人間の温度

第6話

 七海が自宅の駐車場に車を停めてすぐスマートフォンが着信音を鳴らす。帰宅後にかかってきた電話で良い知らせであった試しがないとうんざりした気持ちで画面を見たら、表示された名前を見て息が止まるかと思った。

「どうしました」
『熱が出てきたみたい。ゼリーと水を買って玄関に置いてて欲しい』

 彼女が弱り果てた声を出しながら助けを求めてきたとわかると、一気に心拍数が上がり端末を握る手に力がこめられる。身体が燃え上がっていく。噴火しそうだ。

「すぐ行きます」
『七海、ごめん。やっぱり言うこと聞いてたらよかった。ごめんなさい。ごめん……』

 蚊の鳴くような声で何度も謝っている。それからゴトンと固いものに彼女のスマートフォンが当たる音が聞こえ、端末を持っていられない程なのだろうと考えた。

「大丈夫。玄関に着いたらコールして帰る」
『ごめん。ありがとう。迷惑かけるつもり無かったのに』
「いいんです」

 急いで車を出すとドラッグストアへ行って数日はもつであろう飲料とゼリー、粥などを買い込み法定速度を大幅に破って彼女の家へと急ぐ。玄関に到着したことを知らせるためコールしたらそのまま帰るつもりだったが、彼女はすぐに電話に出ると「ありがとう」と掠れた声で七海に礼を述べた。今すぐに死んでしまいそうな程声が小さく、不安がどんどん大きくなる。それでも先程の彼女の態度を考えると踏み込むことができない。これ以上拒絶されるのが怖い七海は拳を握り締め荒れる心を必死で押さえつけた。

「生きていますか」
『吐いちゃった。服がゲロまみれで最低』
「片付けます。君が嫌でなければ」
『七海は平気なの』
「平気」
『じゃあ、お願い。鍵開いてるから』
「不用心だ」

 七海は目の前のドアを開けた。生まれて初めて彼女の家に入る。扉を閉めると彼女の家に二人きり。手にじっとりと汗をかいているのが判る。やましい事など何も無いのに、なぜか彼女に悪い事をしていると思ってしまう。家に上がり込んでから、お邪魔しますと挨拶するのを忘れたと思い一気に嫌な汗が噴き出した。不法侵入ではない。玄関に置かれたルームフレグランスから清潔なシャボンの香りがしたが、靴を脱いで室内へ入ると少し酸っぱいような病人の匂いがした。荒れたリビングに彼女の姿は無く、奥の寝室へと進むとベッドの側にへたりこんだ彼女はもう何も出るものなど無いというのに、ビニール袋を張った洗面器に向かって何度も何度もどろどろとした黄色い唾液のようなものを腹の底から吐き出しているところだった。目に涙をいっぱいに溜めて唸りながら嘔吐するその姿を見て、七海は変わってやりたいと思った。息があるのが不思議なくらいの酷い怪我だったので、今ここに彼女が存在していることは奇跡だ。損傷や少しばかりの欠損は反転術式で治癒したと家入は言っていたが、ずたずたに引き裂かれた内臓を呪力で無理矢理戻したら何か副作用があるのだろうか。一通り吐き終えると吐物で汚れたタオルで口元を拭いながら言う。

「ハハ、こんな情けない姿、七海にしか見せられないね」
「それは名誉なことです」

 彼女の隣に座り目線を合わせる。肩を上下させ必死に息を整えながら七海を見据えた。

「引いたよね」
「そんなわけない。苦しいんでしょう」
「うん、苦しい。死ぬかと思った。怖かった」

 彼女は力なく俯くと手で顔を覆いスンスンと鼻を鳴らして泣き始める。手の甲にしていた点滴の痕が痛々しい。

「私にできることは」

 七海は彼女の苦しみをなんとか和らげてやりたいと思ったがその方法がわからなかった。どんな言葉で彼女は楽になるというのだろう。七海がしばらく悩んでいると、彼女は顔を隠していた手を退けてベッドにもたれ掛かり七海に背を向けた。やはり自分では彼女を癒すことができないと七海は悲しくなりうつむいた。帰るためになんと言おうか迷っていると、消え入りそうな声で彼女が呟く。

