買い物袋を提げながら蒸し暑い夏の夜道を歩き、二人は女の部屋に戻った。室内には既にこれといった荷物はなく、中くらいの段ボール三箱に収まったのでコンビニへ行って配送を依頼しておく。家電や小型のキャビネットは明日リサイクルショップに引き取りを依頼した。捨てたほうが早いと言ったのに、廃棄処分するより引き取ってもらうほうがちょっとでもお金になるのでお得だと女は言う。関西人の好きな言葉ベストスリーにランクインしているという『お得』には勝てず、七海は首を縦に振らざるを得なかった。お金に困っているわけではないのでそんな手間をかけることさえ煩わしかったが、捨てるにも手間がかかることを考えると引き取りに来てもらった方がお得なのだろう。
一通り片付け終わると、本当に何もなくなった。空っぽの部屋でも、ここで過ごした数年は女にとって当たり前の日常だった。京都校へ転校してから東京校の面々と会う機会がないわけではなかったが、あっちはあっちで色々と揉めていたので学生の立場で何もできず、与えられた仕事をこなすのみだった。前衛に出て直接的な戦力になれないので、普段は地方に祀られた呪物の見回りや聞き込み調査などを担当していた。単体の戦闘には向いておらず有事の際にのみ駆り出されるだけだった女は、どんどん無力感を募らせた。やがて一人、また一人と離脱していく。表に立って死ぬこともできず、自分の価値や生き方を考えて煮詰まって焦げ付いていた時に七海が大阪へ来ると聞いて、どれほど嬉しかったことだろう。
荷造りを終えて一段落したとき、ベッドに腰掛けてスマートフォンを眺める女の視界を七海の手が遮った。端末の電源が落とされ、ベッドの下に置かれる。ひどく軋むシングルベッドに女をそっと寝かせると、七海が覆いかぶさり官能的な吐息を漏らす。Tシャツの裾から差し込まれる手を、女が止めた。
「あの、ここは壁が薄いから、これ以上はストップ」
「アナタが静かにすれば問題ない」
「七海も割と声は大きい方やから」
「誰と比較されてるんでしょうか。許せない」
「アハハ。七海、拗ねてる」
「でも誰かとしてたんでしょう、ここで。枕元にあった開けたばかりのコンドームがその証拠です」
「過去のことは水に流しましょ、って話で落ち着いたんちゃうかったっけ?」
狭いベッドで押し問答をしていたその時、隣家から壁をコンコンと叩かれた。やはり聞こえているらしい。二人は肩がびくりと跳ねさせ、目を見開いた。しばらく静かに見つめあっていると、急に女は大爆笑しはじめ、七海はばつが悪そうに口をへの字に結んだ。
「治安が悪すぎる」
「だから、隣の家の音とか丸聞こえやねんって。ホテル行こ!」
「誰かもわからない人がセックスした後のベッドに寝たくない」
「ここも一緒やん。じゃあさっさと寝よ。明日早いやろ」
うだうだ言う七海から身体をくねらせなんとか這い出て、衣類を整えながら女が言う。七海はベッドに足を組んで腰掛けると、むっとして唇を尖らせた。
「やらないとは言ってない。行きましょう」
「嫌なんちゃうかったん?」
「毎回清掃されているぶん、ここよりホテルの方がマシだと判断した」
「ハァ? なんなんそれ。めちゃくちゃめんどくさい男」
女は盛大なため息を一つ吐いたあと、太ももをぱちんと両手で叩いて勢いよく立ち上がった。財布と電話くらいしか入らない小さすぎる鞄を肩にかけ、靴を履いて準備は終わり。七海が髪をセットしてジャケットを羽織ろうしていたら「暑いからやめとき」と女に制止されたので、上着は渋々置いていくことにした。
再び夜の街に繰り出した二人は歓楽街を抜け、少々いかがわしい雰囲気の建物が立ち並ぶ筋へと入っていく。ぎらぎらと輝くネオン街を歩いていると、どうみても客とホステスにしか見えない人たちや若いカップルなど様々な人間が行く当てもなく歩いている。風船が風に揺られるようにたゆたう彼らはどこへいくのだろうか。すれ違っても決して誰も目を合わせず意図的に視線をはずしていて、なんだか変な感じがする。ホテル街独特な雰囲気なんてなんのその。女は慣れているのか土地勘があるのか、七海と手をつないだままずんずんと歓楽街の奥へと進んでいく。
「詳しいんですね」
「いちいちそういうこと言わんといてくれへん?」
「……複雑な心境です。声に出さずにはいられない」
気乗りしないのか七海は落ち着かない様子で女に手を引かれていた。こういった場所では男がリードする場面なのだろうが、見知らぬ土地のホテル街を率先して歩く配偶者の姿に動揺しないものはいないだろう。いよいよラブホテルが立ち並ぶ地区にやってくると、様々な趣向を凝らした外観が目に入る。豪華なお城風の外観が異様に目立ち、視線を逸らすことができない。反対側にはネオンサインがこれでもかとあしらわれたホテルが見える。七海がキョロキョロあたりを見ているとにやにやとほくそ笑む女がからかうように言った。
