私は都内でもどちらかというと田舎の方に位置する、断らないことで有名な救急看護師である。今夜は救急搬送が多い。交通外傷でボキボキの骨折、鼻血が止まらない泥酔した若者、高熱五日目意識状態が悪い敗血症、彼氏に浮気された過換気症候群の女の子。いつもに増してバラエティに富んでいる。そこかしこからアラーム音とうめき声が聞こえてくる。夜のERは野戦病院のようだ。そして先程から頭が痛いと訴える六番ベッドの中年男性。顔は土気色。外傷はない。身の置き所がないようでストレッチャーの上を右へ左へ動いている。今夜のメンバーでは一番若手の医師が担当しているが、何度も首をかしげながら身体所見をとっている。あの痛がりようからしたら不思議なくらい、検査結果に異常がないそうだ。それはそうだろう。だって彼の肩から上には――。
彼女はいわゆる「みえるタイプ」だった。いつからそうだったのかはっきり覚えているわけではない。物心ついた時から見えていた。見たくなくても視界に入ってくるそれ達は、視線が合うと彼女に付きまとった。追いかけてくるものもあれば、毎日待ち伏せされることもあった。触られたり息を吹きかけられたり、ひどい時は突然攻撃されることもあった。不思議なことだが見えないものに攻撃されても怪我をする。転んだだの、ぼーっとしていただのと言い訳をすると家族や友達は心配したが、見えていないであろう人達に本当のことは言えなかった。わかった対処法は決して視線を合わせないこと。気がつけば彼女はいつもうつむき加減で過ごしていた。
成績はそこそこで目立つ取り柄もない。人でないものに追われ続けて妙な度胸だけはついたのだろう。何事にも動じない鋼のハートを持っているようにみえる彼女を進路指導は看護学部への進学をすすめた。敷かれたレールの上をうつむいたまま進んだところ、現在こうしてなんでもありのハードな救急病院で働いている。次から次へと患者がやってくる種種雑多なこのERは彼女に向いているだろうか。どこでどう働こうが彼女が真っ直ぐ前を向けないのは同じこと。ジュエリーを売るよりかは向いているという程度である。
今夜も救急隊直通PHSが鳴り響く。
『新宿第二救急隊、搬送連絡です』
随分遠方の救急隊からの受け入れ要請だ。聞くと何軒も断られているのだという。初診、既往歴なし、家族付き添い無し、一応意識はあるが激しい頭痛ため会話はできない。他の病院なら断る要素は満載だが、生憎この病院のルールと照らし合わせても断る理由は見当たらない。リーダーナースと脳外科の医師が相談し、頷いている。ああ、また救急搬送が入るようだ。今度はアレとは関係がない普通の病気や怪我であればいいが……。
「痛み止めは効きましたか」
彼女が聞いてもその中年男性は首を横に振るだけだった。呼吸は荒く、顔色は依然悪いまま。化け物の蛇に似た下半身が首を締めるように巻きついていて、大きく開いた口が彼の顔面を覆っている。半透明のアレから透けて見えるスライムのような粘液が男の口腔内に流れ込む。うまく酸素が取り込めないのだろう。苦痛の表情がみえる。女性なのだろうか。頭と思われる部分には長い髪のようなものが生えている。モニター心電図から出るアラーム音とは違う悲鳴のような音を発しているが、誰も気づかない。こんなに大きな音なのに。若手医師の上級医である脳神経外科医が診察したが、原因は今のところはっきりしないそうだ。このまま入院収容しなければならず、誰か入院の事務手続きをしてほしい。どう見ても彼は字をかける状態ではない。
「どなたか連絡のつくご家族の方はいらっしゃいますか」
首を縦に振る彼はシルバーのスマートフォンを取り出して、発信画面を見せて私によこした。女の名前が書いてある。妻だろうか。
「あなた今どこにいるの!?」
三コールの途中で出たその女は怒りを宿した口調で怒鳴りつける。相手が怒っている時は小さな声で冷静に。簡単に状況を説明する。妻かどうか確認すると少し黙った後にこう答えた。
「……違います。あの人は今病院なんですね? どういうことですか?」
戸惑っているようだ。妻ではなければ姉妹か愛人か。手続きさえしてくれればこの際誰でもいい。今夜はいつもに増して忙しい。彼女はまた次の患者のところへ行かなければならないのだから。
白いドアを開けて閉める。アラーム音が遠のく。用を足し終わりトイレを出ると、先程までいなかったはずのスーツ姿の外国人が立っていた。誰かの家族だろうか。関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアの向こうに来てしまう人はたまにいる。困ったものだ。
「ここはスタッフ通路です。どうされましたか」
「すみません。迷ってしまったようです。待合はどちらですか」
日本語は通じるようだ。しかし、どうも様子がおかしい。間違えたにしては全く動じていない。
「こちらへどうぞ。ご家族の方ですか」
「はい。家族がこちらへ運ばれたと聞きました」
「そうですか。待合でもうしばらくお待ちください。またお声おかけします」
「ありがとうございます」
急患の家族にしては妙に落ち着いたその男を常夜灯のみの待合へ案内した。誰の家族なのか名前を聞き忘れたことを思い出し待合へ戻ったが、すでに男の姿はなかった。
「これから入院ですので、病棟にご案内します」
一人で押すストレッチャーは結構、いやかなり重い。エレベーターのボタンを押す。いつもエレベーター待ちの時間は長い。そういえば男の返事がない。顔色を確認しようと男の顔の方へ向くと、男にまとわりつく化け物と視線を合わせてしまった。
――まずい……!
