「目が開いた! 家入さん!」
七海の叫びに近い大きな声が医務室に響く。カーテンを静かに開けて家入がベッドサイドにやってきた。
「七海、落ち着け」
彼女が目を開けたてみたらそこはいつもの医務室だった。手には点滴、鼻にはチューブ、胸にも何かシールが貼られていて違和感がある。更に股の間に何か太めの管が入れられていてジリジリと痛い。それでも身体はなんとか動かせそうだと思ったので手を伸ばしてみるが痛みはなく、今にも立ち上がれそうな気がした。自分が怪我をして医務室に寝ていると言う事がわかると、多くの人に迷惑をかけてしまったと彼女は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。それに横で叫んでいる七海の様子から察するに、割と重症だったらしいと予想する。辺りを見回しているとさっとカーテンが開いて一段と目元の隈を濃くした家入が入ってきて、少し肩の力を抜き彼女に微笑みかける。
「おはよう。気分はどうだ」
「大丈夫です。どこも痛くない」
枯れた小さな声で彼女は返事をし、首を左右に振った。
「良かった、本当に……!」
一筋の涙が七海の頬を伝う。それを見た彼女は顔を歪に歪めて笑った。顔に貼り付けられた栄養チューブを固定するためのテープのせいでうまく表情が作れない。
「はは……、七海、泣いてる。かっこわる」
彼女の弱々しくもいつも通りの調子を聞いて七海は反対側の目からも涙を流した。ぽろりぽろりと大きな粒が落ちて彼の衣類に染み込んでいく。大腿の上で組まれた七海の手は彼女に触れようとしてしまう衝動を抑えるため、きつく強く結ばれ震えている。
「酷い怪我で君は死にそうだった。覚えてますか。私が、君の家に行って手助けする。安静にしてしばらく動かないで。もう誰の目も届かないところに行くのはやめて。一人で死ぬことになる。そんなこといけない」
命が助かり意識もしっかり戻っているというのに悲壮感を漂わせ早口で捲し立てる七海に、家入は落ち着いた声で諭すように言う。
「傷は治ってるから大丈夫だ」
それから彼女の方を向くと痛々しい痣が残る手を取りベッド柵を握らせた。
「一回座ってから、立って足踏みしてみろ」
「そんな! 倒れたらどうするんですか!」
物凄い剣幕で七海が家入に食ってかかるが、鼻であしらわれシッシと手で追い払われる。
「どこまで身体機能が回復してるか診たいんだ。診察なんだよ。七海は邪魔。外に出てろ」
医師の診察を妨げるわけに行かず、「大丈夫なんでしょうね……」と不信そうな声を出しながら七海は渋々カーテンの外に出た。家入は彼女に繋がった管を次々と抜いていく。七海からは何が行われているのか見えなかったが、彼女の身体が医療機器による拘束から解放されていっているらしいということが二人の会話の様子からわかった。
「いつの間にこうなっちゃってたんでしょう。全然わかりませんでした」
「死んでもおかしくなかった。結構骨が折れたぞ。次は無いと思ってくれ。治したが、内蔵をかなりやられてたからしばらく休んだ方がいい」
家入が見守る中、彼女は身体を起こしてベッドに腰掛けた。それからゆっくりと立ち上がりその場で足踏みをして見せる。足取りはしっかりしており帰宅は問題無さそうだった。念のためもう一晩医務室に泊っていくよう家入は勧めたが、彼女は「動けるし家に帰りたいです」と言いその願いは許可された。外から会話を聞いていた七海がカーテン越しに刺々しい声を出して口を挟む。
「もう一晩ここで様子を見た方がいい。言うことを聞いて」
それを聞いた家入は彼女に向かって肩をすくめた。
「七海は悪いが外してくれないか」
「はあ、もう出てますが」
「医務室から出ろってことだ」
七海は黙り込んで動こうとしない。
「プライバシー。早く」
「……わかりました」
渋々出ていく七海を確認した家入がベッドサイドに腰掛けて点滴を抜く。採血の結果も顔色も悪くない。それでも彼女の表情はどんよりと暗く、いつものような活気がなかった。
