バタバタと慌ただしい足音が聞こえる。呪術師は忙しい。毎日絶え間なく発生する呪霊を祓っては投げ、祓っては投げ。それらは人間から発生しているというのであるから、自業自得の極みだと思う。それでも、我々は人助けの為にやるしかない。命ある限り。
大阪出張から三日。七海は落ち込んでいた。あの時の光景が頭にこびりついて離れない。女の表情や息遣い。零れ落ちる涙に、周りにいた人々。写真のように脳裏に焼き付けられ、毎日嫌でも反芻してしまう。あれから連絡をしていない。故意ではない。忙しさのあまりとにかく時間がなかった。仕事を一つこなせば、また次々と降り掛かってくる。それに、あちらから連絡がないのもおかしいと憤りを感じていた。だいたい、別れの言葉が『七海のアホ』である。いつも人を振り回して、何を考えているのかわからない。口だけは達者なのでああ言えばこう言うし、真剣に話していてもすぐにふざけるし。そう考えると、女の自分勝手な行動に腹が立ってきた。今頃どこで何をやっているのだろう。東京と大阪はこんなにも遠く離れていたのか。物理的な距離を恨んでもどうしようもないし、逆恨みにもほどがあるとわかっているのだが。
翌日、急遽七海は事務手続きのために午後から高専へ出向く予定となった。今どき手書きで、しかも印鑑が必要だというのだ。公的機関になればなるほどその傾向は強く、お役所仕事で余計な業務を増やすなと文句の一つも言いたくなる。面倒なことこの上ないが、普段様々なサポートをしてくれている補助監督たちを待たせるのは申し訳なく思い、午前中の仕事を終えたその足で高専へ向かった。これが終わったら今日は直帰する。その後で、今日こそ女に連絡を入れようと七海は思った。これでようやく落ち着いて考えることができる。
校舎の中はやけに静かだった。学生たちは授業中なのだろう。必要な書類に一通り目を通して印鑑を押したあと、休憩しようと自販機のあるベンチへ向かう。学生のころよく行ったことを思い出す。この時間は誰もいないはずだ。かつて深夜に彼女があの場所で家入と話し込んでいた事があった。何の話をしていたのかは知らないが、二人が肩を寄せ合いヒソヒソと楽しそうにしていたその姿を見て、普通の女子高生のようでなぜかほっとしたのを覚えている。懐かしい。今でもここは学生たちにとって特別な場所だろう。
歩みを進めていくと、遠くから話し声が聞こえてきた。やけに楽しそうだ。一年の虎杖と、もう一人はつい先日も聞いた、覚えのある声だ。
「えー、マジ⁉ ナナミンってそんな感じだったんだ!」
「そうやねん。だいたいムスーッとして機嫌悪くてな……。体術訓練の時、いつも私ボコボコにされて─」
得意げにペラペラと話す女の肩にそっと手を置いて七海が背後から声をかける。
「誰がムスッとしてるんですか」
「ギャー! イタァ! ゲェッ! 出たァ! 七海! なんでおるん⁉」
途端に女は大きな声で叫び、ベンチから転がり落ちた。それからさっと姿勢を立て直し、素早い動きで虎杖の後ろに回り彼を盾にして隠れた。女の驚きっぷりと息が詰まりそうなほどの緊張感溢れる七海の様子から、この二人の間に何かとんでもないことが起こっているに違いないとわかった。どうしようかと思案していると、女がそろりと虎杖の背後から顔をのぞかせる。そんな女を睨みつけながら、虎杖の後ろで逃げようと体制を整える女の手首を掴んで引っ張り出した。
「こっちのセリフです。何しにきた」
「五条さんは七海おらんって言ってたのに! 嘘つき!」
虎杖は七海が女性にこのような態度をとるとは思っておらず、驚いて固まってしまった。よほど仲が良いのか、はたまたとんでもなく仲が悪いのか。七海は本気で女に腹を立てているように見えるし、女はというと少しふざけているようにも見える。二人の関係性を計りかね、なんと声をかけてよいのか迷ってしまう。