反射的に腕で頭を守りしゃがみこんだ瞬間、鈍い金属音がエレベーターホールに響いた。痛みはない。何が起こったのだろう。化け物の尻尾がエレベーターにぶつかったのか。右目だけあけると、ベージュのスラックスが視界に入る。
「貴女、見えているんですね」
こちらを向きもせず発された言葉。悲鳴のような化け物の鳴き声と聞き覚えのある低い声。先程スタッフ通路で迷っていた、誰かの付き添いだという不審人物。見えているとは、あの化け物のことだろうか。
「失礼。そのまましゃがんでいてください」
「……なんなんですか」
「後で説明します」
何かが空気を切る音がしたと思えば、また化け物の悲鳴と肉が潰れる音。
「もう安全です。怪我は?」
「ありません。あなた一体なんなんですか? 警備員呼びますよ」
あたりを警戒しながらゆっくり立ち上がった。口だけは強気で格好悪いが、こういった時はビビった方が負けである。とにかく今すべきことはこの患者を病棟へ搬送して次の患者の元へ行くこと。滞りなく仕事を片付けないと次から次へとやらねばならない事はある。トラブルは勘弁願いたい。
「お元気そうで何よりです。こういったことに随分と慣れているようですね」
「こういったこととは? あなたのような人のあしらい方のこと? 抽象的な質問はやめてください。私忙しいんです」
男は表情を変えずに短いため息を吐いた。そして呆れたような声色でこう続けた。
「呪いが見えるんですね。この男性に憑いていた異形のことです。これでわかりますか」
呪い。異形。憑き物なのか、この化け物は。とにかく、この男にも見えているということだ。幽霊なのか妖怪なのか。やはりこの世のものでは無かったようだ。そして、私以外にも化け物が見える人がいる――。
気がつけば先ほどまで感じていた薄ら寒いような、ねっとりと絡みつくような気持ち悪い空気が消えている。そしてストレッチャーの上の中年男性を見ると、化け物の姿はなくなっていた。彼の意識は未だ曖昧なようで小さなうめき声は聞こえるが、未だ発語はない。
「この化け物たちのことを知ってるんですね」
「そうです。身を守る術も。貴女と少し話したい。先程の廊下で待っています」
「あのエリアは関係者以外立ち入り禁止です」
「……では待合で」
「すみませんが、今夜は忙しいので夜勤明けにしてください。まだ戻ってやることがあります。見たでしょ、待合の人達」
男は黙ってメモに名前と電話番号を書いて寄こし「では後ほどこちらに連絡を」と告げ立ち去った。私は頷き、もう一度エレベーターのボタンを押してストレッチャーと共に病棟へ患者を搬送した。
エレベーターの中で、あの男が言った言葉を思い出す。
――貴女、見えているんですね。
彼にもあの化け物たちが見えている。そして彼は知っている。あの化け物たちが何なのかを。知りたい。私の人生に影を落とした化け物の正体を。
時刻は深夜三時を少し過ぎたところ。空はまだ暗い。この勤務帯で十二台目の救急搬送がやってくるそうだ。五十代女性。主訴は右腰背部痛。嘔吐を伴うが下痢はなく、熱もない。突然痛みが現れたそうだ。季節から考えると尿路結石だろうか。それとも胆石発作だろうか。いやいや、診断をつけるのは医師の仕事。私は患者の苦痛を緩和して、心身の安静を保つ補助をすること。サイレンの音が近づいてくる。今度の患者には何も憑いていませんように。祈りながら救急搬送受け入れ口へと向かった。