七海と出会って三ヶ月ほど過ぎた。仕事が休みの日に高専で座学や実技の講習を受け、攻撃されてもなんとか受け流せる程度にはなった。今、私は”窓”として呪術師に情報提供を行っている。窓としての仕事は呪霊発見の報告と帳の監視の二つ。祓除は許可されていないため見守るのみである。尤も、私程度の者が呪霊と戦えるわけはないのだが。
でも、正直に言うと少し、わくわくしている。なんだか秘密結社の一員になったようだ。
あれから何度かERで呪霊に遭遇した。しかし放っておいても問題ないレベルばかりで、七海や他の呪術師たちの出番は無かった。確かに彼の言う通り、以前に比べて数は多いようだ。注意して視るようになると、更衣室や廊下、街中にも呪霊は複数存在していることがわかる。ただ強さはというとそれほどでもなく、”そこにいるだけ”の呪霊ばかりだった。例えば三日前に救急搬送されてきた意識障害のある二十代女性。腕にどす黒いとかげのような呪霊が絡みついていた。所々剥がれた鱗からのぞく赤黒い皮膚から、血液のような粘液が垂れる。また攻撃を受けたらどうしようと緊張が走り、背中に冷や汗が流れた。少しの不安と、わずかな高揚感。トカゲ呪霊と目線を合わせないように後ずさりし、ゆっくりその場を離れる。トイレへ駆け込み、補助監督と呼ばれる高専職員へ連絡を入れた。三十分ほどして現場付近の呪術師が駆けつけたが、蠅頭に毛が生えた程度の四級呪霊だった。そして、結局は低血糖を伴う急性アルコール中毒だったため、彼女は夜が明ける前に意識を取り戻した。点滴と睡眠で気分スッキリ。迎えに来た彼氏と腕を組み、足取りかろやかに歩いて帰宅した。要するに、意識障害は呪霊のせいではなかった。やはり、あの夜出会った呪霊が別格だったのだろう。
今夜も彼女は出勤である。呪術師同様、万年人手不足の医療業界もなかなかブラックだ。彼女の部署は救急集中治療科といって、救急診療をする初療室と一定の処置を終えた患者が入院する集中治療室、いわゆるICUがある。勤務割当表を確認したところ、今夜はICUの担当らしい。どちらでもいい。患者が誰であっても、どこであってもやることは同じ。異常の早期発見、患者の観察、指示薬の投与、処置の介助、エトセトラ――。
カードリーダーにタッチして出勤する。ピッという電子音の後に青い光がチカチカと輝き、彼女の勤務時間開始を知らせた。外は真っ暗だがERは明るく、電子音とうめき声が聞こえる。既に急患でいっぱいだ。
交代の看護師から申し送りを受ける。先ほどERからICUに入室したばかりの若年女性が原因不明の意識障害であるとのことだった。血縁者にもこのような病状の者はいないそうだ。脳や代謝に問題はなく、バイタルサインは安定しており自発呼吸もある。モニター心電図からは患者の生命兆候を示す機械音が規則的に鳴っている。点滴ルートトラブル無し。輸液ポンプ動作不良なし。膀胱留置カテーテルに繋がる排液バッグに黄色の尿が三百程度貯留。特に問題はなさそうだ。意識障害が改善しなくても、明日には一般病床へ移る可能性が高い。顔色もよく、眠っているだけのように見える。
呪いが見えないものにとっては――。
彼女は明らかに呪われていた。ただ以前のように呪霊がべったりと憑りついているわけではない。なんらかの呪いを受けたせいか、彼女の身体は微弱な呪力に覆われていた。そして、額に謎の紋様が浮かんでいる。呪力を持たない者には見えないのだろう。こういった呪いは初めてだ。呪力自体は強くないが、得体の知れない気持ち悪さがある。全身の血の気が引く感覚に襲われ、どくどくと心臓が脈打つ音が聞こえる。ここで私が倒れるわけにはいかない。ごくりと唾を飲み込んで、つま先に力を入れ、深く息を吸って、呼吸を整える。息を吐くときは口をすぼめて、吸った長さの倍くらい、時間をかけて、ゆっくりと――。触ってもよいのか悩んだが、意を決してそっと患者の橈骨動脈に触れてみた。モニター音と同じ速度で規則的に脈打っている。温かい。生きている。彼女を助けたい。
