第2話

 病院を一歩出ると、夜あったことは夢だったのではないかと思うほどの晴天が広がっていた。間もなく午前十時。いつもと変わらない風景がそこにある。日は高く登り、真夏の日差しが容赦なく刺さる。……暑い。肉体は限界まで疲れきっているのに、精神は昂っていて、これから眠れそうにない。今日のような日にはちょうどいい。私にはこれから知らなければいけないことがあるのだから。財布の中から金髪の男に貰ったメモを取り出し、スマートフォンに電話番号を打ち込む。七コール目で繋がった。

『……はい』

 声から疲労がうかがえる。件の事件からそんなに時間は経っていないので無理もない。

「先程連絡先を貰ったものです。起こしてすみません。今職場を出ました」
『貴女でしたか。構いません、仮眠ですので。お疲れ様でした。場所を指定してください。そちらへ向かいます。貴女の職場からそう遠くない場所にいます』
「……北口のテラス席があるカフェにいます。SMSで住所を送ります」
『わかりました。では後ほど』

 淡々と事務的に、あっさりと電話が終わる。病院で出会った時とは違い、穏やかな声色だった。労いの言葉までかけてくれるとは思いもしなかった。本当のところ、彼のことを少し怖いと思っていたのだ。だって、明らかに堅気ではない。金髪、明るいスーツ、武器まで所持していたのだから。あの化け物たちのことを知りたい気持ちはあったが、ヤクザやヘンテコ霊媒師かもしれない。高い壺を売りつけられるか、はたまた変な施設に連れていかれるか。拉致、監禁、生贄――。

 とにかく彼に会って聞かなくては。人目につきやすい場所を選んだから、万が一何かされそうになっても大丈夫。近くに交番もある。あんなことがあったけれど、街は平静といつもの営みを繰り返しているのがおかしいように感じる。なんとか気持ちを切り替え、スマートフォンをポケットにしまうと駅に向かって歩き始めた。

「お待たせしました」

 アイスコーヒーを飲もうとストローを刺した時、彼は現れた。咄嗟に立ち上がり、会釈する。どうぞと座るように促され、その後お互いに簡単な自己紹介をすませた。彼は七海建人と名乗った。アイスコーヒーを一口飲む。名前からして、どうやら日本人らしい。しかし、年齢不詳である。やはり堅気ではない雰囲気で少し身構えてしまう。お互い数十秒の沈黙の後、七海が口を開いた。

「例の件ですが」
「……はい」
「今日はお疲れのようなので、こちらは急ぎませんからまた後日でも」

 さきほどの沈黙を疲労か緊張か、七海がどう捉えたのかわからない。ただその表情と声遣いからは純粋な気遣いを感じた。

「お気遣いありがとうございます。お察しの通り私、疲れきっています。でも、私は今日知りたいんです」
「わかりました。では手短に」

 七海が淡々と話しだす。あの化け物は人の負の感情からうまれた呪いであるということ、それらを祓う呪術師という職業が存在していること――。普段は身体を巡っているだけの呪力が何らかの原因で揺らぐと漏れてしまい、それが今回のように襲われる原因となるそうだ。呪力のコントロール方法を学ぶことで呪霊から身を守れるということらしい。まあ、なんとも如何わしい話である。

「信じられないかもしれませんが、今お話した通りです」
「いえ、七海さんの話を信じます。とにかくその呪霊や呪いが今まで私に散々好き勝手してくれてたってことですね」

 驚きもあるが、七海の話は納得できた。そして心底腹が立った。これまで我が身に起こった事や病院で起こった蛇の化け物事件の事も相まって、信じずにはいられない。今まで目を逸らし、気づかれないよう震え、恐怖に耐え忍んで来た化け物たちの正体をついに知ることができたのだ。

「ここ最近呪霊の動きが活発化しています。原因は調査中です。ピークの季節を過ぎても発生が多く、我々も手を焼いています。そこで」

 一呼吸おいて七海は続けた。

「貴女に情報提供をお願いしたい」

 一通り説明を終えた七海は「ではそろそろ」と言い立ち上がり、そのまま流れるように伝票を持って会計をすませた。

「あの、払います」
「いえ、ここは私が。また連絡します。貴女も呪霊絡みで何かあれば連絡を」

 そう言って七海は一礼した。つられて頭を下げる。こつこつと規則的な足音が駅とは反対方向へ遠ざかる。不思議と清々しい気持ちが湧き上がった。


 長い一日だった。帰りの電車で深夜の呪霊遭遇から七海の話までを反芻する。今まで私の身に起こったこととは切り離そう。過去は変えることができないから、これからのことを考えよう。

 時刻は午前十一時間近。ラッシュを終え空席が目立つ車内で、彼女は微かに笑みを浮かべる。そのまま静かに目を閉じると、電車の揺れに眠りを誘われすぐに眠ってしまった。