強引な七海にのせられトントン拍子でことが進み、東京に来てはや一週間。京都校の人達からずいぶんと驚かれたが仕事は意外となんとかなるもので、引き継ぎはリモートで済ませてあとは事務手続きのみ。しかし、身体ひとつで来てしまったから、何も持ってきておらず女は困っていた。持っているものといえばスマートフォンと財布くらいで、近所のスーパーに出かける程度の軽装だ。このまま七海の家で一緒に住むことは決まっているけれど、荷物の整理に家の引き上げなど諸々のために一度は帰らなければならないだろう。
「ちょっとあっちの家をなんとかせなアカン」
「早急に引き払いましょう」
あれよあれよという間にまたもや七海の手により新幹線のチケットが手配され、再び二人で大阪に向かうことになった。一人で大丈夫だと何度も伝えたのに、どうしても一緒に行くと言ってきかない。女より遥かに忙しいであろう一級呪術師のスケジュール調整をしている人物のストレスが心配だ。そこまで荷物は多くないにしても、片付けたり色々な手続きをしたりするには時間がかかる。もともと休みだったと言う七海の言葉は本当だろうか。東京校では大人だの常識人だのと言われているらしいが、再会してから今までの様子からとてもそのように見えないと女は思った。今だっていそいそと家を出る支度をして女を急かしている。こちらの都合はお構いなしに強引に事を進められ、気が付けば結婚して一緒に暮らすことになっている今の状況を冷静に振り返ってみると、正気の沙汰とは思えない。今だって女がモタモタと靴を履く間でさえ、何度も腕時計を確認しては時間が無いから早くしろと急かす。そんなに急いでもどうせ新幹線は時間にならないと来ないし、大阪まで二時間半はかかる。しかしまあ、わかりやすく嬉しそうにしているのを見るのは悪くない。意気揚々と駅に向かって歩く七海を見て女は困ったように笑いながらついて行った。
数時間後の大阪市内。繁華街を少し進んだその先は、下町感溢れる閑静な住宅街だ。聞きなれない地名ばかりで異世界に迷い込んだような気分になってくるが、ここは同じ日本らしい。最近よく聞くイントネーションがそこらじゅうに溢れていて、七海は不思議そうに周囲を観察し、女は懐かしさを感じながら街を眺めた。七海の見知らぬこの街で女が一人で暮らしていたと思うとなぜか切ない気持ちになってくる。七海はこの地で過ごす女の顔を知らない。
入り組んだ路地を何本が抜けると、こじんまりとしたアパートにたどり着く。とてつもなく古いわけではないが、特別新しくもない三階建ての小さな建物。道路側の一階角部屋オートロックなし。郵便受けは玄関ドアポストのみでたくさんのチラシが無理矢理突っ込まれている。どう考えても女の一人暮らしには不適切なこの物件の一角に女が暮らしていたと思うと、七海の心中は穏やかではない。
「セキュリティが甘すぎませんか」
「ドロボーに盗られるモンなんか何もないから大丈夫やって」
女の小さすぎるバッグから取り出された鍵は、廃墟の倉庫でも開きそうな安っぽさだ。前の住人の退去後、鍵交換はされているのだろうか。鍵穴もヘアピンやハリガネでも簡単開きそうに見えて、七海は思わず顔を顰める。
「女を狙う悪人は泥棒だけじゃない」
「こう見えても私、戦う乙女やもーん」
女は七海の言うことを軽く流し、ペラペラの鍵をおもちゃみたいな鍵穴にグサリと差し込んだ。雑にガチャガチャと回すと玄関がひらく。ギィっと物々しくドアが軋む音はホラーゲームで聞いたような気がする。部屋の中からむっとした熱気が漂ってくる。中は真っ暗で何も見えない。
「お邪魔します」
「七海んちみたいにスリッパとか無いからな」