「あのォ、ナナミンやめたげて?」
とりあえずまずは女性を守るべきだ。虎杖はそう考えて七海を制止した。女は七海に掴まれたまままの腕を指差しながら「ほらな?」と虎杖に言った。
「何が、ほらな、なんだ。学生に嘘を教えないでください。虎杖君、彼女ちょっとオーバーなので信じないように」
「ハイ、ワカリマシタ」
目が点になる虎杖を助けるかのように予鈴が鳴る。助かったとばかりに虎杖は、自分の身を守るためコーラのペットボトルを持ってさっさと教室へ向かって走り去っていった。その背中に向かって女が叫ぶ。
「いやァ! イタドリくん! 見捨てんといてーー!」
「ゴメンね、おねーさん! 先生には言っとく!」
無慈悲な対応だが、聡くもある。さすが未来を担う呪術高専の学生だと感心している場合ではない。五条にも言わないで欲しいし、七海と二人きりにもなりたくない。小さくなるその背中を見ながら女は項垂れた。
「そろそろ離してもらっても……?」
「逃げないのなら」
七海が手を離すと、女の手首にはくっきりと手型がついていた。逃げはしないがうつむいて押し黙ったままの女を七海はじっとりと睨み続けた。予鈴が鳴り終わり、本鈴が鳴る。まだ沈黙が続く。何をしに来たのかと言われれば、呼び出されて来たのに当の本人は不在で待ちぼうけを食っていたところだ。何か言わなくてはと思うが言葉にならず、何を言っても墓穴を掘りそうで恐ろしい。あの日言えなかったことを伝えるべきだとわかっているが気が重い。女がモタモタしていると七海が突然立ち上がり、飲み物を二本買ってベンチにどかっと腰掛けた。「どうぞ」と女にオレンジジュースを寄越す。子ども用か、と女は心の中でツッコんだ。こんな時でもやってしまう、関西人の悲しいサガである。声に出さかなっただけマシだと思ってもらいたい。女は七海と少し距離をとって座りなおし、手首をさすった。ちらりと七海に視線を送るとソーダの缶を持ってぼんやりと遠くを見つめていた。そのあまりのらしく無さに思わず吹き出しそうになったが、力なくしょんぼりと落ち込んでいるように見えたので女も少し悲しい気持ちになった。
「連絡せずにいて、すみません」
「別に。あの後大変やった。みんな集まってきて、おばちゃん一人めっちゃ怒ってたし、なんでやねんってツッコんだわ」
「同感ですが、あんなところで大声で泣くからです」
「七海が変なこと言いだすから悪い」
「本心を真摯に伝えたまでです」
穏やかな声色だが、その彫りの深い顔には悲痛な表情を浮かべ、目の下は薄らと隈どられていた。きっとこの数日、思い悩んでいたのだろう。その原因が自分であると女はわかっていたので、どう声をかけたらいいのか珍しく葛藤していた。自分を好きだという七海と、自分が七海を想う気持ちは同じものである。答えは出ているのに、関係を結ぶことが怖い。仮に付き合ったとして、楽しく過ごせるのだろうか。遠距離で。多忙で。呪術師で。でも想い合う人と一緒に過ごせたら、きっと楽しく過ごせるだろう。遠距離でも。多忙でも。たとえ生い先短い呪術師であったとしても。
「……返事を聞かせてくれないんですか」
その声色はすでに諦めを孕んでいる。ただ決着をつけたかった。この気持ちを宙に浮かせたまま生きていくことはできない。それは、女も同じ想いだった。ここで腹を括らねば、この先一生後悔を抱き続けることになる。大きく息を吸い込んで吐き出す。今から言うその一言が、これからの人生の色を変える。
「私も七海が好き」
晴れ晴れとした表情であっさりと気持ちを告白する姿をみて七海は気が抜けた。どうやら女に迷いは無いらしい。妙に回り道をしたが、ようやく道筋が見えた。七海は女に見られないようにうつむいて苦笑いしたあと、深呼吸をして口を開いた。
「では何も問題はない」
「ある。遠すぎ。新幹線代で家潰れる」
「銀行口座を教えてください」
