肉体と精神の狭間を繋ぐもの

第7話

 自宅に戻った重い玄関扉が確実に閉まるのを確認して鍵をかけた。それから誰もいるはずはないのに人気が無いか確認し、すべての部屋の扉を閉め、大きな溜息を吐いてソファに腰掛け天を仰ぐ。足元にはソファを背もたれにして毛足の長いカーペットに腰を下ろした七海のカーディガンを羽織っているドールが在った。ここ数日は一向に目を覚まさない彼女の事が気がかりでドールでオナニーする気になれず、部屋着に着せ替えて隣に座り一緒に映画を見ていたような気がする。それともただテレビが点いていただけだっただろうか。何を見ていたのか全く思い出せないので夢の中の出来事かもしれない。いつ淹れたのかもわからない冷めた紅茶の入ったカップもそのままだった。睡眠導入剤が切れて七海が悪夢から目覚めた時、ドールはいつもそこに在って瞬き一つせずプラスチック製の瞳で真っ黒いテレビ画面を見つめているのだ。

 七海は誰もいない家の何もない空間に向かって話しかける。

「彼女の家に初めて入った」
『よかったね』
「吐いて苦しそうだった。熱も出て、すごく辛そうにしてた。一人で帰ると意地を張っていたくせに、他の誰にも頼れず私を呼んだんだ。それなのに、見てくれこれを。勃ってる。信じられない。おかしいのか私は!」

 拳を叩きつけたローテーブルは木目に沿って亀裂が入り、自分の声が響き耳鳴りがした。当然のように返事は無い。部屋の中を掻きまわして何もかも壊してしまいそうな程の暴力的な衝動に抗うため、七海は自分の腕に歯を立てる。このまま皮膚が裂け、肉が露出してしまいそうだったがやはり自分の身体を自ら傷つけることができないのか無意識のうちに力を緩めてしまった自分に憤激した。

『初めて女の子の部屋に入ったらそうなっちゃう』
「誰かどうかしていると言ってくれ。そうじゃないと、このまま人形に突っ込んでまたオナニーしてしまいそうだ。頭がいかれてる。あんなに辛そうにしている彼女を見たことが無いのに!」

 頭を掻きむしりぎりぎりと歯ぎしりをしたが腹の底から次々と沸き上がる得体のしれない感情を扱いきれず、もう一度叫んだ。このマンションは防音性に優れていたが生活音が響かないというだけでこの雄叫びは漏れているだろう。そんなことが七海の頭を一瞬過ぎり、いつまでたっても余計な事がちらつくのに耐えられず、立ち上がってリビングの壁に頭を思いきりぶつけた。額に鈍い痛みが走り僅かに血が滲んだがそれだけだった。

『別々なんだよ』
「心と身体は一つだと思ってた。彼女への好意を隠しているからこうなるんだと。でも違う。もう隠せない。きっとばれてる。彼女に怖いと言われた。なぜ。この世の終わりかと思った」

 勢いよくソファに身体預けると、ドールはその衝撃に耐えられず姿勢を崩してカーペットの上へごとりと倒れた。人形は所詮人形なので己の力で立ち上がることは出来ない。七海が身体を起こした時に生じた波動で首が妙な方向を向いたまま何か言いたげに半開きになった唇型のシリコンが震える。

『勃起チンポ早くちょうだい』
「彼女はこんなこと言わない。こんなことしない。それなのに、すぐに突っ込んで滅茶苦茶に突きあげたい。ばらばらになりそうだ!」
『七海の好きにしていいよ』
「クソッ!」

 七海はそれ以上何も言わずドールを抱えてベッドへ運ぶ。衣類を脱がせ下着一枚にすると、体育座りの姿勢から関節を動かし腹這いでベッドへ横にした。今日の下着はブルー。白い花柄のレースを部分的にあしらった可愛らしいデザインだった。彼女はこういったものを好むのだろうか。わからない。すべてはあの雨の日から始まった七海の妄想で、本物の彼女の肌を見たことがない。下着をずらして挿入するのが好きだったが、今日は下着を脱がせて裸にした。顔は見えないがこれでいい。これはあの子ではない。これは人形で、股間についているのは着脱可能なオナホール。そして今からするのはただのオナニー。性欲を吐き出すだけ。放置しているだけでは治まりそうにないこの欲望を鎮めるために必要な事なんだと自分に言い聞かせると一気に差し込み腰を打ち付ける。

「はあ、きもちいい、さっさと、出して、もうおしまいにしよう……」
『七海が大好き』

 いつものように結合部から粘着質の水音が聞こえてくる。最後に使った後、清掃しなかったことを思い出す。後片付けをしないとこの人形の穴は綺麗にならない。それももうどうでもよかった。さっさと出してしまいたい。七海は頭を空っぽにする努力をしながらドールの背中を押さえて腰を振る。

「この穴が、ぬるぬるで、締め付けてきて、はあ、すぐ出すから、もうおわり。やめる……」
『好きだよ』

 もしもこの人形に意志があれば、自分の主人のこんな姿を見てなんというだろう。慰めの言葉を口にするのだろうか。それとも彼の醜い欲を甘い言葉で包んで隠し、何もかも忘れさせるような快楽を与えるのだろうか。

「でる、でる、いく……ああ、でてる……うっ、まだでる……。はぁー、いったい、どれだけ溜まってたんだ……」
『いっぱい出してね』

 射精した後の疲労感と罪悪感で七海は消えてしまいたかった。それでも彼女と同じ顔をしたドールを無下にできず、汚れを拭き取りホールを取り外して清掃した。彼女が今日着ていたものとはまるで趣味が違う繊細な装飾の胸元が大きく開いたシルクのパジャマに着替えさせるとそっとベッドに横たえ、朝まで共に眠った。

 それから一か月後、仕事中の七海の携帯に珍しく彼女から着信が一件入っていた。録音メッセージ有りのアイコンが付いていたにも関わらず、何も伝言は入っていなかったので留守電に切り替わった時にすぐ切ったのだろう。別件で動いていた七海はすぐに電話に出ることが出来なかったので、ようやくかけなおすことができたのは着信があった三時間後で、彼女の電話番号に掛けたはずなにの何度かけてもコール音が鳴り続けるだけで本人は出ない。七海が諦めて電話を切った三十秒後に掛け直してきた相手は彼女ではなく、今日彼女と行動を共にしているという補助監督からだった。内容を聞いた七海は膝から崩れ落ちしばらく返事ができなかった。何度か電話先の相手から返事を求められようやく「すぐ行きます」と答え電話を切った。

 彼女が死んでしまったらしい。七海は目の前が真っ暗になった。文字通り、本当に何も見えなくなったのだ。それでも何故か気がついた時には高専に着いていて、暗闇の中の光を追いかけたら遺体安置所のステンレスの台の上に変わり果てた彼女の姿があった。