二人は靴を脱ぎ部屋に入る。玄関の灯りを付けると、その奥には何とも言えない寂しげな空間が広がっていた。外観から想像するよりかは小綺麗なワンルームだったが、生活感がまるで無い。色も三色くらいしか見当たらず、物置小屋のように殺風景だ。七海が呆気に取れれていることなんて気にも留めず、女は乱雑に靴を脱ぎ捨ててすぐにエアコンのスイッチを入れた。暑いなあと小さな声で呟きながら、額から流れ落ちる汗をハンカチで拭った。続いて七海も部屋に入る。玄関で靴を揃えていると、玄関のドアスコープを隠すようにかつて七海と灰原と女三人で撮った写真が安っぽいフレームの写真立てに入れられ、飾られていた。日焼けしているのか経年劣化なのか、写真はかなり色褪せてしまっている。見てはいけないものを見つけてしまったと、七海はすぐに目を逸らした。部屋に入ってぐるりと辺りを見渡す。何も無いキッチン。小さな冷蔵庫。床に直接置かれたテレビ。端っこのテーブル。安そうなパイプベッド。小さすぎるキャビネット。女性の一人暮らしの部屋とは、こんなに殺風景なものなのだろうか。女はここで、一体どんな日々を送ってきたのだろう。
「仕事で着る服があればいっか」
女がクローゼットを開けると、ハンガーにかけられた数枚の衣類があった。女性にしてはあまりにも少ない。女はわざとらしく七海の反応を見ないようにしながら、ブルーの大きなショッピングバッグへ適当に衣類を詰めてクローゼットを閉めた。もう何も無いらしい。
「ビアガーデンの時に着ていた服は」
「あれは友達が貸してくれた」
「靴も?」
「靴も。髪のセットも。ぜーんぶ」
「どういうことですか」
「どういうことですか、と言われましても。男子とご飯行くーって言ったら家に呼ばれて気づいたら、あの状態やったって感じやな」
ハハハと乾いた笑いを交えて女が説明したが、七海には女が何を言っているのか全く意味がわからなかった。あの日のデート用の装いだと思っていた可愛らしいコーディネートは、すべて友人のプロデュースで私物では無かった。一体誰が、どんな入れ知恵をされ、どのような感情を抱き、あの恰好で来たのだろう。七海はどういった反応が適切なのかわからず、ひどく困惑していた。異性に会うためお洒落したいと友人に頼んだのか、おせっかいな友人が女の意思に反した装いにしたのか。どちらにせよあの日、普段履き慣れないヒールで歩いたから靴擦れをしたのだろう。前からある、誰かのために用意されたものの使い回しではなかった。レンタルとはいえ七海のために選ばれたものだったことになぜか安堵した。下心を抱いていたのは七海だけでは無かったのだと思えたからだ。
続いて七海はキッチン周辺を見渡す。料理を全くしていないというのは本当のようで、調理器具はひとつもなく、水を飲むグラスさえ無かった。小さな冷蔵庫を開けると缶ビールが二本だけ入っていた。異様な光景に黙っていることができず、七海が口を開く。
「本当にここに住んでたんですか。何も無さすぎる」
「寝るために帰ってただけやから」
「それにしてもモノを持たなさすぎでは」
「寝る以外家でやることないもん」
女は飲みかけのペットボトルの中身をキッチンへ流し、分別もせずゴミ袋に投げ入れた。そして部屋の隅へいくと、無造作に置かれていた引っ越してきた時そのままのダンボール箱を組み立て、床に置いてあった何かの資料と数冊の本を入れた。七海が小さなテーブルの方を向くと、女が薬袋をさっと鞄にしまいこむのが見えた。何か病気を患っているのだろうか。それとも都合の悪いことでもあるというのか。七海の視線に気づいているくせに、女はなんでもないふうを装ってキャビネットの中を片付け始める。
「隠すな」
「何が?」
「薬。何飲んでるんですか」
「隠してない。生理前にしんどくなるから低用量ピルのんでるだけ」
女は棚の中身をゴソゴソと漁りながら顔を上げずに言い放つ。七海を全く視界に入れようとせず、何か隠し事をしているのではないかと疑われても仕方がない態度だ。続いて女が口を開く。
「まあ、しょっちゅう飲み忘れるからあんまり意味無いけど」