「コンビニと彼女の家は近い方がいいって死んだひいじいちゃんが言うてた」
「結婚しましょう」
「縁談がある」
「私と結婚すれば破談になる」
「先方が乗り気でグイグイくるねん」
「今から籍を入れて既成事実を作れば問題ない」
「戸籍謄本がいるから今日はもう無理やで」
「もういいでしょう。行きますよ」
女は再び七海に手首をつかまれ、引き摺られていく。痛い放してというわりには、嬉しそうに駆け足で着いてくるから愛おしい。七海が道中に何やらスマートフォンを操作し始めたので女が背伸びをして画面を覗き込むと、大阪行きの新幹線を予約していた。必死に逃すまいとするその行動がなんだか可愛く思えて、女は七海の後ろでうつむいてクスクスと笑った。それから手首を掴む七海の手をむしるようにして振りほどき、大きく振りかぶって背中を平手でバチンと打つ。
「気合い入れといたで、七海!」
「……ッ! 力加減を知りませんか」
何がおかしいのかケタケタと腹を抱えて大笑いしている。結構痛かったので少し乱暴に女の手を引っ張ると、わざとらしくよろけて七海の胸に飛び込んできた。そのくせ女はぽっと頬を紅く染めるものだから、なんだか七海の方が照れくさくなって引き剥がすと、女は目をぱちぱちさせてポカンとした。七海がそっぽを向いてサングラスを直そうとしたら、女はお構い無しにその胸に抱きつき、腕を回してぎゅうぎゅうと力いっぱい抱きしめる。抱き返そうとしたが、咄嗟に周囲を見渡した。幸い誰も居ないようだ。女の背中側で行き場を無くしていた腕にそっと力をこめる。どれだけこの瞬間を夢見ていただろう。七海の腕にすっぽりとおさまる女を見て身体中の神経が甘く痺れた。女を抱きしめる腕に力を込めると、心臓の鼓動はさらに早くなった 。遠回りしたが、互いの想いが通じ合う奇跡を噛み締める。これからの生活が楽しみでたまらない。こんな感情は久しぶりだった。いや、生まれて初めてかもしれない。胸がいっぱいに満たされて、この世の全てが輝いて見える。このまま口付けて、舌を入れ、一つに溶け合いたい。昂る感情をなんとか抑え込もうと七海が必死になっていると、女が七海の胸の中で何やらもごもご言っていた。
「聞こえません」
「もう! 苦しい! 新幹線何時って聞いたの!」
背中に回された細い腕が解かれ、七海の身体を押し返す。今度は手首ではなく女の手をとり指を絡めた。小さな手がそっと握り返してきたので、七海はまたうつむいて笑った。背中がじんじん熱い。本当に、この女にずっと振り回されている。
校庭付近に差し掛かったとき、急に七海が手を離した。視線の先に演習をしていた東京校の学生たちが七海達に手を振っているのが見えた。それに応えて会釈をする七海をみて女は、肘で脇腹を小突いてからかった。
「後輩に慕われてるやん、ななみん」
「いい子たちばかりです」
学生たちは、足早にどこかへ向かう七海と見慣れない女性術師を見て、何かあったのかなと話した。でも二人がとても楽しそうに笑いながら歩いていく様から、良くないことでは無さそうだと思い直した。虎杖はやっぱりあの二人は仲が良かったんだと、微笑ましく見送った。
数時間後。大阪で戸籍謄本を取得し、その足でまた東京にトンボ帰り。とんでもない強行スケジュールだが、七海は少しも疲れを感じなかった。脳内麻薬ドバドバで今なら二十四時間戦える。足取りも軽く、鼻歌でも歌いたい気分だ。しかし、まずは腹ごしらえをしよう。
「アナタといると腹が減る」
「ツッコミでエネルギー消費が激しくなるんかな?」
「漫才コンビじゃないんですが」
「たしかにお腹と背中がくっつきそう」