「あれぇ、七海クンってこういうとこ初めてなの……?」
「通いなれているアナタとは違う」
「通ってないわ! 失礼な!」
「いいからさっさと入りましょう。時間がもったいない」
七海は女の手を引っ張ると、モダンなたたずまいの無難すぎるホテルへと連れて入った。フロントで迷わず一番高い部屋を指定して、キーを受け取った。女は驚いて七海のシャツの裾を引っ張って目を丸くしているが、うるさいとでも言わんばかりにその手を振り払い、エレベーターに乗り込む。誰ともすれ違うことなく最上階へと行くと、隣の部屋から清掃スタッフが出てきたと思ったら、視線を合わせずそそくさとバックヤードへと消えていく。その姿を横目で見て二人は部屋へと入った。
広々とした空間にアロマの良い香りが広がっている。七海はさっさと靴を脱いで部屋へと入っていった。のろのろと靴を脱ぐ女を再び引っ張り、広い胸の中に抱きすくめる。二人は既に息を荒げており、心臓の鼓動はどんどん早くなっていく。
「もう待てない」
「いまさっき、靴脱いだとこ」
「ベッドへ」
「誰か知らん人がセックスしたベッドやけど?」
「そんなことはどうでもよくなってきた」
「シャワーは」
「わざとですね。ここのところずっと振り回されて散々です。今日は覚悟してください」
七海の言葉を聞いて女はぞくぞくと身震いした。抱きしめられたまま七海の胸に額をこすりつけてシャツを握りしめ、もう待ちきれないとでも言うように熱い吐息を漏らす。
「ここ来るまで、ずっとドキドキして、私ももう、限界」
そのまま抱きかかえベッドに落とすと女は自ら服を脱いだ。七海も乱暴にシャツもボトムも脱ぎ捨て、下着は丸まったまま床に放り投げられた。こんなときはさりげなく照明をおとして、甘い言葉を囁くべきなのだろう。しかし今の二人にそんな余裕なく、獣のように互いを貪りあうのみだ。性器に触れるとどちらも言い訳できないくらい昂っていて、女はそのまま七海を自らに導き挿入を促す。いれるだけのセックスなんて交尾も同然だが、もう一秒たりとも我慢できない。そのまま押し入れると何の抵抗もなく入っていき、強く締め付けられ意識がぶっ飛びそうだ。夢中になり腰を打ち付け続け、組み敷かれた女も言葉にならないくらい感じている。幸福とは少し違う、飢餓状態から脱するときのような高揚感。しばらくして七海が果てると、女は息も絶え絶えに「もっと、したい」と漏らす。誘う言葉とともに口角から流れ落ちる唾液を七海は舌で掬い取り、深く口づけた。
後のことはあまり覚えていない。始発電車が運行を始めた音で朝になったことに気づいたくらいなのだから。
***
外が明るくなってきたら少し冷静さが戻って来た。ベッド周囲は荒れ果てている。ベッドボードにあるペットボトルは空だった。喉が渇いたとぼんやり考えていると、一糸まとわぬ姿の七海が水を持って現れ「どうぞ」と手渡される。一気に飲み干すと大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。二人とも疲れ切っていた。
「体中が痛いしめちゃくちゃ眠い」
「まさか一晩中やりまくってしまうとは」
「覚えたての高校生かってくらいやったな、七海」
「イキまくってへろへろになってた人間に言われたくない。それに何回も潮を噴いてベッドがびしゃびしゃです。清掃の方に謝ってください」
「ワー! 改めて言わんといて!」「もう勃たないと言いうのにフェラチオをやめないし、自分から私の手をとってクリトリスを触らせてくるし、挙句の果てに唾液を飲ませてきてちょっと淫乱がすぎますね」
「なんでそんなにしつこく淫語で責め立てるん? ねちっこいオッサンみたいで嫌」
「少し休憩したらまだいけそうな気がしてきた。もう一回」
「底なし……」
最終ラウンドを終えベッドでぐったり倒れこむ二人はもう眠ることを諦めてシャワーを浴びた。そこら中に散らばっている服を集めて着ると、妙に罪悪感が湧いてくる。何も悪いことはしていないはずだが誰かに言い訳をしたくてたまらなくなった。ベッドを汚してごめんなさい。朝までセックスしてごめんなさい。こんなに満たされてしまってごめんなさい。頭を抱えてうずくまっている女を見て七海は不思議そうな顔をした。女の肩を叩き、もう出ようと促す。女はよろよろと立ち上がり扉を開け、フロントで清算する七海の横でそわそわしていた。
「あの、」
言いにくそうに女がホテルのスタッフへ声をかける。
「どうかされましたか」
「お布団を汚しちゃって、ごめんなさい」
「大丈夫ですよ。行ってらっしゃいませ」
優しい声色で柔らかにほほ笑まれ、女は肩の力が抜けた。別に謝る必要はないのだが、なんだが気持ちが落ち着かず誰かに大丈夫だと言ってほしかっただけなのかもしれない。
ホテルを出ると七海が困惑した様子で口を開く。