乾いた笑い声を響かせながら言う女に、これ以上ないほど腹が立つ。どうして先程から目を合わせようとしないのだろう。何もやましいことがなければもっと堂々とすればいい。それなのに、女はあからさまに七海と目を合わせようとしない。それだけでなく、先ほどからずっと背を向けている。今だって七海の存在を無視して棚の中から通帳やら印鑑やらを引っ張りだし、ビニール袋に無造作に突っ込みダンボール箱へ投げ入れているではないか。存在を無視されているような気がするし、私生活を隠そうとしているようにも思えて七海は不安と焦燥が混じった複雑な感情を抱いた。意識的に七海に背を向けて作業を続ける女の後ろ姿に非難するような視線をぶつけてみても、全く振り返る気配はない。荷物を漁る音以外は静かな空間の居心地は最悪で、こんなはずではなかったと七海は思った。東京へ住まいを移すために、遅かれ早かれここへ戻らなければならなかったのは確かだが、女の生活や過去を知りたいという気持ちも多分にあった。女の暮らしていた街はどんなところだったのか。どんな景色を見て何を思い、日々の暮らしを営んでいたのか。どこで買い物をして、何を食べて、一人の夜をどうして過ごしていたのか知りたかった。単なる好奇心だけではない。離れて暮らした十年間を埋められるかもしれないと思ったからだ。七海の釈然としない心持ちをよそに、女は無言で荷物を片付け続けている。ひたすら待ちぼうけを食らう七海がふとベッドの頭元へ視線を移すと、小学生の時から使っていそうな古びたキャラクターものの目覚まし時計の隣に無造作に置かれた開封済みのコンドームが見えた。乱雑に置かれているせいか、中身がいくつか飛び出している。七海は薄さを追求したらしいそれの個包装パッケージをつまみ、女の眼前に差し出した。
「なぜ、こんなものが」
「ずっと前に元彼が置いていったやつ」
「使用期限がかなり先なので最近製造されたものです」
「なにそれ探偵?」
そう言って女は顔色一つ変えずにそっぽを向いた。聞いてくれるな。お前には関係ないと言われているような気がしてならない。
「誤魔化さないでなんとか言ってください」
「いつ買ったんかまでは覚えてないけど、最近は使ってない」
「交際相手がいたんですね」
「ソーダヨ。もうおしまい。過去の話。忘れよう」
あくまでも、はぐらかすつもりらしい。ポンポンと調子よく返事が返ってくるのはいつものことだが、普段の軽口と似ているようでまるで違う口ぶりに七海は心底腹が立った。女が過去にどこで誰と何をしていようが、今更責める権利など無いことはわかっている。答えを濁してやり過ごそうという態度にムカついている。目の前にあるこの量産型の安いベッドで、女が七海以外の男を受け入れ身体を重ねていたという事実を無視できない気持ちもある。けれど、それならそうと、隠さないで欲しい。寂しさも切なさも過去も未来も、全て受け止める覚悟はできている。今生きて目の前にいてくれさえすればそれでいい。
「だから一人で来たかった。七海がごちゃごちゃうるさいもん」
唐突に不機嫌さを隠すことなく、低い声で女が言い放つ。七海はその態度にもますます腹が立った。事実をそのまま言えばいいのに、はぐらかしたり黙り込んだりするから、不都合なことがあるのではないかと勘ぐってしまう。もし何かあったとしても、正直に話してくれたら許すつもりだと七海は憤る。それがそのまま言葉にも態度にも出てしまう。もう止められない。
「過去のことをとやかく言うつもりは無いんですが、隠さないで欲しい。別に責めるつもりもありませんし」
「責めてる」
「責めてない。適当にはぐらかすから嫌なんです」
「なーんにもやましいことはない」
「じゃあその元彼とは切れてるんですよね。当然ですが」
