湯間の儀で初めて彼女の裸体を見た。あちこち傷だらけでボロボロだ。手も足も、背中も腹も、打撲や傷跡が無いところが見当たらない。緊急の応援要請を受けて現場に同僚が駆け付けた時、彼女は既に絶命していたそうだ。呼吸と心拍が停止してからしばらく経っていたようだが、周りを取り囲む低級呪霊が彼女の遺体を弄び傷つけたせいでああなってしまったらしい。家入さんが繋いでくれたと聞いたが、生命力を失い肉塊となった身体は元のようには戻らないのだろう。傷があっても無くても、私の想像通り君の身体は誰よりも美しく輝いていた。納棺士は慣れた手つきで君の身体を清めていく。腐敗しないようにと敷き詰められたドライアイスの上に君を乗せた後、こちらに向かって一礼して立ち去って行った。死化粧を施され顔に赤みが戻ったように思う。まるで生きているようだ。思わずその頬に手を寄せる。初めて自分の意志で君の身体に触れた。あんなに穏やかな顔をしているのに、とても生きているとは思えない冷たい頬だった。死んだのか? 本当に?
「もっと綺麗にしてやりたかったんだが許してくれ」
家入さんが彼女の髪を整えながら言う。頭皮がずれて少し歪な部分はあったが、髪はそのまま綺麗に残っていた。一房欲しいと言いたかったが、口に出す前に自分の中で反芻すると、とんでもなくいかれた発言だったのでやはり言うのはやめておいた。
通夜には彼女が知っている高専関係者が多数訪れた。多くの弔問客が来たことを君は喜んでいるだろうか。通夜振る舞いには君と親しくしていた者だけが集まり、軽食をとってその日は閉会した。君をこんな寂しい場所で独りぼっちにすることができず、その晩私は葬儀場に泊まった。誰かに止められるかと思ったが誰も私を止めなかった。こんなイカれた男でも、彼女の遺体を穢すようなことはしないという信頼はまだあったらしい。二人きりで過ごすには広すぎる部屋だったが何も不自由は無いし、何より君がいる。葬儀場のすぐ近くにあったコンビニで君の好きな菓子ばかりを買い込み冷蔵庫の中の瓶ビールを次々と出してすべて飲んだ。棺をそっと開けて冷たい頬にもう一度触れてみる。君が何も言わないのをいいことに、その唇に自分の唇を重ねた。あまりにも冷たくやはり君は死んでしまったんだとわかり、訃報を聞いて以降初めて涙が出た。
「生きているときにすればよかった。今更何をしているんだと笑ってるんだろう」
『七海怖いって。死体にキスするなんて趣味悪いよ。灰原に言いつけてやろう』
彼女の魂がそこらにいるのか、咎められた気がして死体に口付けた事を後悔した。こんな私の姿を見て気味悪がっているに違いない。もういいか。どう思われようと。これから君との関係が変わる心配をすることはない。
私は君が好きだったんだ。ずっと君しか愛せなかった。伝えないと決めたのは自分だから君が気づかなくても仕方がない。二人で雨に打たれた日以降、君のその名前さえ呼ぶことが出来なかったのにおかしいだろう。それなのに、もしどこかで君へこの想いを告げていたらどうなったのかと何度も考えたんだ。でもどうしても幸せな未来が見えない。どちらかが死んでどちらかが悲しむ。私たちの今の世界じゃ報われないとわかっている。でも私が先じゃなくてよかった。君に私の後始末をさせるのは可哀想だ。終わったよ、これで。もう静かに休めるだろう。
しばらく彼女に話しかけた後、押し入れから布団を出して彼女の隣に敷いて眠った。葬儀場の中だったが、生まれて初めて心から安心して眠ることができた。