「最近酷いな。何かあったのか」
七海の事を言っているのだとわかると、彼女は力なく微笑んで溜息を吐いた。
「彼女でもできればいいんですけどね」
「そりゃ無理だな。アイツ童貞だろ」
「そうだとしたら、七海ってかなりヤバイかも」
彼女は口角を下げ唇から舌をべろりと出してふざけて見せた。ただ、そうかもしれないと思わせる雰囲気が最近の七海からはあった。そもそも口数が多い方ではないので誤解される事は多々あったが、その少ない口数からも彼女への妄執ともいえる感情が見え隠れしていた。ねっとりと絡みつく視線、一語一句聞き逃すまいと研ぎ澄まされた聴覚、彼女の行く先々にある七海がいた痕跡。気づかないわけがない。
「哀れな男だ」
「私、七海が怖いんです」
抜かれた点滴の痕を強く押さえながらぽろりと溢す。口から出た後にしまったと思ったが、家入はその言葉を聞くとふっと声を漏らして微笑み、彼女の肩に手を置いて忍笑いをしながら言った。
「熱狂的だからな」
「アハハ、殺されるのかな……」
頬を指先で掻きながら彼女が俯いて答えると家入はまた喉を鳴らして笑う。
「命までは奪わないだろ」
果たしてそうだろうか。
いつもの真っ黒な仕事着に着替えた彼女は歩くとやはり、少しふらついた。長い間意識が無く運動していないので筋力が落ちているようだがなんとか生活はできそうだった。医務室を出ると頭を抱えてベンチに腰掛ける七海と目が合う。涙は引っ込んでいたが地獄行きを宣告された死人のような顔をしていた。彼女はそんな七海を見て呆れた表情をみせる。
「一人で平気だから来ないでね」
「あれだけの大怪我をして輸血も山ほどしたのに平気なわけが無い。家入さんも安静にしろと言ってた。医者の言う事が聞けないんですか」
間髪入れずに七海は答えた。目つきは鋭いが怒りよりも悲しみと苦悩を浮かべている。
「もう治してもらったし、一週間休み貰ったから」
「駄目です。お願いだから、一つでいいから、言うことを聞いて。あんな姿もう二度と見たくない。どれだけ心配したか……、わかるでしょう……」
七海は彼女に縋るように言う。それはとても悲痛な訴えで、同期が死にかけた彼の心中を考えると当然のように思う。しかしその姿を見ていた彼女の瞳には困惑が浮かぶ。
「七海。怖いよ。どうして?」
それは今にも泣きだしそうな声色だった。七海ははっとして彼女を見上げる。怯えた表情をしていた。気持ち悪い事を口走ってしまったかもしれないと後悔したが、一度口から出た言葉を取り消すことはできない。
「それは……。君が、もう、一人しかいない、私の同期だから、気にかけているだけです」
そしてこうやって、しどろもどろになりながら言い訳じみた言葉を並べるしかなかった。
「そう。わかった。今日は一人で帰る」
理解できないと七海を見る彼女の視線が容赦なく刺さる。軽蔑されていると七海は感じた。頭に浮かぶ釈明の言葉が口をついて出そうになったが、彼女の表情を見てなんとか思いとどまった。これ以上踏み込まないでくれと遠ざけようとしているのだろう。七海は彼女の理解者でありたいと思っているが、腹の底に溜まっている汚濁した積年の想いが掻き乱されている今、冷静な判断など到底できない。無理矢理にでもついていきそうになるところをぐっと堪え、なんとか一人にさせまいと考える。
「それだけはどうしても許せない。別の人間に送ってもらうよう頼みます。何かあったらすぐ連絡を。約束してください。絶対無理をしないと」
「ごめん。無理はしない。約束する」
「謝ることなんて無い。君を怖がらせるつもりは無かった。早く帰ってゆっくり休んで」
七海は立ち上がり誰かに電話を入れた。彼女にここで待つように告げると、それ以上は何も言わずに背を向け歩き出す。その背中には寂しさと絶望が満ち溢れていて、すれ違った補助監督にまでそのまま入水自殺でも図るのではないかと思われたほどだった。それでも彼女は立ち去る七海の方を一度も見なかった。