七海の問いかけに答えず背を向けたまま、再び荷物をゴソゴソ漁りだした。いつもは聞いていないことまでベラベラと話す癖に、都合が悪くなればだんまりを決めるこの態度が許せない。やはり何かやましいことがある。そういえば、東京に来てからもこそこそと電話やメッセージのやり取りをしているようだった。仕事の話かと思って放っておいたが、もしかしたらこの元彼とやらとだったのかもしれない。もしそうだとしたら、素直に結婚したと言えばいいし、しつこいようなら電話を替わってもいい。七海は東京に連れて行ってからの女の行動を思い出していた。そういえばこのとき。ああいえばあのとき。疑わしい点がいくつもあるような気がしてくる。
「黙ってないでなんとか言えばいいのでは。そういう態度が誤解を生む」
七海が女の肩を掴み、無理矢理自分の方へ向かせた。女は不機嫌そうに唇を歪めている。揺らめく瞳をじっと見つめたが、女は視線を合わせようとはしない。沈黙が続く。このまま何も言わずやり過ごそうというのだろうか。秒針と隣家のテレビの音声が静かな室内でやけに耳についた。生活感ゼロのボロアパートでこの女はどんな生活を送っていたのだろうか。孤独に耐えきれず、誰かの温もりを求めていたのだろうか。自身のあずかり知らぬところで誰かと肌を合わせていた生々しい形跡を目にして、七海は冷静さを欠いていた。責めるつもりはないなどと口にしながら、女の不穏な態度が許容できない。ほら早く何とか言ってみろと女の反応を伺うが、当の本人は何も口にしようとせず突っ立ったまま唇を噛んでいた。しばらく二人とも黙り込んでいたが、女の目にじわじわと涙が湧いてきた。七海はまた泣かせてしまったことに気後れし、女の薄い肩を掴んだままの手をそっと離した。堪えきれない涙が一粒流れ落ちたと思ったら、女は七海の胸に額をくっつけグズグズと鼻をすすりながら呟いた。
「今はもう、七海がおるから、全部どうでもいい」
いつもはヘラヘラしてやり過ごすくせに、こんな時だけしおらしく泣いてみせる。愛しているのに苦しい。愛しているからこそ知りたい。そんな態度に呆れつつも何かよっぽどの事情があったのだろうと、女の背中に腕を回して抱きしめた。素直に抱き返してくるので頭や耳に優しくキスを落とす。女は特に反応することなく七海の腕の中でしばらく静かに呼吸を整えようとしていたが、次第に嗚咽を漏らして泣き始めた。七海の胸に頭をく押し付けたままうつむいている。ぽたぽたと涙が床に落ちたと思うと、ダムが決壊したように声をあげて泣いた。
「灰原の、ことも」
「はい」
「七海が、辞めたって、聞いた、ときも、わ、わたし……」
女の言葉が七海の胸を衝く。辛い想いをさせた奴がいるなら許せないと思ったら、自分自身だったとは。心臓が止まりそうなほど締め付けられ、ギチギチと音を立てて軋んだ。心臓はただのポンプで、全身に血液を送るためだけの臓器だ。それ自身が意思を持つわけではないく、人間の心は脳にある。ハートは揚水機で、マインドはブレインに存在するのだと何かで読んだ。それなのに、なぜこんなにも胸が苦しいのだろう。七海を貫いた女の台詞が突き刺さって抜けない。何年もその痛みを胸にしまい、一人では抱えきれずにいたことが今になってわかったって、もうどうすることもできないではないか。七海が震える手で女を強く抱きしめると、七海の背中に回された女の細い腕に力が入った。抑えきれない衝動に突き上げられ、このまま潰してしまいそうだった。奥歯を噛みしめ耐えていると、女が泣きながら「もっと」と呟いた。なるほど。このまま抱きしめてやればよかっただけだと、七海は更に力をこめる。女の口から苦しそうな吐息が漏れたと思うと、秘め事を打ち明けるようにささやく。
「わたしには、七海だけ」
「もう絶対どこにも行かない。私の全てはアナタと共にあります」
七海の胸の中はあたたかい。ゆっくりと拍動する心音が聞こえ、もう大丈夫だと言われているような気がした。女は七海のシャツの袖口で涙と鼻水を拭うと、ゆっくりと顔をあげた。濡れたまつ毛に部屋の蛍光灯が反射してきらきらと輝いている。七海は女の紅く火照った頬に手をあて、優しく撫でるとそのままゆっくりと顔を近づけ口付けた。いったん唇は離れたが吐息が触れ合う距離でしばらく向き合う。もう一度下唇を食むようにキスをすると、しょっぱい涙の味がした。
