励みになる。

 ただ、最近何かが物足りなかった。

 救急車が入ってくる。ストレッチャーに乗っている男性が降りてきた。車内で心肺停止状態に陥り、救急隊員によって蘇生処置を施されながら。妻は泣き叫び、混乱している。そのまま初療室へ入室。一気にスタッフが集まり処置が開始された。診断はやはり急性大動脈解離。血圧は戻らず心電図は胸骨圧迫による電気信号を捉えていた。モニターチェック。有効な心拍は確認できない。――ああ、これはもう、助からない。

 救命医より患者家族に説明されている間、どこか遠くで起こった話のように聞いていた。人は死ぬ。こんなにもあっけなく。そして呪いになる。何かを残して死ぬことは罪なのか。この男は呪われていた。でも呪いのせいで死んだわけじゃない。病気によるものだ。運が悪かったのか、運命だったのか。今となっては誰にもわからなかった。ただ人の逝く先は一つ。産まれたその先には、誰にでも平等に死が訪れる。

 死後の処置を終え休憩へ入った。誰もいないその部屋は何かの資料や本、お菓子がバラバラと置かれている。先程の慌ただしさとはうってかわって静まり返っていた。呪いが関与していたため七海に連絡を入れなくてはならない。大動脈解離の患者を救命できないのは珍しいことではないが、呪いのせいで後味の悪い事例だった。呪いに気づいたものの為す術なく、心肺蘇生を行うことだけで精一杯だった。あんなものさえ居なければ、こんなことを報告しなくてもよかったのに。事の顛末を簡潔にSMSで送信すると、七海から短文で返信があった。

『一時間程度で到着します』

 呪術師はいつ眠っているのだろう。

 男性についていた呪いは妻にうつっているようだった。こういったことはあまり経験がない。亡くなった男性の妻は待合で悲しみに暮れながらも事務手続きをしている。二人の息子も到着し、ERの外には重苦しい空気が流れていた。この家族自体が呪われているのだろうか。青白い顔をした妻を見て、私も死んだらあんな風に悲しんでくれる人がいるものかと自分の心配をした。

 ちょうど勤務時間が終わり勤怠チェックをしたときに七海の到着を知らせるメッセージが入る。まもなく葬儀屋に引き取られようとしているところで、寝台車が病院に横付けされていた。現状を七海に報告する。どこで見ているのかわからないが、既に七海のほうで呪いを確認しているということだった。病院の守秘義務に反するが、知りえた情報を伝えなければならない。着替えを済ませて駐車場に出ると葬儀屋の車は既に出ており、七海の車が止まっていた。内側から助手席のドアが開く。

「乗ってください」
「お疲れ様です」
「現状報告を」

 状況を掻い摘んで説明した。結局あの呪いが何だったのかはわからない。七海は私の報告を聞くことはするが、それについての解釈やその後の処理についてはいつも何も言わなかった。私がわかるのは確かに呪われていはいたが、彼は病気によって亡くなったということだけだった。呪いが病気を引き起こしたのか、もともとそういう運命だったのかは教えてくれなかった。七海にもわからないのかもしれない。

 しばらく無言の車内。音楽でもかけてくれればいいのに、と思う。七海の横顔を見るが、目元はサングラスで隠れており、口元からもその心情を推し量ることはできない。

「……七海さんって、絶対彼女いないですよね」

 タブレット端末に何かを打ち込んでいた七海の手が止まり、一瞬空気が凍る。その後小さなため息をついた。唐突に口を開いたと思えば何を言い出すのだろうかと呆れているのだろう。そして、おまえの態度が気に入らないとでも言いたげに、口をへの字に曲げる。

「何ですか、その決めつけ。失礼ですよ」
「いるんですか、いないんですか」
「答える必要がない」
「アハハ! お互いさびしいもんですね」

 何が面白いのか理解出来ないと、七海は大きなため息をつく。さらにケラケラと笑うので七海の眉間の皺はますます深くなった。

「別に。それにいないとは言ってない」
「私、今のところ辞めるんです」
「話が全く噛み合わない」

 突拍子もないことを言い出したとでも言いたげに、七海は更に視線を尖らせて私を睨みつけた。神妙な面持ちで見つめ返してみる。本気ですよと言ったら、「また馬鹿なことを」とだけ言って、また視線をタブレット端末に戻した。またってなんですか、またって。

「高専で雇ってもらえませんか? 何でもします」
「無理です。自分の使命を全うしてください」
「ちぇーっ。嘘です。辞めません。私はこの仕事しか知らないから」

 わざとらしくそっぽを向いてみる。まあ、冗談ではある。けれど、今日みたいなことがあった日は、ちょっと、そんなことも考えてしまう。医療職としても呪いを視認する者としても、自分の無力さを感じてしまうからだ。少し乱れた呼吸を整えようと深呼吸をしてみる。鼻と目の中間あたりがツーンと痛くなってくる。

「七海さん」
「はい」
「毎日病院では人が死にまくってますけど、わたしそれに慣れてますけど……、何も感じて無いわけじゃないんです」
「誰だってそうです」

「今日は、ちょっと落ち込みました。なんで呪いなんかあるんだろう」

 なぜ呪いがあるのか。なぜ視えるのか。なぜ人は死ぬのか。

 立場は違えど生き死にを分ける現場で働く同士として、お互いの心の傷を理解できそうな気がする。七海も私みたいな気持ちになることもあるのだろうか。尤も、彼は私に理解して欲しいなんて思っていないかもしれないけれど。いつもの大きなため息が聞こえないから、きっと戸惑っているのだろうと思う。困らせようと思ったわけではないのに、こんな風に気持ちを吐露してしまうと、堰を切って溢れそうになる。落ち着けと心の中で繰り返し、くだらないことを考えてみる。気持ちを切り替えて。また明日も血にまみれて働かなければならないのだから。

 慰めの言葉をかけるべきだろうかと七海が思案していると、なんと彼女は含み笑いをしていた。人が心配しているのに全く呑気なものだと、七海はむっとして睨みつけた。そんな七海なんてお構い無しに、彼女は七海の方へ顔を向けると口角を上げてニヤリと笑った。

「元気になるために、何か美味しいものおごってください!」

 真面目に話していると思えばふざけるし、悪乗りしたと思えば泣きそうな顔をする。全くついていけないと、七海はわざとらしいため息をついてみせた。そんな七海を意に介してない様子で鼻歌を歌いながら、スマートフォンで朝から呑める店を検索している。夜勤明けのビールは最高だと言う。七海はわざわざ自宅に車を置いて、その誘いに乗ってやる事にした。たまには朝から呑んで、どこか捉えきれないこの女と羽目を外すもの悪くないだろう。