『おはよう! 起きてる? 昼前にはいけそうやから見送りに行くわ!』
午前五時三十分。突然の着信で七海は目覚めた。反射的に応答ボタンを押してしまい、こちらが挨拶するのも待たず女が話し出す。朝イチから出していい声量ではない。受話音量を最低まで下げた時には、もうすでに電話は切れていた。まだ七海はうんともすんとも言っていないのだが。さらに電話が終わって十秒も経たぬうちにメッセージが連発する。
『新大阪近辺でお昼ご飯食べて解散にしよ!』
『十二時までには行く』
『場所は文学人形のとこ』
それから可愛らしいスタンプがひとつ。七海は了解の返信をいれた。既読にはならなかった。再び目を閉じてみても、もう眠れない。いつも唐突でこちらの都合はおかまいなし。マイペースというのか、自分勝手というのか。とにかく七海は昔からこの女に振り回されていた。二度寝したいのにモーニングコールの声が大きすぎてすっかり目が覚めてしまった。七海はベッドからのそのそと起き上がると、シャワーを浴びるためバスタオルを手に取った。バスルームの鏡に写った自分の姿をみて、高専の頃を思い出す。あの頃の七海は今よりもう少し背が低く、髪の分け目は反対で、体つきは華奢だった。ここ大阪でかつての同級生に再会し、十年前にタイムスリップしたみたいだ。でもあの頃の七海とは違う。姿かたちも心意も、七海を取り巻く環境も、何もかもが変わってしまった。思い返せば随分と遠いところまできたものだ。それでも彼女に会うとあの頃のように胸が高鳴る。どうしてだろう。捨てて、忘れて、しまい込んでいたはずなのに。排水溝に流れていく泡みたいに、この感情を流してしまいたい。これ以上を望んでも無意味だと自分に言い聞かせながら、荷物を整理した。まださようならさえ言っていないのに、心にぽっかりと大きな穴があいてしまったように感じる。
軽めの朝食をとり部屋に戻る。三日間滞在したホテルとも今日でお別れだ。窓から外を眺めると大阪平野が見渡せる。真新しいビルが立ち並び、駅前の再開発も進んでいるようだ。女はここでどのように過ごしてきたのだろう。七海の知らないところで、知らない誰かと共に学び、戦い、乗り越えてきた。七海が呪術師を離れた時、遠く離れた女の耳に入ったのだろうか。窓から眺める大阪の空は今日も天気が良く、朝日が眩しくて七海は目を細めた。七海はこの街を知らない。
早めに約束の場所に着いたが時間になっても女は現れず、スマートフォンを確認するとメッセージが入っていた。
『仕事が押して押して押しまくって今終わった。ごめん! 遅れる』
もしかしたら昨夜はあのまま仕事へ行き、夜通し働き詰めだったのかもしれない。そう思うと女を責める気にはなれず、『疲れているなら無理して来なくてもいい』と返事を送った。すぐに既読になって返信があった。
『新幹線の時間ギリギリになるかも。先なんか食べといて! ほんまに申し訳ない』
もういいと思ったのに、なんとかして来るつもりらしい返事に七海は自然と頬が緩んだ。こんなことで一喜一憂していてはこの先もたない。東京に戻ったらそう簡単に会えなくなる。ここでもう一度会いたいという気持ちと、このまま会えずにいたほうが楽になれるという気持ちがない交ぜになり、やり場のない焦燥感に駆られていた。
もうそろそろホームに向かおうかという頃。遠くから七海を呼ぶ声が聞こえた。声のするほうを見ると女が息を切らせて走っていた。ノーメイクで黒いVネックシャツに黒のパンツ。黒づくめの姿を見てやはり仕事だったようだと七海はほっと胸を撫でおろした。昨夜タクシーに乗って別れた女は、自宅に戻り着替えて仕事へ行った。きっとそうに違いない。
「ハァッ、ご、めん……!待たせて。ひーッ、全力ダッシュ、きっつぅー」
肩で息をする女の額から汗が滴っている。七海はハンカチを女に渡してやった。
「いやいや、高そうなハンカチ汚れるからいいって」
女は手を横に振り受け取らなかったので、七海は額からこめかみまで汗を拭ってやった。顎からぽたりと汗が垂れる。やめてと言っても聞かない七海を制するのは諦めて、女は拗ねた子どものように口を尖らせながらされるがままになった。大人しくしているのをいいことに、七海はそのまま女の細い首にハンカチを下ろした。たらりたらりと汗が流れ落ちてくる。
「上を向いて」
「ん」
首から鎖骨に流れる汗を拭く。自分が始めたこの行為に七海はひどく昂揚していた。これ以上はまずい。何か衝動的な行為をしてしまう前に落ち着かなくてはならない。
七海は深呼吸をして、視線を少し落とすとこう言った。
「右上腕にひどい打撲痕」