「背中をさすって」
「……わかった」

 七海は手汗をポケットのハンカチでこっそりと拭う。手が冷たすぎて不快感を与えてはいけないと、手を結んで開いて温めた。微かに震える手で彼女の背中に触れる。許可があったからだ。力加減がわからないが、考えられる限り一番優しく撫でた。七海が触れている背中にはブラジャーが無い。七海の家にあるドールとは異なる。彼女は寝る時ナイトブラなどつけないのかと思った。でもそれは違うと考え直す。苦しくてそれどころでは無いのだ。瞬時に情報を得ようとして、そのうえあの人形と比較してしまう自分の浅ましさを心の中で笑った。彼女に触れてしまうことでもっと自制できないかと思ったが、七海は冷静だった。頭の中の邪念を振り払い、この世の全ての苦しみから解放してやりたい一心でその小さな背中を撫でさすり続ける。高熱のせいで熱い。呼吸も荒い。首にじっとりと汗をかき、髪がへばりついていた。

「家入さんに連絡しましたか」
「した」
「なんて」
「吐き気止めの坐薬を使えって」
「あるんですか」
「冷蔵庫に入ってる」

 七海は立ち上がって冷蔵庫の中から紙袋を取り出して彼女に渡すと、渡された本人は少し嫌そうな顔をした。

「使って。楽になる」
「どうやって使うの」
「ワセリンやオリーブオイルなんかを塗って、尻の穴に入れるんです」
「痛いと思う?」
「さあ」

 彼女は困った顔をしながら袋の中を見て、五つ連なった坐薬を摘まんで眺める。

「待って。ここで入れるつもりですか」
「ごめん。トイレに行く」
「私が出る方が早い。吐き気が落ち着いたら帰ります」
「ごめんね」
「ありがとう、でしょう」

 七海は寝室を出て扉を締めた。部屋の中からパジャマを脱ぐ衣擦れの音が聞こえる。坐薬が入った紙袋をゴソゴソ漁る音がしたと思ったら、一個切り離して個包装を開ける音まで聞こえてきた。薄い扉の向こう側から「ハンドクリームでいいかな」と聞こえてきたので「滑りをよくするだけなのでなんでもいいのでは」と答えてみる。それから息を吐き出した後にくぐもった声が聞こえてきた。しばらくすると扉から彼女が顔だけを出す。

「七海ありがとう。助かったよ」
「いえ。君の力になれてよかった」

 それから彼女はベッドに潜り込み七海へ再び背を向ける。恐らく先程の続きを求められているのだろうと思うが、七海は触れることが出来ずその場に座ったままだった。彼女が小さな声で一言「お願い」と言ったので、ようやくその背に手を伸ばす。また震えていたが彼女に触れると、不思議と心が落ち着き七海の手の震えは治まった。本物の肉体には体温があることを知る。ヒーターのスイッチを入れずとも温かい。彼女の熱や汗に触れたことでこれが生命なのだとわかる。家で七海の帰りを待つ人形は冷たい。はたしてあれは一体何なのだろう。あのドールに勃起したペニスを入れて性的な欲望を吐き出している瞬間を思い出す。今ここにいる彼女はきっと、あんなことはさせない。もっと清潔で、気高く、誰のものでもない。いつから自分は彼女をあんな風にしてしまったんだと罪悪感が押し寄せる。このまま「君のことがずっと好きだった」と言えたらいいのに、今までしてきた事を考えると口に出せるわけが無い。そもそも病人の弱みに付け込もうとしている事に気づき、七海は自分の浅はかさに辟易した。頼られ家にあげられたから気が緩んでいたのだろう。思い出せ。今世では彼女と七海の未来など無いということを。

 十五分ほどして坐薬が効いて吐き気が落ち着いてきたのか、彼女は一段と静かになった。次第に呼吸は深くゆっくりになっていく。恐る恐る反対側へ回って顔を覗き込むと、口をぽかんと開けて子どものように無垢な表情になって眠っていた。

「寝たか……」

 死ぬほどの怪我を負ってもこうやって治される。彼女が生きていてよかったが、傷が癒えたらまた死地へと送り出さなければならないと思うと七海の胸は張り裂けそうだった。静かに寝息を立てる姿を確認すると七海は散らかった部屋を見渡した。脱ぎ捨てられた服、出しっぱなしになった安物の化粧品、コーラの入ったグラス。いつもこうなのだろうか。しかし寝込んだ彼女の家に入り込んでいる立場である今、家主の了解なく片付けることはできないと思いそのままにしておく。吐物や汚れものは処理したし、あとは自分の家に帰るだけだった。彼女が寝た後、鍵を開けっぱなしにして帰ることができずどうしようかとしばらく悩んだ。小さなテーブルの上に置かれたキーケースを見つけ中身を確認したところ全く同じ鍵が二本ついていたので試しに玄関に差し込んでみると、どちらの鍵でも扉は閉まった。鍵を一本持ち帰り後日返却することに決めて彼女の家を去る。持ち帰った鍵の画像と共に『明日返します。何かあればいつでも連絡を』とメッセージを送っておいたのでこれで彼女も安心するだろう。