「謝ってというのは、冗談のつもりだったんですが」
「なんか悪い気がしちゃって」
「何も悪いことはしていない。気持ちよかったんでしょう」
「そうやけど、この幸福感が怖い」
「もう絶対、どこにも行かないと約束しました」
女はその存在を確かめるように七海の手をとりぎゅっと握った。大きくて温かな手だった。朝のホテルを出ると誰もいなかったが、なぜか誰にも見つかってはいけないという気持ちになり女は小走りになって七海を引っ張っている。学生は学校へ、大人は職場へそれぞれ向かい始業して少し経ったころだろうか。夜に見たギラつきはなりを潜め、ひっそりとしていた。昨夜とはまた違う顔を見せる大阪の街を見て、七海は温もりを感じていてた。人との距離感がなんだか少し近いような気がする温かみのあるこの街で、女は暮らしていたのだ。寂しくありながらも腐りきることなく生き抜いてまた再会できたことを、大阪の街に感謝した。三角帽子と眼鏡の人形や大きなカニに「かまへんで」と言われたような気がする。眠い目をこすりながらとぼとぼ歩く女を横目に、七海はとあることを予測する。多分この歓楽街を出たら女は「お腹がすいた」と言うに違いない。もし当たれば今日はいいことがある。はずれてもきっと、この女と一緒ならばそう悪いことは起こらないだろう。
しばらく歩いていると、女が力の無い声で言う。
「なんかお腹すいた」
「ほらでた」
駅に近づくと予想通りの言葉が出てきて思わず反応してしまう。女は片眉をぐっと持ち上げ、怪訝な表情で七海を見た。近隣に自家焙煎珈琲店があるというのでそこへ行くことにした二人は、重い身体を引きずって歩いていく。歓楽街の中ほどにあるその店はこじんまりとしていて、レトロな雰囲気を漂わせている。喫茶店のわりには開店時間が遅く、最終ラウンドが無ければまだ店は閉まっていただろう。店の外からでも香ばしい香りが漂い、良質なコーヒー豆を使用していることを確信させる。開いたばかりだったが、店内は数人の客が着席していた。
テーブルに水が置かれ、七海はハムのホットサンドとマイルドブレンド、女はトーストとブレンドを頼んだ。席に着くととたんに疲労感に襲われる。無理もない、一睡もしていないのだから。それにただ寝ていないだけではなく、激しい運動を伴う行為もあったので肉体の疲労は限界に達していた。目を閉じると今にも眠ってしまいそうになる。家電の引き取りが正午過ぎの約束で、そこから不動産屋に挨拶をして退去の立ち合いがある。荷物は昨日送っているから、明日の夜には着くだろう。手にもてる程度のものはそのまま新幹線で持ち帰ることになっている。少しでも休む時間があればいいのだが─。ぼんやりと今日の動きを考えていたら、モーニングが運ばれてきた。七海が一口コーヒーを飲む。爽やかな酸味と豊かな芳香が鼻に抜けていく。透き通った上品な香りは冬の太陽の光を思わせ、想像通り穏やかな味だった。女のブレンドはこの店で最も頼まれているという。コーヒーを構成する要素である酸味、甘味、苦み、香り、コク。程よくバランスがとれいてる。いつ何時何杯飲んでも飽きがこず、誰にでも好かれるだろう。毎日でも飲めそうな味だ。この店では海外で受賞した豆を輸入し、不良豆を一粒ずつ選別して取り除くハンドピックが行われているという。豆の焙煎前後に行われているので、雑味を全く感じないのだろう。店内も美しく手入れされ、その丁寧な仕事ぶりがうかがえる。レタスとハムがはさまれたホットサンドは程よく焦げ目がついて香ばしく焼き上げられていた。食パンをかじるとサクッと良い音がする。チーズがとろとろと溶け出し、糸を引く。シンプルな味付けでどこか懐かしさを感じるような、心が温まる味だった。七海は口の中を火傷しないように注意しながら、ゆっくりと食べすすめた。一方女は厚切りトーストにバターを塗って大きな口を開けていた。ひし形をした小ぶりな犬歯がちらりと見え、七海はなんだか可愛らしく思った。あまりの眠さにぼんやりトーストを頬張って七海の眉間あたりを見つめてもぐもぐと口を動かしている。パンを一口かじり、コーヒーを啜り、またパンを食べ、コーヒーを飲む。その一連の動作を無意識のうちに繰り返しながら、瞼は今にも閉じられてしまいそうだ。コーヒーを飲んで少しは目が覚めるかと思ったが、どうも眠さが上回るらしい。
二人はもうここから歩ける気がせず大通りでタクシーを呼び、女の家に帰った。正午まで少しだけ眠り、片づけを終えたら明日から東京へと生活の拠点を移動させる。東京にもおいしいものはたくさんあるはずだ。二人で過ごす新たな生活に期待を寄せながら、長く過ごした地を離れるので少し寂しい気持ちもある。喪失とまでは言えないが、自分を構成する何かが一部欠如したような、そんな気分になった。取り留めも無い考えが浮かんでは消えていく。狭いベッドに無理矢理二人で横になると、すぐに眠りに落ちてしまった。