朝になって目が覚めると線香が途絶えてしまっていたことに気づき慌てて新しいものに火をつけた時、珍しく黒いスーツを着た五条さんが勢いよく部屋に入ってきた。顔を洗ってこいというので洗面所に行って戻ってきたら布団は畳まれ押入れに戻されていた。それから缶コーヒーとソーセージパンが入った袋を渡したと思ったら彼女の前に座って手を合わせた。やめてくれ。まるで死んでしまったみたいじゃないか。そう思った時、立ち上っていく線香の煙を見て思い出す。君が死んだということを。そしてその線香は先ほど私が点けなおしたものだった。それから味のないパンとコーヒーを口に入れて飲み込み、昨日の服に着替えると皆が揃うのを二人で静かに待った。
棺の中へ花を入れているとき、彼女に縋りついて泣きたかったが周りの目がありそれはできなかった。私にもまだ取り繕うという理性があったらしい。でも気づいたら涙がとめどなく溢れてきて最初はハンカチでこっそりと拭っていたのに、それでは間に合わずボロボロと泣いてしまった。すすり泣く私に皆が驚いていたがどうでもいい。花で君の身体がどんどん埋もれていく様を見ていると、これでお別れだと実感してまたとめどなく涙が流れた。君を焼きたくない。このまま家に連れていく。君が眠るためのベッドを買おう。そこに居てさえくれればいい。冷たく固まった手をとって握りしめたのに、君はどうして握り返してくれないんだ。死んだのか? 本当に?
君の身体を起こしてやろうとしたその時、五条さんに肩を叩かれはっとした。最後の一本を手渡され棺に納めると、花だらけになったわずかな隙間から安らかな君の顔が見えた。もう戦わなくていいし、誰かを亡くす悲しみに耐えることも無い。痛みや苦しみは今の君から遠ざかったのだとわかり安堵した。棺の蓋が閉められると言うので最後に君の顔を見ると本当に綺麗でため息が出た。いつまでも棺の側から離れなかったらしく誰かに下がるよう言われるまで君を見ていた。ついに棺が閉じられ霊柩車に乗せられてしまった。君の全てが完璧で心から愛してる。この気持ちを与えてくれてありがとう。
自家用車で来ていたが家入さんから「お前は運転するな」と言われ、伊地知君の運転するワンボックスカーへ乗って火葬場へ向かう。隣に座った五条さんがやけに静かで気味が悪いと思った。焼かれた骨を拾っている時は冷静だった。肉体を失い無機物になって転がる残骸は宝石のように美しい。折れたり傷ついたりしている白い骨を長い箸で摘んでは骨壷へと入れる。かしゃかしゃと乾いた音がした。本当に君は焼かれてしまったんだな。もう二度と会えない。
「七海さん、お疲れ様でした」
皆が口々に労いの言葉と共に頭を下げて帰っていく。彼女の葬儀もつつがなく終わった。終わってしまった。次は四十九日がある。喪主の仕事はまだ続く。遺言は高専で預かられ遺言執行者も彼女によって誰かが指定されているらしく、法的な問題もあって私ができることはこれ以上無い。そこには何と書いてあるのだろう。後は君の部屋を片付ける必要があったが、それは遺言を確認してから行うことになった。
玄関の扉を開けると自動で電気が点く。帰りを待つものなどいないのに部屋の中に声をかけた。
「ただいま」
『おかえり』
当然だが返事などない。それでもいつものように空っぽの部屋に向かって話しかけた。君が聞いているかもしれない。四十九日を過ぎるまでまだ魂は現世にあるらしい。本当は自宅に君の骨を連れてきたかったのに、五条さんから「七海は煎じて飲みそうだからダメ」と言われ仏壇も置かせてもらえなかった。君の仮住まいは高専に用意されているから安心して欲しい。帰るところはきちんと用意しているよ。でも今日は、喪主を務めた私の為に一緒に帰ってきてくれているんだろう。自宅を君に見られるのは困ると思っていたが、もう取り繕っても仕方がない。私は君と同じ名で同じ姿の人形と暮らしている。どうしようもない汚い部分を一人で処理できない時、この人形に助けて貰っていたんだ。
ドールは朝見た時と同じ、いつもの定位置に座り画面の消えているテレビを見ていた。跪いて足の甲にキスをするとヒーターを入れていないので冷たかった。