七海がそう言って女の二の腕に触れる。女は腕を上げて怪我の具合を確認した。見つけるなり「ゲッ! ほんまや!」と顔を顰めて身体を捻り、反対の手で内出血の痕を撫でた。袖口から汗ばんだ脇がちらりと見える。普段日が当たることのない場所だからか、それともよく手入れされているからなのか、白くてきれいな脇の下は美しく見え、じわりとかいた汗が煌めいていた。七海は否応なく心臓の鼓動が早まっていくのがわかり、これはただの皮膚の一部だ冷静になれと己に言い聞かせた。
「お母さん、湿布持ってない?」
「あります」
「あるんかーい!」
「お母さんじゃないですが、どうぞ」
「フツーそんなん持ってる⁉ まあでも、ありがとう。貼って隠しとこ。はい」
女はいつもの如くズッコケたのち、ぐっと七海の眼前に腕を差し出した。痛々しい大きな内出血が広がっている。呪霊と交戦したのだろう。いくつかのかすり傷も見えた。
「貼れ、と」
「自分じゃ貼りにくいもん」
─人の気も知らないで……。
七海はため息と共に、なんとも言えない気持ちも吐き出した。ベージュの湿布を貼ると傷は目立たないが絶妙に怪しい。しかし女は全く気にしていないようで、早く早くと七海急かして背中を押した。確かにもう残された時間は少なかった。
***
新大阪駅の構内。入場券をひらひらさせながら女は七海を先導した。もうすぐ別れの時間だ。女の薦めるベスト大阪土産オブザイヤーを受賞したという、やさしい甘さのみるく餡が有名な饅頭をいくつか買って、今回の出張土産とする。スーツケースを引きながら新幹線のホームへと向かう途中、ふと辺りを見回すと通り過ぎる人々の手には緑のロゴが書かれたホワイトとオレンジの紙カップ。老若男女みんな何かを飲んでいる。あれはいったいなんだろう。
「フフフ、気になっちゃいますか、七海クン」
七海の視線の先にあるものを察した女が腕を組み、得意げな表情をしていた。どうやらあれが何か聞いて欲しいらしい。時間はもう少しあるので、聞いてやることにする。
「有名なんですか」
「モチのロン! あれを見よ!」
ババーンといいながら女の指差す方向に視線を向けると、小さなジューススタンドが見えた。看板には色とりどりの果物、野菜。たくさんの人が列に並び、それを買い求めている。あれほど行列なのに店員はテキパキと捌いて次々と紙カップを手渡していた。客は一口飲むとみんなにこにこ笑顔になった。なるほど、と七海は頷いた。
「フルーツのスムージー」
「ミックスジュース! いちいちオシャレに言い直すのやめてくれへん?」
「それは失礼。東京から来たシティボーイなもので」
「ボーイって歳ちゃうやろ!」
いつものズッコケと共に、今日は女が七海にツッコミを入れる。大阪三日目にしてボケもこなすとは七海もなかなかできる男だ。女は七海に待っているよう伝え、さっさと並んでジュースを二つ買ってきた。大きい方のカップを七海に差し出す。
「今日のところは私が奢ったるわな」
恩着せがましい言い方だが、ジュース一杯奢られたところで今までのツケはチャラにならない。それにまたすぐにでも次があるような口ぶりが可笑しくて、七海は思わず吹き出し笑いをした。女は突然笑いす七海を気味悪がって顔を覗き込んだ。今日の七海は一味違うようだ。まあとにかくまずはジュースを飲もうではないか。二人は口を揃えて『いただきます』と言った。不思議とまたすぐに会えそうな気がした。七海が一口飲む。女はその仕草をじっと見つめながら、目を輝かせ感想を求めている。
「思ったよりさっぱりしてる」
「おいしいやろ?」
「美味しい。冷たくて爽やかですね」
女は嬉しそうにウンウンうなずいた。そしてガッツポーズをして見せ、白い歯を出して笑った。ここ数日で何度か見た光景だ。ごくごくと喉を鳴らして飲む七海を満足そうに女が見つめる。大阪名物ミックスジュース。店によって味わいが違い、それぞれの味を求めて飲み歩くのも悪くない。やったことないけど。ワハハと女が笑っていると、ズズズとストローを吸う音が聞こえた。
「飲み干しました」
「はやっ!」
「アナタのはなんですか」
「抹茶オレ」
「えっ、邪道……。本当に?」
七海が手を出したので、女は飲みかけのコップを渡す。一口飲んで、女を疑いの眼差しで見やる。本当に抹茶オレだった。
「信じられない。なぜその選択を」
「いーやろ! 抹茶が好きやねん! それに私はいつでも飲めるし」
ふふんと鼻を鳴らして自慢げに女が答える。歩きながら飲むのは行儀が悪いと知りつつも、迫り来る出発時間に備え二人はホームへと急いだ。新大阪駅に集まっている人々はどこから来たのだろう。またこの街に帰ってくるのだろうか。それとも、自分のあるべき場所へと戻るのだろうか。女が抹茶オレをちびちび飲みながら呟く。