先ほどから二人とも腹の虫がうるさいくらいに鳴いている。つい先日訪れたばかりの新大阪駅構内。今日は先日よりもまだ少し時間に余裕があるので、座って食事ができそうだ。駅構内の案内板を見ていると、色々な飲食店が入っていることがわかった。和食やイタリアン、カフェもベーカリーもなんでも選び放題だ。この駅の開発者は大阪名物を凝縮しようと目論んでいたに違いない。地図と店舗名を見る七海の表情は真剣そのものだ。
「ここだけで大阪がまかなえるやん」
「よかった。これでやり残したことはないですね」
「家と仕事を残してきてんねんけどなあ」
「おいおい回収しましょう」
女はニヤニヤしながら「七海が積極的にボケてくれてるようになった!」と明後日の方向に向かって喜んで、彼の背中をバシバシと叩いた。まるでどつき漫才だ。呪術師であるせいか女性にしてはパワフルな激励またはツッコミを受け止めながらも、何を食べようかと唸り続けている。ここまで色々揃えられると逆に選びづらい。決定回避の法則である。
「肉まん……。有名なやつですよね、あれ」
「七海、アレを電車内で食べることはテロ行為や。あと豚まんやからそこ間違えたら刺される」
「じゃあたこ焼き」
「だーかーらー、そういうの食べたらアカンねん! 乗ってる人みんなお腹すくやろ!」
「匂いを不快に感じる人もいるからでは?」
確かにおなかは空くだろうがその解釈は少し違うと思いつつ、七海はとにかく空腹だったのでフードコートを目指した。現地で選べばいいだろう。
***
我こそはと集まった大阪を代表する五店舗が入っているというフードコート。うどん、たこ焼き、串カツ、ビフカツ、ネギ焼き。たしかにどこも有名どころだと女はにやりと笑った。二人は少し悩んだがゆっくりしすぎたせいか、いつの間にやら新幹線の時間が迫ってきていることに気付く。そこで、すぐに提供され一瞬で食べられるという利点を考慮し、きつねうどんに決定。席について注文したら思惑通りすぐに出てきたそれは、琥珀色の関西風出汁のいい香りがした。そしてふっくらと炊き上げられたきつね色のお揚げが二枚。ほどよく散らされたネギがアクセント。湯気がたちのぼり少し熱そうだ。大阪うどんは丸い麺が特徴である。なんでも〝角を立てずに丸くおさめる〟ためらしい。なるほど大阪の人々の明るさを表しているようだと七海は思った。二人は声を揃えて『いただきます』と言うと、すぐに割り箸を割った。女は意外と器用なのか美しく真っ二つにしているのに対し、七海は術式のせいか中途半端なところで割れてしまっている。ふと女の方をみるといつの間にか、どこからともなく取り出したヘアクリップで髪をゆるくアップにしていた。白い手に桜貝のようなかわいらしい爪。きつねを箸で持ち上げ、今まさに食べようと大きく口をあけており、柔らかそうな口唇から白い歯がちらりと覗き、七海は性的な衝動に駆られた。大量に分泌されている脳内麻薬のせいで何もかもがおかしい。女は七海の不穏な視線に気づき、箸を止める。
「はよ食べな遅れるで」
「抹茶オレに引き続き、なぜその選択を……。スープからいきませんか」
「スープて。だしやろ! はよ食べ」
邪な気持ちを見抜かれた動揺か、軽くあしらわれたのが不服なのか、七海はムスーッと機嫌が悪くなり目を細めじっとりと女を睨みつける。
「ほらな」
「何がほらな、だ」
こんなやり取りでさえ心躍る。もう絶対離してやらないぞ決意を新たに、七海は器を持ち上げ一口飲んだ。昆布と削り節、それから煮干でとられた美しく透き通った出汁はこのまますべて飲み干せそうなほど旨い。味に深みがあってまろやかなのに、魚でとられた出汁だけあってパンチがきいている。丸いうどんはつるつるモチモチしていて食べ応えがある。餅のような弾力があるのに讃岐うどんのようにコシが強いわけではなく、よく炊いているせいか噛み切るとくったりして柔らかく箸が進む。お揚げからは甘辛い煮汁がじゅわっと染み出てジューシーだ。大阪特有の派手さはないけれど、麺、出汁、具材のバランスが良く、どれが欠けてもこのバランスは保てないだろう。二人は汗ばみながらふうふうと冷まし、うどんを啜った。疲れた心身に染みる優しい味。ここでうどんを選択した自分は間違いないのだと、七海は内心ガッツポーズだ。
