今日も当院の救急集中治療科は忙しい。昨日も忙しかった。一昨日も。その前も。この辺り一帯の行き場のない救急車を応需するため、今日も使命感を持って仕事にあたる。私はこの仕事以外知らないし、当面はこれでやっていくしかない。さて、今日も何台の救急車が回ってくるか。どんな患者が来るのか。勤務時間内は自分の持てる力でやれることをやる。それが私の仕事だ。
都内の奥地にある某野戦病院で、今夜も彼女は働いている。基本的に断るということはしない。どんな患者であっても受け入れる。その後のことは治療しながら考える。そんな病院だ。病院の夜は眠らない。特にここではひっきりなしに救急車が入るし、歩いてくる者もいれば、呪われている者もいる。以前からたまに呪いにやられた人が受診する事もあったが、遠巻きに見ていただけだった。呪いはろくでもないものだから、目を合わせると何をされるかわかったものではない。だから彼女は意図的に避けてきた。七海と出会うまでは。あの日以降呪いの何たるかを知り、攻撃されることはなくなったし、無意味に絡まれることも無くなった。呪力の流れをセーブする。そうすることで呪いにきづかれなくなった。彼女には呪いを祓うほどの力は無かったが、呪いは見えるし攻撃をやり過ごすこともできる。
今日はそれが仇となる。端的に言うと油断した。呪われたのだ。
今から一時間ほど前になる。受付から吐き気を訴えている若い女の直接来院患者がいると連絡が入った。そのまま受診の流れだったがERに入るまでの道中で嘔吐してしまい、彼女が車椅子を押して迎えに行くはめになった。現場に着いた時、吐いたことでスッキリしたのか血色の良い二十代の女と、吐物と、呪いがそこにあった。なんだか弱そうだな、と一瞥して彼女は思った。その呪霊は煙をまとった魚のような出で立ちで患者のそばに浮かびぼーっと遠くを見ているようだった。何かしてくる様子は無い。
「立てますか」
吐物処理セットで清掃しながら患者にたずねると、力なく小さく頷いた。吐物に血液の混入はない。食物残渣と胃液が混じったものだった。胃腸炎ですね、お薬出しときますのパターンだろう。また吐かれては困るので袋を渡し車椅子でERへ搬送する。道中何度か吐きそうであったが、嘔吐には至らず空えづきだった。バイタルサイン異常なし。眼瞼結膜もピンク色、黄疸もなく腹痛もない。しばらく待てそうだ。そして呪いはただゆらゆらと揺蕩うだけで何も仕掛けてくるわけではなく、様子を見ながら診察を待ってもらうことにした。
「呼ばれるまでこちらでお持ちください」
患者を車椅子に座らせたまま、立ち去ろうと後ろを向くと煙の呪霊が眼前にいた。少し驚いたが、気付いていない振りをしてそのまま進むのがベストだろう。下手に避けると見えていることがバレてしまう。ぶつかるもやむ無し。そのまま彼女は煙の中を進んだ。生あたたかい空気が顔にまとわりつく。酷く不快だ。腐敗臭のような、排水溝のような、得も言われぬ臭いがする。思わず手で払い除けてしまった。気づかれただろうか。吸い込みたくないので息を止め、速足で進む。煙の中を通り抜けたころ、ゆっくり呼吸を再開した。だめだ、まだ臭う。決して振り返ってはいけない。少しずつ早まる鼓動を感じながら、それでもなんでもないように振る舞う。いつもみたいに。ここをやり過ごして、高専に連絡を入れよう。
ERの中は夜でも明るい。いつものメンバー達を見てほっとした。
そこで意識が途切れた。
規則的なモニター音。身体の重だるさ。目を開けて見えたものは明るい蛍光灯と白い天井。周囲を見渡すと心電図モニターと生理食塩水のメインルート。まさか、自分の職場で倒れてベッドに寝ることになるとは。喉が詰まる。あの呪いの煙を吸い込んだのだろうか。どうやら久しぶりにやられたらしい。首に呪いの残穢がまとわりついている。とにかく高専に連絡を入れたかったが声が出ない。そばにいた後輩に手招きするがこちらを見ていない。仕方なくモニターのケーブルを一本外しアラーム音を出す。
「あ、先輩目が覚めましたか」
彼女は頷き、なにか書くものを残すようにジェスチャーする。筆談用のタブレット端末を持ってこられ『スマホ持ってきて』と書いた。
「誰かに連絡しますか? びっくりしましたよ。検査はあんまりパッとしなくて、迷走神経反射じゃないかって話です。でもなんで声が出ないんだろ?」
いいから早くしてくれと、手で払う仕草をすると「わかりましたって」と笑いながらスタッフルームに行った。人が呪われているというのに呑気なものだ。戻ってきた後輩から端末を受け取ると高専に連絡しようと電話帳アプリを起動してはっとした。声が出ないのだった。出たとしても、ベッドの上で呪いがどうとか言っていると頭の検査までされそうだ。SMSで連絡をとるしかない。唯一高専関係者で携帯番号のわかる七海へメッセージを送る。
『呪いにやられて声が出なくなったので高専に連絡して欲しいです』
『現状報告を』