「すみません。ここがあまりにも空っぽで」
「あの時にもう辞めようと思って荷物を一回全部捨てたけど、結局つまかって、ズルズルやってる。今も」
「捕まったおかげで再会できたということにしておきましょう」
女の頭に手を乗せてぽんぽんと撫でてやると、嬉しそうにはにかんだ。こういう表情もできるのかと七海は思った。今日は七海の知らない顔だらけだ。
「はー。泣いたらなんか疲れたしお腹すいた」
「同じく。アナタといると感情が忙しい」
「ここからちょっと歩くけど、珍しいカレー屋さんがあるねん。どう?」
「望むところです」
先ほどまで感情を露わに涙を流していたくせに早くも普段通りの調子に戻っている女を抱きしめながら、七海は得も言われぬ充足感に包まれていた。そんな七海とは裏腹に、女は七海の胸の中で痛いだの放せだの文句を言いながら七海を押し返そうと躍起になっている。しばらく押しても引いてもまったく動じないので、女は諦めてだらりと四肢を脱力させた。そのまま抱きかかえられベッドに放り投げられる。女が食事をする流れだったと文句を言うと、七海は声を上げて笑い、着替えさせるだけだという。少ない洋服たちを引っ張り出す。あきれるほど何もない。よくわからないロゴの入った白いティーシャツを投げて渡したら、カレーがついたらとれないと言う。仕事で着ているであろう黒いVネックのシャツを無理矢理着せた。パンツはスキニーデニムと黒いスラックスの二本しかなく、全身黒にするわけにもいかず仕方なくスキニーデニムを選ぶ。選択肢が少なすぎるし、身体のラインが出すぎている気がする。
「若干きついのでは」
「確かに胸のところが。巨乳美女でごめんな」
「……」
「ひどい!」
渾身のボケを無視した七海に手足をばたつかせながら女が苦情を言う。聞こえていないふりをしながら七海は女を再び抱き上げた。されるがままになっていると玄関で降ろされ、靴下とスニーカーを履かせた。
「なんで着替えんの」
「この街で過ごすいつものアナタが見たくて」
女は興味なさげに生返事をして玄関の鍵をかける。本当に、七海は昔からよくわからない。
***
女の自宅から約二十分。少し日が落ちてきたとはいえまだまだ気温は高く、住宅街を抜けて繁華街に差し掛かると人も多くなりさらに蒸し暑さを感じる。東京と同じようなチェーン店が所狭しと並ぶなか、昭和を思わせるレトロな喫茶店や個人経営の飲食店もたくさん残っており、この街が人々から愛されているのだろうということがわかった。そこかしこから聞こえてくる関西弁のせいか、街全体がにぎにぎしい。それはそうと、待てど暮らせどカレー屋に着かない。
「歩く距離がちょっとどころではない」
「自転車で行ったら早いねんけどなあ。もう着くから」
街の中心地の在り方というのは東京も大阪もさして変わりはないが、なぜかこちらのほうがより活気があるように思う。飛び交う言葉が違うからだろうか。大人も子どももみんな楽しそうにお喋りしながら歩いている。その一部に自分たちが溶け込めているようで、七海は少し浮かれた気持ちになった。
商店街を抜けて家電量販店の横の筋を一本入るとそのカレー店が見えてくる。昭和初期に建てられたであろう風格のある佇まいを見て、なんだか懐かしく思う。平成初期生まれの二人が昭和の味わいを真に理解しているかのかわからないが、こういった雰囲気は悪くない。かつて二人で訪れたことがあったかもしれない。そんな錯覚さえさせる風情だ。数人並んでいたがすぐに店内に案内され、中に入るといっそう食欲をそそるいい香りがしている。女は看板メニューのカレーを。七海はハヤシライスとサーロインステーキにするという。店内はとても繁盛しており賑やかだ。有名店なせいか観光客もいるにはいる。けれど、地元大阪の客もに多いように思う。中央に座るひときわ元気な四人組の楽しげなお喋りが耳に入ってくる。カップルなのか友人なのか、何かのパンフレットを指しながら感想を述べあっていた。映画でも見てきたのだろう。七海は何も聞こえていないふりをしながら、呪術師でなければ自分たちもあんなふうに友人と過ごす日常があったかもしれないと少し寂しい気持ちになった。女は何を考えているのか知らないが、頬杖をつきながら店内をきょろきょろ見渡していた。