「ごちそうさまでした」
新幹線で横並びに座ると、お腹が満たされたせいか一気に眠気が襲ってくる。朝一番に五条から東京校に無意味に呼びつけられ、いないはずの七海に連れ回され、しかもこれからその七海と結婚するらしい。今日一日自分の身に何が起こったのか整理すればするほど非現実的で、女はこのまま流されていいのだろうかと少し不安になった。隣で戸籍謄本をまじまじと見つめる男は、こんな型破りな行動をする人間ではなかったはずだ。かつて東京で一年ほど過ごしただけで知り合いなんてほとんどいないし、きっと呪いの質も違う。大阪弁は通じないだろうから、言葉の壁もある。女の頭の中に疲れと眠気のせいかよくない考えが浮かんでは消えた。つい、七海のように大きな溜息を吐いてしまった。すると突然、黙り込んでいた七海が口を開く。
「散々思わせぶりな態度で弄ばれ傷つきました。婚姻届を提出したら今日はうちに来てください」
「家帰らして……。事務作業が結構溜まってるねん」
女はもちろんそのつもりでいたが、これ以上七海が暴走してはたまったものではないと思い、申し出を拒否した。このまま七海の家にのこのこついて行ったら、身ぐるみはがされてめちゃくちゃになるだろうということが予想される。男は狼やねんから気をつけなあかんで、と今は亡き母に言われたような気がする。いや誰かテレビで言っていたのかもしれない。それとも本で読んだのだろうか。とにかくグイグイくる七海を何とかしなくてはならないことだけは確かだ。
「パソコン持ってきてましたよね」
「……絶対に何もせーへんって誓う?」
女が訝し気に言うと、すぐに返事が返ってきた。
「誓います」
「変なことしたら警察呼ぶで」
「絶対に変なことはしません」
今までに見たことがないくらいのキリッとしたいい顔で七海が言う。なんだか逆に信用出来ないあやしさを感じるものの、疲労がピークに達していた女はそのまま目を閉じて七海の肩にもたれ眠りについた。もうなるようになれ。次に気がついた時は東京だった。
新幹線を降りてすぐ、これから区役所へと向かう。来庁時間はとうにすぎているけれど、夜間窓口で預かりは可能なのだ。なんとしてもこのまま既成事実を作りたい七海は、女を逃がすまいと腕を組み歩いていた。タクシー乗り場へ向かう途中、女は喉が乾いたと言い出し、少し離れた場所に在る自販機へと立ち寄った。すると、見知らぬ初老の男性が女に近づき、何やら話しかけた。不審者かと警戒した七海が近寄ると、なんとここでも道を聞かれているではないか。人好きのする出で立ちなのか、話しかけやすいオーラでも出ているのか、この女は昔からいつでもどこでも誰にでも道をたずねられていた。七海が聞き耳を立てていると、ちょっとおかしなイントネーションの標準語で新幹線の乗り場をスラスラと案内している。道案内を終えると、お茶を飲みながら満足そうにこちらへ戻ってきた。
「東京でも道案内したで!」
「アナタのその柔軟性なんなんですかホントに……。恥ずかしいからやめてください」
「郷に入っては郷に従えって七海が言ってたジャン!」
女は弾けるような笑顔で言い、七海は大きなため息をついた。しかしいつもの七海とは違って、その顔には微笑みが浮かんでいる。これからの二人で暮らす生活を考えると、なんだかおかしくなって七海は声をあげて笑った。女は「やっぱり七海がおかしくなってる」と口元に両手を当ててアワアワと困惑するふりをした。今日は本当に、長い一日だった。
婚姻届を提出したら二人は七海の住む家へと向かう。手を繋いで買物に行ったり、休みの日は一日中映画をみたり、そんな楽し気な未来を予感しながら二人はタクシーに乗り込んだ。