『煙でできた魚みたいな呪霊がいて、気がついたら倒れちゃって今自分の病院のベッドで寝てます(笑)声が出ない以外は不都合ないです』
『一時間以内に行きます。呪霊はどこにいますか』
『わからないです。患者にくっついてきたけど、ここからじゃその人がいるか見えない。探しておきます』
『私が行くまで動かないように』
『了解です』
もう起き上がれそうなものだが仕方ない。下手に動いて呪霊が逃げても厄介だと思い、七海の到着を待つことにした。
約一時間後、突然何事もなかったかのように喉のつかえが消え、声が出るようになった。七海がどこかで呪霊を祓ったのかもしれない。私は一過性の意識障害と構音障害で脳の虚血を疑われたものの、特に検査結果に異常はなく経過観察となった。一瞬入院させられそうになったが、自分が働く病院で入院なんて絶対にしたくない。なんとか断って後日外来受診することを約束し、今日のところは早退となった。
「ごめんね、途中で抜けちゃって」
「いーんスよ! 先輩ちょっと働きすぎなんじゃないですか?」
いつもは頼りない後輩が、なんだか頼もしくみえる。このERの明るい雰囲気が好きだ。どんなに忙しくても助け合い、支え合える仲間がいる。私が一礼すると、皆が手を振ってくれた。
更衣室で着替えていると七海から着信があった。早退することになったと伝えると、自宅まで送ってくれるという。待っていてくれたのだと思うとなんだか急にほっとして、また倒れそうになる。いけない。倒れるなら自宅のベッドで。もう患者になるのはこりごりだ。重い足を引きずって病院の外へ出ると、七海の青い車が止まっていた。
「身体は大丈夫なんですか」
「一通り調べられたけど、特に異常はなかったです」
「今度から呪霊に遭遇したらすぐに私に連絡してください。自分でなんとかしようと思わないように」
七海のわずかに苛立ちを含んだ声を聞いて、申し訳ないことをしたと落ち込んだ。己の力量を見誤り、この程度ならなんとかなりそうだと思ってしまった。しょんぼりと項垂れていると、七海は助手席のドアを開け、乗るように促した。綺麗に保たれた車内は爽やかで清潔感のある香りがする。座り心地の良い艶々のシート。――絶対高い、この車。
「私も七海さんみたいにバシュっとやりたいと思ってしまって」
「する必要ありませんし、そもそもあなた程度では無理です」
「困ってる人を助けたいんです」
「嘘でしょう貴女。病院で十分助けてるじゃないですか。そのままここで続けてください。素晴らしい仕事だ」
「どうしてもダメ?」
「遊びじゃないですから。前にも言いましたが、スリルを求めるのはやめるように。命の危険もあるので、本当に大人しくしててください」
「はあ。仕方ないですね」
わざとらしく拗ねたような声を出しながらカーナビへ勝手に住所を入力してやる。我が物顔で人のものを操作する姿をみて、七海はため息をついた。
「七海さん、幸せが逃げますよ」
私が薄ら笑いを浮かべていたら、そろそろ見慣れてきた呆れ顔をして目を瞑り、それ以上何も言わなかった。
七海が彼女のマンションの下に車を止めた。セキュリティの甘そうなワンルームマンションだ。近隣にはコンビニ、居酒屋、パチンコ店が立ち並ぶ。女の一人暮らしには些か心配な立地であると七海は思った。
「あー、七海さんに私の家がバレた」
「何か不都合でも?」
「不公平なので七海さんの家も教えてください」
「嫌です」
彼女は大きく口をあけ、声を出して笑った。まったく、呑気なものである。男の車に簡単に乗って家まで教えるし、呪いに手出しはするし、今回も呪われたというのにまるで危機感が足りない。
「送っていただきありがとうございました」
「頼むから大人しくしててください。首を突っ込まないで。わかってますか?」
「わかってマス!」
敬礼しながら上目遣いをする彼女をみて七海は、こいつ絶対にわかっていないと思った。呪われて一瞬落ち込んでいるようにも見えたのに、ほとぼりが冷めたらこの有様だ。七海の心配をよそに、彼女は何事もなかったかのようにさっさと降りて会釈をして立ち去っていく。途中、「あ!」と声を上げて踵を返し、戻って来た。何かを思い出したようだ。
「駅に自転車置きっぱなし」
「もう家に帰って寝てください」
「じゃあ明日、七海さんが駅まで送ってくれるんですか?」
「送るわけないでしょう。歩いていってください。すぐそこなのに」
「ヒドイなあ。おやすみなさい」
彼女はヒラヒラと手を振り、ヘラヘラと笑った。七海はさっさと家に入るよう言って、階段を上りはじめる彼女の背中をみつめた。仕事中はテキパキと凛々しくしているようだが、一歩外に出ると緊張がゆるむのかなんとも危なっかしい。彼女は以前「救急やってるような奴はスリルを好む」と言っていた。いつか本当に危険な目にあうのではないかと気がかりだ。現に今日だって呪われていた。
遠くでどこかの部屋のドアが開き、閉まる音が聞こえた。彼女の帰宅を確認した七海は、頭を抱えてため息をつく。空を見上げると夜が明けはじめていた。