『七海が私の事を好きだと言うのは知っています。でも私はあなたが思ってるような人間じゃない。私のことは忘れて好きな人を作って一日も早く幸せになってください。結婚して子どもも作って、おじいちゃんになってから死ぬように。でももし、七海さえよければ、の話だけど、次の世界では一緒になって欲しい。ねえ、これでいいんでしょ』
遺言と共に入っていた小学生女子が好んで使いそうなレターセットを使って書かれた手紙。七海に向けられたものだ。その存在を彼が知らされたのは彼女が生きていた痕跡がほとんど消えてしまった後だった。彼女の部屋は一部の関係者と遺品整理業者によって引き払われ、いつものように仕事をして、帰って、酒を飲んで、寝る。そんな日常がまた戻って来た時に伊地知から唐突に手渡された。封筒に書かれた彼女の肉筆を見た時、七海の世界がぐらりと揺れたと思うと、ちょうどよく置かれていた後ろのベンチにどかっと倒れるように座り込んだ。中身を読むとまた視界が揺れ始め、目からぼたぼたと涙が落ちた。それでも嬉しくて何度も手紙に書かれた字をなぞった。涙が出るのに嬉しい。嬉しいから涙が出ているのかもしれない。だって七海には悲しい気持ちなんてこれっぽっちだって無い。
「あの、七海さん――」
「ふふ、ラブレターでした。これは頂いても?」
「はい。七海さん宛てですし彼女のことで残っているのは、もうそれだけです」
「そうですか。わざわざありがとうございます」
七海はハンカチで目元を拭いながら伊地知に深々と頭を下げ、立ち去った。
外に出ると寒かった。今年もそろそろ終わろうかという今日は特に冷え込むとの予報だ。コートの前を閉めて車に急ぐ。雪がちらつき始めたので空を見上げると、ふとどこかで嗅いだことのある懐かしい匂いが香る。そこにまだいるのなら返事をして欲しいと、七海は空に向かって話しかけた。
「まだ生まれ変わってないでしょうね」
七海の頬を生温い風が撫でる。雪が降っているのに不思議だったが七海にはそれが誰の仕業かわかった。まだこの世界にいたらしい。四十九日を過ぎたらあの世へいかなくてはならないというルールを無視している。どうやって留まっているのかわからないが、おそらく何か規則を破っているに違いない。こんなことでは地獄に行ってしまうのではないかと七海は心配した。
『そろそろ上からの圧がヤバイから一足先にいくかも。鳥とかハムスターとか一回経由しといた方がいいかな。希望って聞いてもらえると思う?』
七海の車のサイドミラーに小さな野鳥がとまり、チッチと一声さえずったかと思えばすぐにまた遠くの空へと飛んで行った。きっと彼女が何かふざけたことを言ったのだろうと思った。
「そんなに長生きできるとは思ってません。もう少し待っててください」
『老衰以外の死は認められませんから。ねえ七海。犬とか猫も挟んでおくからもう少しゆっくりしてからおいでよ』
再び生温かい風が七海の頬と首元に絡むように吹く。冬の寒空に吹くとは思えない暖かさの風から彼女の優しさのようなものを感じ取る。彼の事を心配しているのだろうか。七海はまだ来るなと言われているような気がした。
「今日の夕食は君が好きなシリアルの気分だな」
『家に残してたアレは朝ごはんだってば。私の事知らなさすぎでしょ。ずっとネチネチ見てたくせに』
途端に七海に向かって牡丹雪が降り始めた。多数の雪片が重なり合った重みのある雪の塊が七海のコートを濡らす。しばらく降ったかと思うとぱたりと止む。コートを白く彩った雪はじわじわと解けて水になった。濡れたコートを手で払い、手に着いた水を眺めてみる。ここに彼女の意志があるのだろうか。シリアル云々の発言に物申しているのだろうと考えて、七海は口元に手を当て笑った。
「冗談です。冷蔵庫の中身を掃除するための鍋にします。ここのところ忙しくてろくなものを食ってない。早死にするかも」
含み笑いをしながら七海が言うと、刺すように冷たい風がビュウビュウと音を立てて吹き始める。飛ばされそうな程の突風に明らかな彼女の存在と意思を感じて七海は口を開け声を出して笑った。
『くだらない事言ってないで早く帰って温かくして寝て。おやすみ。また来世で会おう!』
風は止みレモンのハンドクリームの匂いがすぐ近くまできたと思ったら、頬にまた生温い風が当たる。きっと彼女が彼の頬に口づけたのだ。七海は都合よくそう考えておくことにした。
「もう行くんですね。さようなら。来世で会いましょう。約束です。忘れないで」
懐かしい匂いがしなくなったと思うと雪もやんだ。後には芯から冷える寒さだけが残り、七海はエンジンをかけるとまず暖房を入れた。ごうごうと強風が出て車内を温め始める。いつものようにまっすぐ家に帰って古い映画でも見ながら鍋を一人でつついているところまで考えて、七海はふっと息を漏らして笑う。
「こんな絵に書いたような独身男、結婚なんてできるわけが無い。それに未だ童貞です。……君のせいだ」
もう誰からも返事はなかった。
二〇一七年十二月二十三日のことだった。七海が聞いた声は幻だろうか。明日七海は京都へと出向する。