忘れ物を取りに戻るふりをして、補助監督へ連絡を入れる。現場付近の呪術師を至急調査に向かわせるが、動けるものが全員出払っており明け方になるということだった。こんな夜更けに全員仕事中とは、呪術師もとんでもない職業である。幸い患者の容体は安定している。呪われてはいるが、今のところこちらへ攻撃してくる様子はない。しばらく様子を見ることになった。
一通りの仕事を終え、四畳半ほどの休憩室へ入った。湿気た空気と整理されていない雑然とした空間が、自宅に帰ったようで妙に落ち着く。遠くから人工呼吸器のアラームが聞こえるが、波が過ぎ去った今、いつもより落ち着いた夜だった。カップ焼きそばにお湯を注いで、大きく伸びをする。スマートフォンを確認すると、高専へ連絡してほどなく七海からの着信があったようだ。着信履歴からかけ直す。ワンコールで彼は出た。
『怪我はありませんか』
「大丈夫です。気付くのが遅くなって、ごめんなさい。スマホを持っていけないので……」
私の言い訳を遮って七海が言う。
『現状を報告してください』
「意識が戻らないだけで特に変わったことはありません。眠っているだけみたいです」
『わかりました。過去に似たような呪いを受けている者がいます。同じ種類であるか確認したい』
「患者の家族という事で面会してはどうでしょう。紙に電話番号とか書いてもらわなきゃですけど、身分証明書とか見られないと思うんで」
『貴女の病院の警備はザルですか』
七海のため息が聞こえる。初めて会った日のような怪しい恰好でなければ通れるだろうと付け加え、七海の到着を待つ。通話を終えた後に少し失礼な言い方だったなと思ったが、七海からの反応はなかった。三十分程度で着くそうだ。夜間出入口の警備員と事務員に面会者が来ることを伝えておく。これで大丈夫だろう。
程なくして受付事務員から面会者が来たと連絡があった。それから十分ほど経った後、紺色のコートを手にした七海が現れた。
「妹がこちらに運ばれたと聞きました」
初めまして、という表情で七海が言った。オフホワイトのスタンドカラーシャツがよく似合っている。体格がいいせいか、俳優のような出で立ちだ。受付事務が患者の顔を知らなくてよかった。患者と歳が離れすぎているように見えるし、あまりにも似ていない。ちょっと、いや、かなり苦しい設定だが、今は他の医師も看護師も別件でばたついておりこちらに注意が向いていないようだ。静かにベッドサイドへ七海を案内し、目配せをする。七海がそっと患者の手を取った。触れることで呪いを確認しているようだ。年季の入ったパイプ椅子に座ると、今にも壊れそうにぎちぎちと音を立てた。七海は手を口元に当て、思案している。前はサングラスに隠れてよくみえなかったが、フレームレス眼鏡の奥はきれいな緑色をしているらしい。他の者に聞こえないよう小さな声で訊ねてみる。
「あの額の模様が見えますか。みんなには見えないみたいです。身体的な異常はそこだけで、医学的には原因不明です」
「何らかの呪いですが、私にもはっきり原因はわからない。高専の医師に相談します」
七海も小さな声で返答すると、ゆっくりと立ち上がった。パイプ椅子が軋む。ダークグレーのパンツとハイブランドの靴が上品な雰囲気を醸し出している。
「もういいんですか」
「十分です。また何かあればすぐに連絡してください」
私はうなずき七海を出口へ案内した。なんとか怪しまれずに面会を終えることができ、ほっと胸をなでおろす。こういったことに慣れているのか、七海は終始無表情である。私は小さくため息をついた。緊張が解け、口元が緩む。
「けっこうドキドキしました!」
「……妙なスリルを味わうのはやめたほうがいい」
「救急やってる人間なんて、大なり小なりみんなこんなもんですよ」
「反省してください。危険を感じたら呪いや呪霊に無暗に近づかないように」
盛大にため息をついて眉間にしわを寄せている七海の顔には、「呆れた」と書いてあるようだ。今後も同様の呪いが現れたら直接連絡するよう告げ、一礼して立ち去った。その背中にお疲れ様です、と声をかけると、私はアラーム音の鳴り響く現場へと戻った。