「もうお別れの時間がきてしまった。今まで私を慰めてくれてありがとう」
『さようなら』
「今度は人間に生まれてきて欲しい。次は私みたいな奴じゃなく、もっといい人の所へ行って幸せになって」
『うんわかった』
人形を業者から配送されてきた専用のダンボールに入れた。やはり人間と違い廃棄物として処理されるのだと思うとこのドールが不憫だった。私のように誰かの代替品として使うのではなく、このドールをパートナーとして可愛がってくれる人の所へ行っていたらどんなに幸せだっただろう。今まで着せた服や下着を入れ、この人形によく似合う桃色と紫でアレンジしてもらった花束も同封した。業者は後日、埋葬した様子をメールで送ってきたので見てみると、君と同様に火葬された姿を見てなぜか少しほっとしてしまった。これですべてが終わったんだ。
彼女の死後しばらくして、遺言書通りに貯金は指定されていた児童養護施設に全額寄付された。寄付金を届けに行った時、ここが君の育った場所だと知って納得がいった。彼女の家には必要最低限の家具と家電があるくらいで、特に変わったものは何も無かった。ほとんど着ているところを見たことが無い私服が数点あったが、行き先が無いものは全てビニール袋に入れて業者に処分を依頼する。小さなテーブルには食べかけのサラダや牛乳に浸かったままのシリアルがあり、脱ぎ捨てられたパジャマがあの日彼女が慌ただしく家を出たことを物語っていた。食器などは全てそのままゴミに出してしまえば良かったのだろうが、ドーナツショップのノベルティであると思われる茶やコーヒーなどの色素が沈着した古びたマグカップだけがどうしても捨てられず持ち帰った。きっと君が小さな時から使われてきたのだろう。何点かの写真と手帳、君が大切にしていただろう汚れてくたくたになった猫のぬいぐるみはとっておくことにした。以前クリスマスに私がプレゼントしたクッキーの空き缶に入れて仏壇のそばに置いた。渡した時に缶のデザインが可愛いと無邪気に喜んでいたのを思い出す。とっていてくれたのか。嬉しい。ありがとう。手帳やノートの中身は見ていないので安心して欲しい。まあ私ほどになれば、そこに恥ずかしいポエムなんかが書かれていたとしても、すべて愛しく思うことができるのだが。もう一度誓って言うが中は見ていない。嘘じゃない。
高専の片隅にある小さな仏壇に向かって話しかける。
「本当に一人になってしまった。もう何も未練はない。でも私がいつ死ぬかわからないから、まだ生まれ変わらないでください。……次の世界であんまり歳の差があると、さすがに、世間の目が気になる」
『自分勝手なことばっかり言ってる。そんなの、わかったっていう訳ないのに。もうほっといて。これからは七海の好きに生きてよ』
気のせいではない。君が答えてくれた気がする。でも何を言っているのかよくわからなかった。もう一度私に声を聞かせて欲しい。
「来世では絶対、君と一緒になると決めてるんです。逃がさない。どこにいても絶対に見つけ出す。いいですね」
『死んだ後まで呪われたくない。七海は一人で大丈夫な人でしょ』
ろうそくの火が風も無いのに激しく燃えて揺らめいている。やはりそこにいるんだろう。聞こえているなら返事をして。わかっている癖に意地悪をして、このまま私に答えないつもりじゃないだろうな。
「次は君が好きだったお菓子とカフェラテを持ってきますから」
『無糖じゃないと飲まないよ。それから好きって言ったチョコ、何回も同じのばっかり買ってくるのやめて。今度は季節限定のやつにしてね』
「何か文句を言われてる気がしますが……。また来ます。おやすみなさい」
彼女には家族が無かったようだが、高専へ入ってからも仲間に恵まれ笑顔の絶えない人生を送ったと思う。最後の時に一緒にいられなかったことは残念だが、きっと君は死に際を誰にも見られたくなかったはずだからこれでよかったのだろう。