「七海にもっとコッチの美味しいもの食べて欲しかったなあ」
「連日かなり食べましたよ」
また来ますと言いたかったが、次はいつ来られるかわからない。関西には京都に拠点があり、関東とは基本的に分業制だ。もうしばらく会えないかもしれないが、それは仕事上の話であって、友人に会うために訪れることはできる。それを伝えてもいいのだろうかと七海は悩んでいた。久しぶりに大阪へ行くから会おうとは言えても、また来週食事へ行こうと誘う間柄ではないと思ってしまったからだ。悶々としながらも二人は並んで歩き、食事の思い出を語り合った。自然と歩くペースが遅くなっていく。きっと別れを惜しんでいる。七海はそうであってほしいと思った。ベンチに並んで腰掛け新幹線を待つ。無言の時が流れる。
いよいよ七海が乗る予定の新幹線がホームに進入してきた。あと数分。二人は静かに立ち上がり、扉の前までゆっくりと歩いた。
黙り込んでいた七海が意を決して口を開く。
「付き合ってください」
「真昼間からお酒はナシやで」
「違います」
「新喜劇って今からやってんの?」
「そうではなく」
七海は一歩踏み出し女の手首を掴んだ。びくりと肩を跳ねさせて女が驚いた素振りを見せる。
「キャーッ! 暴力反対!」
身をよじらせて振りほどかれた七海の腕が力なく垂れる。そして大きな溜め息を吐き、頭を抱えた。いつものわざとらしい反応に腹が立つ。時間がないというのに。
「茶化さないでください。男女交際的な意味です。アナタわかっているでしょう」
女を見ると珍しく神妙な面持ちでこちらを見つめていた。
「……わかってる」
「もう乗らないと。返事を聞かせてください」
「ありがとう。嬉しいけど、無理やねん」
「なぜ」
「結婚の話がある」
「聞いてない」
「今言うた」
「……わかりました」
女はそっぽを向いたきり七海の方を見なくなった。そして小さな声で一言、こう言った。
「……ごめんな」
しかし乗り降りの雑踏に掻き消え、七海には届かなかった。女は謝ったきりうつむいて、肩をわずかに震わせている。間もなくの発車を知らせるアナウンスが流れた。七海は新幹線に足を踏み入れた。振り返り、女を見る。
「困らせるつもりはなかった。独りよがりだと思いますか。どうしても言わずにはいられなかった。アナタのことが好きです」
返事はない。
「何も言ってくれないんですか」
女は首を横に振る。
「また連絡します。いいですよね」
小さくうなずく。女の足元にぽたりと水滴が落ちた。
ゆっくりとドアが閉まる。もうしばらくこちらに来ることはない。
七海がドア越しに女を見る。女もまた顔を上げて七海を見た。いっぱいに溜まった涙が一粒流れていく。
─ああ、泣いている。明るく元気な君が、何年も前からずっと好きだった。泣かせてしまうくらいなら言わなければよかった。このままの関係で、友達として、同僚として繋がりがあれば、いつかまた会えたかもしれないのに。最後に笑った顔が見たかった。こんな別れになろうとは。
女は拳を力いっぱい握りしめ、涙をぽろぽろと零した。泣いている女を置いて、それでも新幹線は発車するらしい。七海の心が引き裂かれるように痛む。あんな顔をさせたかったんじゃない。後悔するがもう遅い。焦って言うべきでは無かったのだろう。完全に悪手だったとわかっているが、腹の底から湧き上がるような衝迫に抗えず、口に出してしまったのだ。悲嘆にくれる七海をドアの向こう側の女が縋るような目付きで見据える。
そして、大声で叫んだ。
「七海のアホーーー!!」
ドア越しにでも聞こえたその言葉に、その視線に、焼けるように痛む胸を七海はぐっとおさえた。ホームにいた人々が大声に驚き、ギョッとしてこちらを見ている。わんわんと声をあげて泣く女に、隣の高校生カップルが駆け寄り肩を抱いて慰める。反対側で新幹線を待っていたOLも何事かと駆け足でやって来た。どこからともなく現れた中年の男女が『ねえちゃんどうしたんや⁉』と声をかけている。ホームにいる駅員は非難するような目で七海を見ていた。皆口々に女を心配しているようだ。そしてなぜか集まった人々からドア越しに七海は睨まれた。次の瞬間、見知らぬ中年女性が声を張り上げた。
『女の子泣かすとは何事や!』
そして新幹線は静かに発進した。そのままスピードを上げ、すぐに女は見えなくなった。七海は項垂れ、小さな声で呟いた。
「なんでやねん……」
それはもう、立派なネイティブイントネーションだった。
七海はまた、うつむいて笑った。