「ハイ、お待たせしました」
明るい店員が二人の前に料理を並べたとき、一気に空腹だったことを思い出した。スパイスの刺激が鼻腔を突き抜け、脳を直接刺激されたみたいだ。食欲をそそるその香りを嗅ぐといてもたってもいられなくなり、二人は手を合わせてスプーンをとった。すぐに食べ始めてしまいそうになる己を戒め『いただきます』と合掌する。それからすぐにカレーを口に運ぶ。
「あっつぅー!」
「がっつくから」
七海が女を窘めるが、七海もまたハヤシライスをスプーン山盛りにすくい大口を開けていた。ちょっと珍しいこのカレーは、ルーがすでにご飯に混ぜられている。ドライカレーとリゾットの中間のような食感だ。創業以来変わらぬ製法と材料で作られていると誰かに聞いたことがある。丸く盛り付けられたカレーは真ん中がへこませてあり、くぼみに上手いこと生卵が乗っている。それを潰し、混ぜて食べるのだ。熱々のカレーとホットなスパイスだけでも十分に美味しいけれど、卵を混ぜることでまろやかになりいくらでも食べられる。途中で机に置かれたウスターソースをかけてみると、更に違った味わいでカレー無限ループとなる。
「東京ではあまり見ないですね」
「そうなん。関西では割と定番やで。知らんけど」
ウスターソースの酸味が加わるとまた味が変わって旨い。女が久しぶりに食べる懐かしい味を噛みしめていると、七海はよほど腹が減っていたのかそのほとんどをもう食べ終えていた。最後のステーキを口に入れようとしたとき、女がなにかを思い出したように口を開く。
「あ」
「なんですか」
「お肉をひとつもらいたかったなァ」
にやにや笑う女をよそに、七海はそのまま最後の一切れを口の中に放り込んでムシャムシャ咀嚼し、ごくりと大袈裟に飲み込んでみせた。それから「ごちそうさまでした」と言って紙ナプキンで口をぬぐう。
「七海のイケズ!」
「また来ればいいだけでは」
その〝また今度〟がいつになるかわからないではないかと、女はふてくされた表情で七海をじっと見つめた。
会計を終え店を後にすると、外は暗くなっていた。ギラつく夜の街へと姿を変えた繁華街を今から歩いて帰るのだ。長いアーケードの商店街は週末のせいか多くの人で賑わいを見せている。女は自分の住んでいた街を解説しながら歩いた。よく来ていたスーパーはここだと指差された先を見ると、黄色の看板とド派手なネオンが光り輝いていた。続いてコンビニの外から中を覗き、仲がいいという女性スタッフに手を振って挨拶をする。仕事で遅くなったときには絶対寄っていたのだという。たまに行くパン屋でのお気に入りはクリームパンだそうだ。休みの日は少し遠いスーパー銭湯へ行き、岩盤浴でぼーっとするのが好きだったらしい。それから女は、荷物を片付けるのに紐やガムテープがいると言い出し、二人で百円ショップに入った。チープな生活雑貨が所狭しと並んでいる。通い慣れた店の棚の間をスイスイ泳いで買い物かごにポイポイと放り込み、七海を文具コーナーに残したままレジに行ってしまった。会計をしながら七海を探しキョロキョロしている。六百四十八円。会計をしてやろうと七海が財布を出すと、手を押し返された。
「百均が似合えへんな、七海は」
「アナタにはよくお似合いで」
女がムッとして七海の背中をバシバシ叩いていると、レジのスタッフが笑っていた。
少しずつ喧騒が遠くなり、住宅街に入ると途端に静かになる。今夜はあの部屋で過ごすことになるだろう。安物のベッドでに二人で眠るのだろうか。あの空っぽの寂しい部屋で、もう一人にはさせないと七海は思った。